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第47話:別れではない夜

 一通りの話が終わり、政庁舎を出ると、街はすでに深い夜の帳に包まれていた。

 先ほどまでの緊迫した円陣の余韻が、冷たい夜風にさらわれていく。私の隣では、ミリアさんが心ここにあらずといった様子で、地面に視線を落としていた。


 ふと、背後から扉が開く音が聞こえた。振り返ると、そこにはゲオルグさんが立っていた。

 松明の灯りに照らされたその顔は、会議中の冷徹さとはまた別の、深い淵を覗き込むような真剣さを宿している。


「……代表?」


 ミリアさんが足を止める。ゲオルグさんは無言で私たちの方へ歩み寄ると、私の目の前でぴたりと歩みを止めた。


 彼はいつもなら口の端を片方だけ吊り上げ、冗談めかして場を和ませようとする。しかし今夜は、その瞳が一切の遊戯を拒絶していた。彼はアインである私を見据えると、沈黙を割るように低く、だが鋭い響きで口を開く。


「アイン。お前に言っておくことがある」


 その言葉に含まれた重圧に、背筋が粟立つ。

 周囲の喧騒が遠のき、世界が私たち三人にだけ収束していくような錯覚。ゲオルグさんは一つ呼吸を置くと、夜闇の中でなお一層強く輝く瞳で、私を見据え続けた。


「……何でしょうか」


 自分の声が、自分のものではないように掠れた。

 明朝、彼は死地へ向かう。その出発を前に、彼が私に託そうとしているのは、一体どのような重荷なのだろうか。


「……よく聞け。これから先、たとえ俺の身に何があろうともそのままにしておいてくれ」


 不意に告げられたその言葉の意味を、私はすぐには咀嚼できなかった。

 そのままにしておいてくれとは、どういうことだろう。もし彼が死地で倒れたとしても、誰も追うな、救うな、あるいは……この街に関わるな、ということだろうか。


 私は困惑し、首をかしげる。横に立つミリアさんもまた、息を呑んで彼の瞳を見つめていた。私の視線が、理解を求めるように彼の顔を探る。


「……意味が、分かりません」


 絞り出した声には、隠しきれない動揺が混じっていた。


 ゲオルグさんは私の反応を予期していたのか、それとも今の私にはまだ届かない未来を見ているのか、ふと寂しげに、しかし決然と口元を歪めた。その笑顔は、彼が普段見せる皆を鼓舞するための強気な仮面ではなく、一人の男としての、あまりに人間味のある素顔に見えた。


「言葉通りの意味だ。もし俺が死んでも……ミリアのように生き返らせようとしなくていい、それだけのことだ」


彼は私の肩に、ずしりと重い手を置く。まるで、これから背負う荷物を私に預けるかのような、確かな重みだった。


「なぜ、ですか……?」


 ――そんなこと、言わないでほしい。


 喉元まで出かかった叫びを、私は懸命に飲み込んだ。胸の奥が冷たい重りで満たされていくような感覚。彼の言葉は、まるで私から「彼を守るという希望」を奪い取るための宣告に聞こえたからだ。


 視界が少しずつ歪む。瞳の端に溜まった熱い雫が、頬を伝って冷たい夜気の中にこぼれ落ちた。私は必死に唇を噛み締め、震える声を隠すために奥歯を噛みしめる。

 普段は冷静なはずの私の視界が、涙で滲み、彼の背中がぼんやりと霞んでいく。

 彼が守ろうとしている尊厳、彼が貫こうとしている矜持。その重さを理解すればするほど、彼を失うことの喪失感が現実味を帯びて、私の心を引き裂こうとしていた。


「……そんな、あんまりです」


 やっとの思いで絞り出した声は、かすかに震えていた。

 彼が望むのは戦士としての終わりだとしても、私にとってそれは、この街から希望そのものが消え去ることに他ならない。私は涙を拭うことも忘れ、ぼやける視界の中で、ただ彼の背中を見つめ続けることしかできなかった。


 ゲオルグさんはそんな私の様子を気に留めることもなく、街の明かりが遠くで揺れる闇を見つめ続けている。その横顔は、彫像のように硬質だが、どこか遠い場所へ意識を飛ばしているようだった。


「命ってのはな、本来一度きりだからこそ重いんだ……」


 彼の語る言葉が、一言ずつ私の心に刻まれていく。それは、彼が自分自身の魂のあり方について、どこまでも潔癖であることを証明していた。私は止まらない涙の跡を手の甲で無造作に拭い、彼に見られないよう、深く深く俯いた。


「俺たちのようなはぐれ者が、禁忌の術や理外の力で繋ぎ止めようとすればするほど、大事な何かが磨り減っていく気がするのさ」


 彼は手を放し、空を見上げた。夜空には星もなく、ただ深く重い闇が広がっている。


「それに、だ……」


 そういうとゲオルグさんはいつものように口の端を釣り上げて笑い、優しげな表情を私に向けてくる。そして、その大きな指で私の涙をそっと拭う。


「お前は『死』そのものなんだろ? だから、たとえ死んだとしても別れじゃない。……違うか?」


 ゲオルグさんのその言葉は、冷たい夜気の中で不思議なほどの熱を帯びていた。

 指先から伝わる彼の体温に、私は息を呑む。彼が私の正体を知っていて――あるいは、私の抱える「死」という属性そのものを、彼なりの解釈で受け入れているのだという事実に、胸の奥が締め付けられるように痛んだ。


「……ずるい人ですね」


 思わず漏れた言葉は、自分でも驚くほど小さく、悲痛な響きを伴っていた。

 彼にとって、私の存在は「死」であり「終わり」そのものだというのなら、彼が死ぬことは、私にとっての帰還であり、あるいは終わりの始まりなのだろうか。しかし、理屈では分かっていても、彼という個人が失われることへの恐怖は、私の存在などとは比べ物にならないほど巨大に立ち塞がっていた。


「死は別れじゃない……。確かに、そうかもしれません。でも、貴方が貴方でなくなることは、私にとって……絶望でもあるんです」


 私は涙で滲む視界のまま、彼を真っすぐに見つめ返した。

 彼は私の涙を拭ったその指を、ゆっくりと離す。夜闇に溶けそうなその表情には、どこか諦念と、それ以上の深い慈しみが浮かんでいた。


「絶望か。いい響きだな。……だがな、アイン。俺はただの冒険者だ。英雄でも、神でもない。この街に何かを残せるなら、それは『俺』という形ではなく、俺たちが守り抜いたこの街の『明日』であってほしいんだよ」


 彼はそう言って、私の頭を乱暴に、しかし優しく一度だけ撫でた。

 その触れ方は、まるで幼い子供を諭すようであり、同時に、この世の全てを愛した男の最後の挨拶のようでもあった。


「……さて、夜が更けた。明日になれば、また忙しくなるぞ。ミリア、アイン、お前らも少しは休んでおけ。明日は笑って送り出してくれよな」


 ゲオルグさんはそう言い残すと、背中を向け、政庁舎の扉へと歩みを進める。

 背中を追いかけることも、引き止めることもできないまま、私はその場に立ち尽くした。夜風が通り抜け、彼が触れた額の熱だけが、時間が止まったかのようにそこに残っていた。


 私は立ち尽くしたまま、彼が去った後の夜闇に問いかけるように、何度も何度も小さく首を振った。遠い明日、この街で彼が笑い続けていることを願うことしか、今の私にはできない。

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