第49話:喪失の記録
あれから九日の時が流れた。
最初は、ゲオルグさんがいなくなったことで街の運営は狂った時計のように噛み合わなかった。代表の決断を待つ書類は山積みになり、現場の判断は迷走し、街の至るところで摩擦の音が聞こえていた。
しかし、人とは適応する生き物だ。
代行となったガルボさんを中心に、ミリアさんが血の滲むような調整を続けた結果、街の歯車は再び回り始めた。混乱の渦中にあった物流も、今では以前よりも効率的に管理されている。街の人々も、不在の代表に縋ることをやめ、それぞれの生活を維持するために自律し始めていた。
そんな九日目の朝、私が政庁舎の扉を押し開けると、そこにはひときわ荒い呼吸のエドさんが立っていた。
ディランさんとレインさんがゲオルグさんについていった今、エドさんが引き受けている役割は計り知れない。街の見回りに揉め事の対応、そして住民たちの不安を抑え込むための駆けずり回る日々。彼の肩に掛かる泥と埃が、この九日間がいかに過酷であったかを雄弁に物語っている。
「……ったく、朝からずっと駆けずり回って、さっきようやく一段落したところだ。現場はてんてこ舞いだよ」
エドさんは私に気づくと、椅子に深く沈み込みながら大きな溜息を吐いた。そのままガルボさんの方を向き、手元に握りしめていた報告書を机に放り出す。
「代行、街の防衛体制についてだが、ディランたちがいなくなった穴を埋めるために、各持ち場を倍の人数で回している。だが、それでも人手が足りない。門の警備も、市場の監視も、少しでも気を抜けばすぐに綻びが出るような状況なんだ」
エドさんの報告に、ガルボさんが苦々しげに頷く。
彼の努力の結果、街は自律する強さを身につけたが、同時にゲオルグさんという絶対的な支柱を失ったことで、運営維持そのものが綱渡りのような緊張感に包まれていた。
私はいつもの長椅子へと向かい、静かに腰を下ろす。
街がうまく回るようになったからこそ、その正常な日常を維持するための負荷が、現場で働くエドさんたちに重くのしかかっているのだ。街の歯車は回っているが、それを支える人々の疲労は、確実に限界へと近づいていた。
「……いつになったら帰ってくるんだあいつらは」
その言葉は、ガルボさんの口から漏れた。普段は代表の座を預かる者として気丈に振る舞っている彼だが、山積みになった書類と、エドさんの切迫した報告を前にして、つい本音がこぼれたのだろう。
部屋の中に重苦しい沈黙が落ちた、その瞬間だった。
政庁舎の重い扉が、蝶番が悲鳴を上げるほどの勢いで叩き開けられた。そこに立っていたのは、顔面を蒼白にさせた一人の衛兵だ。彼は息を切らし、手すりにすがりつくようにして部屋へ雪崩れ込んできた。
「代行! 北門より至急の報告です!」
ガルボさんが椅子を蹴るようにして立ち上がる。エドさんも顔を上げ、疲労をかなぐり捨てるように鋭い眼差しを向けた。
「何があった。敵襲か!」
「いえ、そうではありませんが……! 門の外に、レインが……っ!」
その名を聞いた瞬間、私の背筋に冷たいものが走った。
「レインが……?」
ガルボさんの問い詰めるような声に、衛兵は震える声で続けた。
「レインが……背中を弓で射られていて、重傷です! 今、正門のそばで崩れ落ちるように倒れ込んで……!」
部屋の空気が凍りついた。レインさんが一人で、しかも重傷で戻ってきた。その意味を考えるより先に、身体が動いていた。
「ミリア、医務官を! エド、俺と来い!」
ガルボさんの叫びと共に、政庁舎は瞬時に戦場のような喧騒に包まれた。私は椅子から転がり落ちるように立ち上がり、誰よりも先に飛び出した。
石畳を叩く足音が、先ほどまでの静寂をかき消していく。心臓が痛いほどに脈打つ。北門へ向かう道すがら、通りかかった街の人々が私たちの慌ただしさに不安げな視線を向けるが、それに応える余裕など誰にもなかった。
門にたどり着くと、そこには痛ましい光景があった。
泥と赤黒い血に汚れ、呼吸さえも途切れ途切れのレインさんが、衛兵に支えられて座り込んでいる。背中には、彼女が愛用していたはずの軽装備を突き破り、深い傷を刻み込んだ矢が突き刺さっていた。
エドさんが獣のような声で名前を呼び、レインさんの傍らに膝をつく。
レインさんは、焦点の定まらない瞳をゆっくりとこちらに向けた。喉から血の泡を吐き出しながら、彼女は震える手で、懐から何かを絞り出すように差し出そうとする。
「……ゲオルグ……さんが……」
かろうじて漏れたその名前。
和平交渉に赴いたはずの彼女が持ってきたのは、救いか、それとも――。私は、戦慄に震える指先でその手を見つめていた。
彼女の指が力なく開き、泥の中に落ちたのは、ゲオルグさんの外套の引きちぎられた布片だった。そこにべっとりと付着した赤黒い血。その塊を視界に入れた瞬間、私の心臓が重く沈んだ。
「死、んだ……」
レインさんの唇が、かすかにそう形作った。
そんなはずはない。頭では必死に否定した。彼は戻る。あの日、私に託した言葉は、生き抜くための約束だったはずだ。日常の残像を必死に掴もうとする私の理性に、別の何かが抗う。
それは、私の本質である『死』という概念の疼きだった。
レインさんが差し出した血の布片。そこから漂うのは、単なる怪我の匂いではない。命という灯火が完全に消え去った後の、絶対的な虚無の残滓。
私の感覚は、街の境界線を越えた遥か彼方で、一つの個が世界から引き剥がされた空虚を、残酷なまでに鮮明に捉えていた。誰もが信じまいとするその事実を、私だけがその『概念』として、誰よりもはっきりと理解してしまっている。
――消えた。この世界から、彼という存在が完全に零れ落ちたのだ。
「……嘘、だ」
祈るような私の呟きを遮るように、レインさんは血を吐きながら、さらなる破滅を告げた。
「……それだけ……じゃない。数万の……王国軍が……このハーストへ……向かって……」
その言葉と共に、彼女は糸が切れたように意識を途絶えさせた。
周囲の衛兵たちが戦慄に凍りつく。数万の軍勢。ゲオルグさんの死。平和という仮面の下に隠されていた、この街の終わりの輪郭が、静寂の中で残酷なほど明瞭に浮かび上がっていた。




