第44話:変わらない日常と、変わった明日
翌朝、窓から差し込む陽光は昨日と変わらず、ブラッケンハースト――今は「ハースト」と呼び名を変えたこの街を優しく照らしていた。
私はいつものようにミリアさんと連れ立って、街の中心にある建物へと足を向ける。
昨日までは冒険者ギルドと呼ばれていたそこは、看板こそまだ書き換えられていないものの、実質的には街の心臓部、政庁舎としての役割を担い始めていた。
重厚な木の扉を押し開くと、そこには昨日までの熱狂が嘘のような、いつも通りの光景が広がっていた。
「……ここは、変わりませんねぇ」
カウンター越しに駆け回る職員たち、どこか慌ただしくも懐かしい喧騒。
私は安堵のため息を吐きながら、ギルド時代から愛用していた片隅にある長椅子に、ぺたんと腰を下ろした。
私の隣で、ミリアさんがクスクスと小さく笑う。
「そうですね。街の名前が変わっても、ここで働く人たちの顔ぶれが変わらなければ、時間はゆっくりとしか流れませんから。……でも、変わらなくていいものもあるのですよ、アインさん」
彼女はそう言って優しく微笑むと、政庁舎の奥、かつてのギルドマスター室があった場所へと向かっていく。今日からは正式な職員として、街の運営を支える仕事が待っているのだ。
ミリアさんの背中を見送りながら、私はもう一度周囲をぐるりと見渡す。
本当に、何もかもが昨日と地続きだ。街の運命が大きく動いたはずなのに、この場所だけは、ずっとこのまま続いていくような錯覚さえ覚える。
そんなことを考えていると、視界の端で数人の影がこちらへ近づいてきた。
「よっ、アインちゃんじゃないか。おはよう」
声をかけてきたのは、ディランさんだった。
彼に続いてエドさんやレインさんも、昨日までの武骨な冒険者装備ではなく、少し整えられた革鎧の姿でこちらを見ている。
「あら、ディランさん、エドさん、レインさんまで。……その格好、もしかして」
「ああ、見ての通りさ。今日から俺たちは、この街の衛兵として働くことになったんだよ」
ディランさんが少しだけ照れくさそうに頭をかく。
元冒険者たちがそのまま衛兵に転身するというのは、理にかなった選択だ。
培った経験と、何よりこの街を愛する者たちに頼むのが、一番手っ取り早く、確実な防衛網になるからだろう。
「王国がどう動くか……まだ予断を許さないからね。辺境伯の兵がどう出るか、あるいはもっと別の火種がやってくるのか」
レインさんが少し鋭い眼差しで出入り口を振り返った。その言葉には、昨日までの戦いを潜り抜けた者特有の、落ち着き払った警戒心が宿っている。
「それでもさ。今朝の空気は、どことなく清々しいと思わないか?」
エドさんが街の広場の方を指さす。そこでは、住民たちが戦火の跡を片付けながら、笑い声を上げながら水を運び、昨夜までの死の恐怖など微塵も感じさせないほど、平穏な営みを再開させていた。
「正直、俺たちは命がけで冒険者稼業を続けてきたけどよ……こうして街の奴らを守りながら、あいつらの笑顔を近くで見られるのも、悪くないなってさ」
彼らが浮かべるのは、昨夜までの死にゆく街の住民を救うための切迫した表情ではない。もっとずっと穏やかな、地に足のついた安堵の顔だ。
私は彼らの言葉を聞きながら、その平穏というものの重みを改めて噛み締めていた。
彼らがそうして街の隅々を警戒してくれるなら、私が死の力で無理やり戦場をねじ伏せるようなことは、必要ないのかもしれない。
「……そうですか。それなら、街のことは皆さんにお任せしても安心ですね」
私がそう言うと、三人は顔を見合わせ、満足げに鼻を鳴らした。
「ああ、任せてくれ。ゲオルグ代表も、まずは街の基盤作りだと言ってたしな。俺たちも、少しは役に立たないとな」
彼らはまた街の巡回へと戻っていった。その背中を見送りながら、私はふと、またしても暇を持て余してしまった自分に気づく。
さて、次は何をしようか。ミリアさんのところへでも顔を出して、何か手伝えることはないか聞いてみよう。そう思い立ち、私はゆっくりと立ち上がった。
政庁舎のフロアを見渡すと、かつて冒険者たちで賑わっていた受付カウンターには、ミリアさんの姿があった。そこは今や、街の諸問題を請け負う窓口として、以前よりも忙しない空気に包まれている。
「ミリアさん、お疲れ様です。何かお手伝いできることはありますか?」
私がカウンター越しに声をかけると、ミリアさんは山積みになった書類から顔を上げ、少しだけ困ったような、それでいて頼もしいものを見るような眼差しを向けた。
「アインさん! ちょうどいいところに来てくださいましたね。今、各部署からの報告書をまとめているところなのですが……」
彼女はため息混じりに、幾つかの書類の束を指差した。
その量は、普段の私なら絶対に逃げ出したくなるほどの厚みだ。
「これらを、ゲオルグ代表の執務室まで届けていただきたいのです」
「代表、ですか」
私は思わず、その響きを口の中で転がしてみる。
昨夜、広場で彼が背負わされたその役割は、どう考えてもあの不器用な男には重すぎるはずだ。
ミリアさんは私の表情を見て、小さく肩をすくめた。
「ええ。本人は『俺は代表なんて柄じゃない』とぼやいていましたが、住民の皆さんが彼を頼りにしている以上、頑張っていただかないと」
「ふふ、なるほど。わかりました。それくらいなら、お安い御用です」
私はカウンター越しに書類の束を受け取る。ずっしりと手にくる重みが、昨日までの冒険者ギルドとは違う、新しい街の責任の重さを感じさせた。
「それでは行ってきますね。代表さまのところへ」
私はわざとらしく「代表」という言葉を強調し、少し意地悪く微笑んでから、政務室へと続く廊下へ足を踏み入れた。
政務室の重厚な扉を、私はノックもそこそこに押し開いた。
「代表~、書類ですよぉ。ミリアさんから預かってきました」
あえて間延びした声でそう呼びかけながら室内に入ると、そこには予想通りの光景が広がっていた。
机の上には今にも崩れ落ちそうなほどの書類の山。そしてその奥で、こめかみに青筋を浮かべながら必死にペンを走らせるゲオルグさんの姿がある。
彼は私の声にビクリと肩を跳ねさせると、げんなりとした表情でこちらを睨みつけた。
「……アインか。……お前、面白がってるだろ」
「あら、でも皆さんがそう呼んでいるじゃありませんか。ブラッケンハーストの顔、初代代表さま?」
私はわざとらしく書類を机に積み上げると、その横にある椅子を引いて、ふんぞり返るように腰を下ろした。
「……ふざけんな。好きでこんな役回りになったわけじゃない。元はといえば、あの時の成り行きだろ」
ゲオルグさんは深く溜息を吐き、机に置かれたインク壺にペン先を突き立てるようにして置いた。
戦場ではあんなにも頼もしかったその両手が、今は細かな数字や文字の羅列に翻弄されている。その不器用で、しかしどこか必死な様子に、私は思わず口元を緩めた。
「まあまあ、そう言わずに。魔物を討伐して終わりってわけにはいきませんからね。街を守るっていうのは、戦うことよりもずっとずっと面倒くさいことなんですよ」
私が少しからかうように言うと、彼は「ああ、全くだ」と短く吐き捨て、それでも観念したように一番上の書類を手に取った。
「食糧配分に、避難所の修繕、それから衛兵のシフト調整か……。斧を握っているほうがよっぽどマシだ」
ボヤきつつも、彼の筆は止まらない。
その背中を見つめながら、私は自分の膝の上でそっと指先を遊ばせた。
訪れたつかの間の平穏に、このままどっぷりとつかっていたい、そんなことを思わせるほどに穏やかな時間がこの場所には流れていた。
窓から差し込む光が、机の上で舞う微かな埃を照らしている。普段なら気にも留めない光景だけれど、今はそれがやけに愛おしく感じられた。




