第50話:数万の足音と、一つの約束
エドさんが苦渋の表情を浮かべ、門から政庁舎へと駆け込んだ。その腕の中では、レインさんの体が人形のようにぐったりと力を失っている。泥と血に汚れた彼女を、エドさんはまるで壊れ物を扱うように抱え上げ、医務室へと雪崩れ込んだ。
「誰か……! 誰か!」
エドさんの叫びに応じ、医務室から医師が飛び出してきた。レインさんの傷を一目見るなり、事務机の書類を無言で掃き捨て、彼女を台の上へ乗せるよう指示する。医師は手際よく彼女の服を切り裂き、深く刺さった矢の状態を確認すると、即座に処置を始めた。
その様子を見届けた後、私たちは重い足取りで執務室へと戻った。
先ほどまで街の運営をいかに維持するかを話し合っていたこの場所は、いまや全く別の死に絶えたような空気に覆われている。椅子に座る気力さえ失った者たちの沈黙。私はいつもの長椅子に身を預け、冷え切った指先で自分の肘を抱きしめた。
ゲオルグさんが失われた。そして、それを追うようにして数万の軍勢が迫っている。
ガルボさんは机の上に広げられた地図を、射抜くような鋭い眼差しで見つめていた。
「……数万だ。ハーストの全兵力をかき集めても、三桁には届かない」
ガルボさんの声は、驚くほど冷静だった。
「防衛線は、最初から存在しないに等しい。王国軍が本気でこの街を地図から消そうとしているのなら、籠城も迎撃も無意味だ」
「じゃあ、どうしろってんだ!」
エドさんが、返り血のついた拳で机を叩いた。彼の瞳には怒りと、それをぶつける先のない悲しみが渦巻いている。
「あいつらが……代表が、俺たちに『日常を守れ』と託したんだ! それを、あの王国軍の連中に踏みにじらせていいわけがないだろう!」
「……そうだな。俺も、同じ想いだ」
ガルボさんはエドさんの怒りを受け止め、ゆっくりと立ち上がった。
「王都から三~四日ってところか。住人の避難くらいはできそうだが……この街を捨てたところで生きていける場所もない。そもそも捨てる気すらないやつらばかりだろうけどな」
部屋の中に再び沈黙が落ちた。
私はゆっくりと口を開き、地図の上に指を置いた。そこには、王国軍が通過するであろうルートの要所が記されている。
「……この街の日常を守るために、街そのものを明け渡すことができないのなら、別の方法で彼らの足を止めるしかありません」
私の言葉に、ガルボさんは深く頷いた。
「っていっても、数万の軍勢相手に出来る事なんか……」
その言葉を遮るように、扉が勢いよく開け放たれた。蝶番が悲鳴を上げ、乾いた音が室内に響き渡る。
視線を向けると、そこにはふらついた様子のレインさんが立っていた。
壁に手をかけて辛うじて立ち、肩で激しく息をしている。包帯が巻かれた腹部は赤く滲み、その顔色は死人のように青ざめていた。
「私、は……戦う……」
「レイン!」
エドさんが即座に駆け寄る。ガルボさんもまた厳しい表情で立ち上がった。
「馬鹿な真似をするな! その傷で立っていられるはずがないだろう、すぐに医務室へ戻れ!」
二人が必死に彼女を制止しようとするが、レインさんはその手を振り払った。床に崩れ落ちそうになりながらも、彼女は血走った瞳で私たちを見据える。
「死んでも……構わない。話さなくてはならないことがあるの」
彼女の迫力に、エドさんも言葉を失い、その場に固まった。レインさんは荒い息を整え、王都での出来事を語り始めた。
ゲオルグさんたちと共に王都へ辿り着いた瞬間、彼らは包囲された。
ゲオルグさん以外の全員は即座に拘束され、王の前に引き出されたという。
王はハーストの独立を認めるという甘い言葉で、恭順を要求した。
しかし、ゲオルグさんは迷わずそれを断った。
その瞬間だった。レインさんの背後にいた冒険者の首が、音もなく斬り落とされた。
血飛沫がレインさんの頬を濡らしたという。
王は冷酷な笑みを浮かべ、ゲオルグさんに再度、全く同じ要求を突きつけた。
次に命を奪われたのは、ディランさんだった。
無慈悲な処刑はその後も数回繰り返された。王はゲオルグさんの心を折るためだけに、一人ずつ、ゆっくりと仲間の命を刈り取っていったのだ。
「……最後は、私の番だった」
レインさんの声は微かに震えている。包帯の隙間から覗く肌は、雪のように白い。
「……ゲオルグさんは、衛兵に体当たりをして武器を奪ったの」
悲痛な色を乗せるその声は、もう枯れ果てていた。
「私を縛っていた縄を斬って……『逃げろ』と、そう叫んだわ。私が走りながら、振り返った時……」
彼女はそこで一度言葉を切り、血を吐くような音を立てて呼吸を整えた。その目には、あの時の光景が今も焼き付いているのだろう。
「ゲオルグさんの背中に……深々と、剣が……突き立てられていたの」
言葉が途切れると同時に、執務室の空気が一変した。
重苦しい沈黙が支配する中、エドさんは拳を白くなるほど強く握りしめ、言葉を失って震えている。ガルボさんもまた、机の上の地図を掴んだまま微動だにしない。
先ほどまであったはずの「どう動くか」という戦略的な議論は、ゲオルグさんという圧倒的な存在の欠落によって跡形もなく消え去っていた。死の冷気が、廊下から、あるいは窓の外の闇から、この部屋を静かに侵食していく。
「……何か、策はないのか」
ガルボさんが絞り出すように呟いた。しかし、返ってくるのはエドさんの激しい呼吸音と、レインさんの震える吐息だけだ。
怒り、悲しみ、そして恐怖。出口のない感情が渦巻き、議論は堂々巡りを繰り返す。何千もの兵を前にして、我々が出せる答えなど、どれも虚しい気休めに過ぎなかった。
時間は無慈悲に過ぎ、深夜の鐘が遠くで鳴る。それでも結論は出ない。
ふと、エドさんがレインさんの異変に気づいた。彼女の意識は既に限界に達しており、支えの手を離せば崩れ落ちそうなほど弱りきっていた。
「……話は分かった。今は、それ以上何も言うな」
エドさんはレインさんの言葉を遮ると、乱暴なほど優しく彼女の体を抱き上げた。そのまま無言でドアへと向かう彼に、ガルボさんは何かを言いかけたが、やがて力なく口を閉ざした。
決定的な方針も、希望も、何も見つからないまま。我々は、崩れゆく日常を抱えたまま、この重苦しい夜をただやり過ごすことしかできなかった。
――ただ一人、私を除いて。
深夜、政庁舎の喧騒が遠ざかると、私は自分の身支度を整えた。誰に告げることもなく、ただ静かに街を脱する。ゲオルグさんの「覚悟」を継ぐとはどういうことか、その答えは私の内側にだけあった。
冷たい夜風が頬を打つ。街の裏通りを選び、門を目指して足早に歩を進める。背後に広がる街の灯りが、酷く遠いもののように感じられた。
路地裏の影から抜け出そうとした、その時だった。
「……こんな夜更けに、どこへ行くんですか?」
背後からかけられた声に、心臓が跳ねた。
立ち止まり、振り返ると、そこにはミリアさんが立っていた。街灯の光さえ届かない暗がりの中に、彼女の白い顔だけがぼんやりと浮かび上がっている。
「ちょっと、野暮用……ですかねぇ」
私は努めて軽薄に、にへらっと笑って見せた。
しかし、ミリアさんはその表情に惑わされることもなく、静かに私へ歩み寄ると、その華奢な体で私を優しく抱きしめた。温もりと、わずかな花の香りが鼻先をかすめる。
「……どうしても、行くんですか?」
その問いかけに、私は言葉を失った。否定も肯定もできない沈黙が、二人を包み込む。
ミリアさんは私の返事を待たずに、そっと腕を解いた。そして、泣き出しそうなのを必死に堪えるような、けれどどこまでも優しい笑みを私に向けて言った。
「アインさんは、必ず帰ってきてくださいね」
その言葉は、命令でも懇願でもなく、ただの約束のように響いた。
私は何かを言いかけ、結局何も返せないまま、踵を返して夜の闇へと足を踏み出した。ミリアさんの視線が背中に刺さるのを感じながら、私はただ、街の境界線を目指した。




