第48話:背中を見送る者たち
翌朝、東の空が白み始めると同時に、街は当たり前のように目覚めた。
路地裏のパン屋からは薪が燃える匂いが漂い、井戸端では老婆がせっせと水を汲んでいる。狭い路地をせわしなく子供たちが駆けていき、商人たちが店の雨戸を外す音が、乾いた音を立てて響く。
何も知らない街の人々にとって、今日は昨日と変わらない一日が始まっていく。その平穏な営みを背景に、ブラスの門の前には数人の男たちが集まっていた。
ゲオルグさんは、いつもの武装を身に纏い、背中には使い込まれた重厚な両手斧を担いでいる。その鈍い鉄の色は朝日に反射し、彼が戦場へ向かう男であることを静かに主張していた。昨夜見せた人間臭い男の顔ではなく、街を守る代表としての鋼のような硬さを取り戻している。
私とミリアさんは、門の少し離れた影からその様子を見つめる。
ディランさんが門の外で待機する馬の手綱を引き、レインさんが短く指示を飛ばしている。ガルボさんは腕を組んで門柱に寄りかかり、わざとらしくあくびを噛み殺しながら、ゲオルグさんに背を向けていた。
「……行ってくる」
ゲオルグさんの短い宣言は、朝の冷たい空気に吸い込まれるようにして消えた。
誰一人として大げさな別れの言葉を口にすることはない。彼らにとってこれは、あくまで日常の延長線上にある、少しばかり遠出をするだけの業務に過ぎないのだと、周囲に分からせるかのように。
彼は門をくぐり、朝日が差し込む街道へと一歩を踏み出した。
重厚な両手斧が揺れるたびに、革の防具がかすかに軋む音がする。その音は、通りを歩く商人の荷車の音や、遠くから聞こえる鶏の鳴き声に混じり、あっという間に街の喧騒へと溶け込んでいく。
一人、また一人と、彼らの背中が街の境界を越えていく。
最後にゲオルグさんが立ち止まり、振り返ることなく一度だけ右手を軽く挙げて見せた。その仕草は、いつものゲオルグさんらしさもあり、どこか私の胸を鋭く刺した。
彼らが去った後、門の向こうにはただ、朝の光に満ちた空っぽの街道が続いていた。
私はその場に立ち尽くし、通り過ぎていく街の人々の背中をぼんやりと眺めていた。通りかかった子供が、私の前を笑いながら駆け抜けていく。
彼らが守ろうとした日常は、今もこうして寸分違わず続いている。
私は自分の胸に手を当てた。昨夜、彼が私の肩に置いた手の感触は、もうどこにも残っていない。ただ、彼が背負っていた両手斧の重みと同じくらい、あずかった言葉の重みが自分の中で静かに、深く沈殿していった。
「行ってしまいましたね……」
ぽつり、と零すようにつぶやくとミリアさんがそっと私を抱きしめる。そのぬくもりに私はもう一つの大切な守らなければいけない人を重ねる。しかし、涙はもう出ない。
「私は私の出来ることをしないと、ですね!」
わざとらしいほどに大きな声で、私は自分自身を鼓舞するように宣言する。
空っぽになった街道に、まだ彼らの足音の残響が聞こえるような気がした。私は胸を張り、彼らが去った方角を見つめながら、作り笑いではない、彼が求めた通りの笑みを浮かべてみせる。
振り返れば、街の門は今日も開かれている。
私たちが守るべきは、彼が背負っていった両手斧の先にある戦場ではなく、彼が背中を預けていったこの場所――穏やかな日常そのものだ。
ミリアさんが私の肩に手を置いたまま、優しく微笑む。
微笑み返す私の瞳は、もう昨日よりもずっと深く、そして静かだった。
「……行きましょうか、アインさん」
彼女の促す声に小さく頷き、私は彼らがいた場所から踵を返した。
歩き出した私の足取りは、先ほどまでの重苦しさを脱ぎ捨てていた。彼が去った街に、私は残された者として、今から何を始めればいいのか。その答えを探すために、政庁舎へと続く石畳を再び歩き始めた。
政庁舎に戻った私たちは、昨日までと変わらない静けさに包まれた執務室へと向かった。
だが、その静けさの質は、ゲオルグさんがいなくなったことで決定的に変わっていた。部屋の隅に置かれた彼の上着、机の上に無造作に置かれた書類の山。そこに漂う残り香すら、昨日とは違う過去のものへと変わり始めている。
先に戻っていたガルボさんは窓際に立ち、腕を組んで外を眺めていた。背中から漂うのは、普段の気のいい屋台の主人とはまるで別人のような、張り詰めた緊張感だ。
「……ったく、面倒なことばかり置いていきやがって」
窓の外へ向けられたガルボさんの呟きは、誰に聞かせるでもない独白だった。その背中には、一時的とはいえこの街の舵取りを任された者の、押し潰されそうな重圧が張り付いている。
彼が代表の椅子に座ることはない。けれど、今この瞬間、街の命運はその双肩にかかっているのだ。
「ですね……。さて、まずは何から片付けていきましょうか。ガルボ代行」
ミリアさんの穏やかでいて芯のある問いかけに、ガルボさんは肩を大きく上下させて溜息をついた。彼は積まれた書類の山を無造作に拾い上げ、ゲオルグさんが座っていた席の近くに広げる。
その光景に、私はひどく居心地の悪さを感じた。空席となった代表の椅子。その主が戻らぬ可能性を、私だけが昨夜の約束として知っている。
私は彼らの視界から外れるよう、いつもの長椅子へと足を向けた。そこに深く沈み込み、ただ静かに膝の上で手を組む。
これからは、邪魔をしてはいけない。
彼らがこの街の明日を繋ぎ止めるための歯車として回り続けるのなら、私はその歯車が噛み合うための、最も静かな観測者でいなければならない。
窓から差し込む陽光が、埃を舞わせながらガルボさんとミリアさんの机を照らしている。二人のペンが重なる音だけが、今の私の世界のすべてだった。




