第43話:王なき都の夜明け
柔らかな夜風が、ブラッケンハーストを囲む広大な草原を撫でていく。
月光を浴びた草の海は、どこまでも続き、私たちの帰還を待つ街の灯火を優しく包み込んでいた。
夜の静寂を切り裂き、私たちは街の門をくぐる。
広場には、戦火を逃れた住民たちが祈るような面持ちでひしめき合っていた。彼らにとって、この夜は終わりの見えない恐怖だったはずだ。
冒険者たちの姿を認めた瞬間、それまで押し黙っていた広場に、堰を切ったような安堵の波が押し寄せた。
「戻った……彼らだ!」
住民たちが歓喜して門へと駆け寄る。
けれど、松明の光が私の顔を照らした瞬間、その足取りはぴたりと止まった。
歓喜は、氷を打たれたように霧散する。
彼らは冒険者たちへと向けようとした視線を、吸い寄せられるように私へと固定した。
そして本能に促されるように後ずさり、広場の中心にぽっかりと不気味な空白を広げていく。
――ああ、わかってしまったんだ。
彼らは理解してしまったのだ。あの街道で軍勢を地に縛り付けた異質な力が、今、自分たちの生活のすぐ隣に、少女という仮面を被って存在しているという事実に。
獲物を前にした草食獣のような瞳。松明の炎が風に煽られ、彼らの影を不規則に揺らす。
広場を支配したのは、どんな沈黙よりも重く、硬質な拒絶の空気だった。
心に冷たい棘が刺さったような感覚。
守るために振るった力が、今度は私と彼らの間に、越えられない壁を築いてしまったのだ。
私は堪らず視線を落とし、周囲の視線から逃げるように小さく俯く。
そして、無意識のうちに縋るように、ゲオルグさんの背後へと一歩、また一歩と身を隠すように移動した。
その時、私の前を歩いていたゲオルグさんが、わざとらしいほど大きく、重たい溜息を吐いた。
「……いつまでそうやって縮こまっているんだ」
呆れたような声と共に、私の腕が力強く掴まれる。
そのまま引きずりだされるようにして、私は広場の中心、住民たちの視線が集まるゲオルグさんの前へと立たされた。
逃げ場を失った私に、彼はずしりと重い声で宣言する。
「見ろ。この少女を。こいつはこの街を死の淵から救い出した『勝利の女神』だ」
ゲオルグさんの声が、広場に響き渡る。
住民たちの間に困惑が走る。私は彼の背中に隠れていた時とは打って変わり、逃げ出したい衝動を必死に抑え込みながら、小さく唇を噛んだ。
勝利の女神――そんな大層な呼び名で、この溝が埋まるとは思えない。けれど、これほど恐れられるよりは、ずっと悪くないかもしれない。
私は少しだけ勇気を振り絞り、視線を前へと向け、大げさに顎を突き上げて胸を張ってみせた。
「……まぁ、私ほどの美少女なら、女神と勘違いされても仕方ないですけどね。感謝してもいいですよ?」
自信満々にそう言い放った直後だった。
コツン、と軽い音を立てて、私の背中がゲオルグさんの無骨な手に小突かれる。
「……少しは控えろ。すぐに調子に乗るんじゃない」
「うぐっ……! ゲオルグさんっ、今のは女神さまとしての演出というか……!」
ふらりとよろめき、羞恥で頬を赤らめる私の姿に、広場の空気が一瞬で緩んだ。
さっきまで怪物を見るような目つきをしていた住民たちから、漏れるような笑い声が聞こえてくる。
「女神様も、案外ただの女の子なんだな……」
「ははっ、あの強さでこれか。なんだか、少しだけ親しみが湧くね」
畏怖は消えてはいない。けれど、私の不完全さが垣間見えたことで、張り詰めていた彼らの心に、微かな温もりが灯ったようだった。ゲオルグさんは満足げに鼻を鳴らすと、再び住人たちへ向き直る。
「……と、まぁ。見ての通りだ。こいつは、高潔な英雄でも、冷酷な怪物でもない。ただの、血の通った一人の少女だ」
彼はそう言って、一度だけ私の方を振り返った。その瞳には「よくやった」と言わんばかりの、微かな称賛の色が宿っている。
住民たちの顔から、硬質な恐怖が少しずつ剥がれ落ちていく。
依然として私の放つ異質な気配に戸惑いは残っているものの、先ほどまでの拒絶は鳴りを潜め、彼らは私を街の住人として、あるいは――街を守り抜いた仲間の一人として見つめ始めていた。
風が草を揺らし、遠くで虫の音が聞こえる。
この平穏を守り抜いたという実感と、住民たちの微かな熱気が、じわりと胸の奥に広がる。私はゲオルグさんの後ろから一歩前へ進み出ると、先ほどまでの羞恥を隠すように、少しだけ誇らしげに周囲を見渡した。
「皆さんも、無事で何よりです。……今夜は、ゆっくり休んでくださいね」
私の言葉に、誰かが小さく頷き、それに続いて数人が安堵の溜息を漏らす。街に、本当の意味での夜の静寂が戻ろうとしていた。
しかし、その静寂を切り裂くように、ゲオルグさんが地面に立てていた巨大な両手斧の柄尻を、石畳に強く打ち鳴らした。鈍く重い音が夜空に響き、住人たちの視線が一斉に彼へと集中する。
「いいかお前ら! 今夜ブラッケンハーストは死の淵から生還した! だが、もはやこの街はかつての辺境の地ではない!」
彼は両手斧を肩に担ぎ直し、住民たちを力強く見据えた。
「これより、この地を『ハースト』と呼ぶ。過去の名残は捨て、新たな一歩を踏み出す。そして、王国の支配を断ち切り、ここに新たな都『ブラス』を定める!」
宣言が放たれた瞬間、広場がどよめいた。
住民たちは自由という言葉の意味を噛みしめ、熱狂的な歓声が夜の闇を突き抜けていく。
「ゲオルグ! 俺たちを救ったあんたが、俺たちの王だ! あんたこそがハーストの王として君臨し、導いてくれ!」
一人の叫びが呼応となって、瞬く間に広場を埋め尽くした。
住民たちは、救世主であるゲオルグを王として戴冠させようと、熱狂の渦に飲まれていく。
これまで領主の圧政に喘いできた彼らにとって、ゲオルグという圧倒的な力を持つ存在を頂点に据えることは、何よりも確実で安心できる選択に見えたのだろう。
「王だと? 馬鹿を言うな」
ゲオルグさんは、熱狂する住民たちを冷ややかな眼差しで見据え、両手斧の柄を重々しく石畳に打ち鳴らした。その響きに、興奮で荒れていた空気が一瞬だけ引き締まる。
「俺たちが血を流して掴み取ったのは、新しい王に首輪を繋いでもらうためか? 違うだろう」
ゲオルグさんの声は、熱狂に沸く広場を凍りつかせるように響いた。
広場を見渡す彼の瞳には、救世主として崇められることへの苛立ちと、彼らが抱える思考の放棄に対する軽蔑が混じっている。
「でも俺たちには導き手が必要だ! この荒野で、あんたという旗印を失えば、また力ある者に蹂躙されるだけだ!」
住民の一人が声を張り上げると、周囲からも「そうだ!」「俺たちを守ってくれ!」と悲痛な叫びが上がった。彼らの瞳にあるのは、独裁への憧れではなく、明日への絶望的なまでの不安だ。
ゲオルグさんは、その切実な叫びを真正面から受け止めた。彼は歩み寄ると、大柄な体を屈め、住民の目線の高さに合わせる。
「……確かに、盾は必要だ。だが、その盾を俺一人の意思だけで動かすつもりはない」
ゲオルグさんは広場をゆっくりと見渡した。
「俺たちが決めるのは、王じゃない。皆で話し合い、皆で判断する者だ。俺一人に運命を委ねるな。お前たち自身が、お前たちの未来を守るために頭を使え」
ゲオルグさんの言葉は荒っぽかったが、その中には王として君臨することへの断固たる否定と、住民たちを支配の対象ではなく対等な仲間として扱う意志が込められていた。
「……話し合って決めるだと?」
住民たちは顔を見合わせ、困惑を隠せない。王という絶対的な安心感と、自分たちで責任を負うという重圧。その間で彼らは悩み、議論を交わし始めた。
夜が深まり、広場の松明が燃え尽きかける頃になっても、議論の声は絶えなかった。しかし、その声からは先ほどまでの盲目的な熱狂が消え、代わりに自分たちの街をどうするかという真摯な響きが宿り始めていた。
――そして、夜明けを待たずして。
住民たちは、ようやくゲオルグを王ではなく、この街の初代代表とすることで合意に至った。
当の本人であるゲオルグさんは「柄じゃない」と苦笑気味だったが、渋々引き受けることにしたようだった。
しばらくして、ようやく喧騒が遠のき広場が静寂を取り戻す。私は、その成り行きを見守っていた。
ふと吹き抜ける夜風が頬を撫でる。その冷たさに身震いをすると、いつの間にか隣に立っていたミリアさんが、そっとマントをかけてくれた。
「お疲れ様です、アインさん」
私はミリアさんに小さく頷き、肩に掛けられたマントを握りしめた。その温もりは、先ほどまでの熱狂と、その裏にある住民たちの不安をすべて吸い取っていくようだった。
「……ミリアさん。彼らは、本当にこれで良かったのでしょうか」
私は目の前に広がる街の灯を見つめた。
平和は手に入れた。けれど、これから先、このハーストが受ける試練は戦火以上に熾烈なものになるだろう。
私たちの物語が、静かに、しかし確実に、未知の転換点を迎えようとしていた。




