第51話:終焉を告げる者
街を出てからの足取りは、意外にも軽いものだった。腹の底から込み上げてくる不可思議な感情は、私の進むべき道を強く示しているようにも思えた。
守るべき日常。ゲオルグさんが命を懸けて守ろうとしたもの。それら全てを、私は今、背中に背負い込んでいる。
月明かりも届かない夜の街道を、私はただ一人、王国軍が進軍してくるであろう道を一歩ずつ踏みしめるように歩みを進めた。
本来であれば、街へ向かうはずの道を逆行する。足元に転がる小石の感触や、森から響く獣の鳴き声さえ、今の私には酷く遠い世界の出来事のように感じられた。
むせ返るほどの死の気配は、いつの間にか私の中からあふれ出るものへと変貌していた。
数日後、私は王国軍が通過するであろう峡谷の入り口に辿り着いた。
切り立った崖が左右に迫るこの場所は、数万の軍勢が通行するにはあまりに狭く、待ち受けるには最適の場所だ。私の内側に芽生えた「死を見通す力」が、この地形の歪みを正確に告げている。
私は道端に置かれた大岩の影に身を隠し、街道を見下ろした。
まだ敵の姿はない。しかし、遠くの地平線が微かに揺れている。数万の軍勢が巻き上げる土埃が、静寂を切り裂いてこちらへ向かっているのだ。
「……さて」
彼らがこの峡谷の入り口に差し掛かるまで、あとわずか。私はその時が来るのを、冷え切った心で静かに待ち続けた。私にできることは、ただ死を振りまくこと。そのために必要なのは、軍勢の数でも、強固な防衛線でもない。
たった一人の、止まることのない意志だけだ。
地響きが少しずつ、現実味を帯びて大きくなっていく。私は深く息を吸い込み、ゲオルグさんやディランさんの顔を思い浮かべる。
……さあ、始めよう。これは誰でもない、ただの私の八つ当たりだ。
大地の揺れは次第に激しさを増し、足の裏から私の身体へと、数万という命の重みが直接伝わってくる。峡谷の入り口を吹き抜ける風が、鉄の匂いと泥の臭いを運んできた。数万の軍勢。その先陣が、ついに視界の端に捉えられる。
整然とした行軍。旗印がはためき、重厚な鎧が擦れる金属音が峡谷にこだまする。彼らは自分が殺しに行く街の、その入り口で自分たちが死ぬなどとは露ほども思っていないだろう。その慢心が、彼らの命を刈り取るための最初の隙となる。
「……八つ当たり、でしょうね」
私は小さく呟き、自嘲気味に口角を上げた。今の私を動かしているのは、誰かのための高潔な義務感ではない。仲間を奪われ、日常を踏みにじられたことに対する、制御不能なほどの冷たい憤怒だけだ。
私は大岩の影から抜け出し、あえて峡谷の真ん中へと堂々と足を踏み入れた。
武器も持たず、防具さえ身につけていない若者が一人、数万の軍勢の正面に立ちはだかる。その異様な光景に、先頭の斥候たちは馬の手綱を引き絞り、呆然と動きを止めた。軍の列が止まり、数万の視線が一点に集中する。
私は深呼吸し、静まり返った峡谷に声を響かせた。
「私の名前はアイン。今から貴方たちに終わりをもたらすものです」
その言葉が届いたのか、あるいはただの狂人の戯言だと判断されたのか。先頭の兵が罵声を上げながら馬を走らせ、私を突き飛ばそうと突撃してくる。私は動かない。ただ、ゆっくりと手をかざして見せる。
次の瞬間、彼の肉が裂け、呼吸が遮断される。兵はそのまま馬から叩きつけられ、音もなく崩れ落ちた。
返り血が私の頬を温かく濡らし、舞い上がる土埃と混じり合って濃厚に立ち込める。その凄惨な光景に、軍の先鋒がどよめいた。
突撃してきた兵の成れの果て――地面に投げ出され、痙攣して動かなくなったその様を見て、周囲の騎兵たちが馬を止め、武器を構えた。先ほどまでの侮蔑に満ちた視線は霧散し、代わりに得体の知れないものに対する根源的な恐怖が、彼らの顔を歪めている。
「……何者だ……っ、貴様、一体何をした!」
隊列の指揮を執っていた中隊長らしき男が、信じられないものを見るような目つきで私を射抜いた。彼の声は大きく震えている。剣を握る拳が白く浮き上がり、鎧の下で体が硬直しているのが見て取れた。
数千の視線が、私の細い指先一点に集中する。
「名前は言ったはずですよ」
私は静かに答えた。感情の波一つ立てず、ただ淡々と、死の淵に立つ彼らを見据える。
「ですが、覚える必要はありません」
再び私が指を軽く跳ね上げると、今度は私の前方にいた一団が、盾を構える間もなく、まるで目に見えない糸で操られたかのように、次々と鞍から崩れ落ちた。鎧に傷一つないにもかかわらず、その命だけが虚しく霧散していく。
死の旋律が奏でられ始めた。私は感情を排し、ただ結果だけを彼らの喉元へと運んでいく。これは戦いではない。これは、私の手による、一方的な収穫だ。
私は大きく息を吸い込み、魂の底から染み出す冷たい意志を言葉に乗せた。
「汝、生ある者よ。終焉という名の鏡を覗け」
瞬間、世界から色が剥がれ落ちた。
空を染めていた青も、兵たちの鎧を輝かせていた太陽の光も、全てが灰色のモノクロームへと変貌する。峡谷を駆け抜けていた風の音さえも途絶え、耳に届くのは、世界そのものが停止したかのような重苦しい静寂だけだ。
「今こそ還る時なり……汝、死を想え」
数万の軍勢が、まるで時を止められたかのように硬直する。
彼らの鼓動、呼吸、思考――その生命活動のすべてが、強制的に断ち切られた。彼らの身体は、まるで最初から命など宿していなかったかのように、虚ろな脱け殻となって崩れ落ちていく。
死の概念そのものが、峡谷に顕現する。
そこには苦しみも、断末魔も存在しない。あるのはただ、最初から定められていた終わりへの回帰だけだ。
私は一歩、また一歩と、屍の山を平然と踏み越えていく。灰色の世界の中で、私の歩む道だけが、ただ静かに続いていた。
死の概念が峡谷を支配し、数万の軍勢は断罪されたかのように消え去った。
風さえも凍りつく静寂の中、ただ一人、最後尾にいた伝令兵だけが、その魔の手から逃れていた。彼は腰が抜け、泥にまみれながら、呆然と目の前の光景を見つめている。
私が歩むたびに、灰色の世界が波紋のように広がり、命の光を吸い上げていく。屍の山を越え、私はその唯一の生存者の前で足を止めた。
彼が恐怖に顔を引きつらせ、ガタガタと震えながら後ずさりする。その瞳には、人間ではないものを見た者の絶望が宿っていた。
「……帰りなさい」
私は静かに告げた。世界に少しずつ色が戻り始め、遠くで風の音が再び響き始める。
「王に伝えて。ハーストへ向かえば、次はこの峡谷のような静寂が、王都の全てを塗り潰すことになる、と」
私は彼を一瞥もせず、背を向けた。
彼が死に物狂いで馬を走らせ、遠ざかっていく蹄の音が聞こえる。数万の命を奪ったはずの私の心は、驚くほど凪いでいた。
これでいい。私は一人、誰にも見られることのない静かな道を引き返した。
その足取りは、先ほどよりもずっと軽く、そしてどこまでも冷たかった。




