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刻一刻と、運命の歯車が回り続ける音がする。
豪奢な大鏡の前に立つ私は、無言で己の姿を見つめていた。
身に纏うのは、次期皇太子妃という、彼の高慢な空想に相応しい純白や淡い薔薇色のドレスではない。深く、底知れぬ夜の海を思わせるミッドナイトブルーの絹のドレスだ。銀糸で精緻に施された百合の刺繍が、わずかな光を捉えて冷たく瞬いている。首元には、ローゼリット公爵家当主の証である大粒のサファイアの首飾り。それは、私が決して彼らに屈しないという、無言の宣戦布告でもあった。
「……フィオナ様、馬車の準備が整いました」
背後で控えていた古参の侍女が、震える声で告げた。彼女の目には涙が浮かんでいる。無理もない。この三日間の間に、ローゼリット公爵家を取り巻く状況は絶望的なまでに悪化していたのだ。
二日前、ゼイン・ギルフォード率いる近衛騎士団の一隊が、突如として我が公爵家の別邸を強襲した。彼らは「匿名の通報」を理由に屋敷中を徹底的に捜索し、カイル殿下が用意したあの完璧な「偽造の裏帳簿」と、出所不明の金塊を『発見』してみせたのだ。
瞬く間に公爵家は横領の温床として断定され、父である公爵は王宮の離宮にて事実上の軟禁状態に置かれている。私と外界を繋ぐ連絡手段は完全に絶たれ、今夜の建国記念祭には、私ただ一人が罪人として引きずり出される形となっている。
「泣かないで、マリー。私は負けに行くわけではないわ」
私は静かに微笑み、侍女の震える手を握った。
カイル殿下と、彼の最も恐ろしい猟犬であるゼイン。二人が作り上げた包囲網は、傍目には完璧だった。逃げ場などどこにもなく、私の運命は今夜、大勢の貴族たちの面前で無惨に断ち切られるのだと、帝都の誰もが信じて疑っていない。
だが、私には「切り札」がある。
厳重な監視の目をかいくぐり、秘密裏に連携を取り合ってきた「皇帝陛下の影」とも呼ぶべき謎の協力者。その人物の働きにより、カイル殿下の真の横領の証拠、そして他国との売国行為を示す密約の原本は、すでに最も安全で、かつ劇的な形で露見するよう手はずが整えられている。
私がすべきことはただ一つ。カイル殿下が勝利を確信し、その傲慢な本性を大衆の前に完全に晒け出すまで、この「悲劇の令嬢」という役を演じきることだ。
「行って参ります。ローゼリットの誇りを、この胸に」
私は深く息を吸い込み、決戦の地である王宮の煌びやかな夜会へと足を踏み出した。
────
王国の栄華を象徴する王宮の大広間は、千の魔石ランプに照らされ、真昼のように眩い光に包まれていた。
天井まで届く巨大なクリスタルのシャンデリア。壁を彩る金箔の装飾。そして、帝国全土から集まった高位貴族たちの、目が眩むような豪奢なドレスと宝石の波。
楽団が奏でる優雅なワルツの旋律が広間に響き渡っていたが、私が扉を潜り、広間の入り口に姿を現した瞬間――その音楽すらも、不自然な不協和音となってかき消された。
ピタリと、数百人の視線が一斉に私に突き刺さる。
先程までの華やかな談笑は嘘のように消え失せ、代わりに重く冷たい静寂と、ざわめきが広間に満ちていった。
「……あれが、ローゼリット家の……」
「よくもまあ、あのような厚顔無恥な顔で現れることができたものだ」
「我が国の民が飢えているというのに、その血税を貪っていた魔女め」
「殿下もさぞやお胸を痛めておいでだろうに」
扇の陰から、あからさまな嘲笑と蔑みの言葉が飛んでくる。彼らは私が反論できない立場であることを熟知した上で、安全な場所から言葉として石を投げつけているのだ。中には、かつて私に媚びへつらい、茶会で愛想笑いを浮かべていた者たちの顔もあった。
これが権力というものの本質。カイル殿下が作り上げた、欺瞞に満ちた正義の狂騒だ。
私は表情を一切崩さず、背筋を真っ直ぐに伸ばしたまま、モーセの海割りのように開かれた人垣の中央をゆっくりと進んでいった。どれほど石を投げられようと、私の歩みは止まらない。私は堂々と広間の中央に立ち、その時を待った。
やがて鼓膜を震わせるような重厚なファンファーレが鳴り響いた。
大広間の奥、大階段の上の重厚な扉が開かれる。
「第一皇子、カイル・ヴァン・ディートリヒ殿下のお成り!!」
洗脳されている近衛兵の張りのある声と共に姿を現したのは、眩いばかりの純白の礼服に身を包んだカイル殿下だった。金糸の髪を完璧に撫でつけ、その顔には「国を憂い、正義を執行する悲劇の王子」という見事な仮面が張り付いている。
大階段をゆっくりと下りてくる彼に、貴族たちから称賛と歓声が沸き起こる。
そしてカイル殿下の斜め後ろには、あの男がいた。
皇室近衛騎士団副団長、ゼイン・ギルフォード。
深い漆黒の礼装に身を包んだ彼は、光り輝くカイル殿下の影そのものだった。氷のような美貌には何の感情も浮かんでおらず、ただ、腰に帯びた騎士剣に静かに手を添えている。彼が階段を下りるたびに、周囲の空気が数度下がるような、圧倒的で恐ろしい威圧感。貴族たちですら、ゼインの冷徹な眼差しから逃れるように目を伏せる。
彼はカイル殿下の絶対的な武力であり、私の前に立ちはだかる最大の絶望だ。
大階段を下りきったカイル殿下は、まっすぐに私のもとへと歩み寄ってきた。
周囲の貴族たちが息を呑んで見守る中、彼は私の数歩手前で立ち止まり、ひどく冷酷で、底意地の悪い笑みを口元に浮かべた。
「ハハハ、よく逃げ出さずに来たな、フィオナ。その往生際の悪さだけは褒めてやろう」
大広間に響き渡る声。それは、私一人に向けられたものではなく、ここにいる全ての貴族たちに聞かせるための演説の始まりだった。
「帝国臣民たる諸侯よ、よく聞いてくれ! 私は今宵、この建国記念祭という神聖なる祝祭の場を借りて、長年私の心を、そしてこの帝国の中枢を蝕んできた恐るべき病魔を切り捨てねばならない!」
カイル殿下が両手を広げ、まるで皇帝のような振る舞いをし、悲痛な声で叫んだ。
「私の婚約者であり、次期皇太子妃となるはずであったこのフィオナ・エル・ローゼリットは、あろうことか実家の権力を悪用し、我が国の水害復興資金を大規模に横領していたのだ! 民の涙を嘲笑い、自らのドレスや宝石に変えるという、決して許されざる大罪を犯した!」
広間が大きくどよめいた。誰もが知っていた噂が、今、王子自身の口から「真実」として決定づけられた瞬間だった。
「殿下、それは誤解でございます。私は決して……」
私が、か細い声で反論の演技を試みると、カイル殿下は激怒の表情を作って私を怒鳴りつけた。
「黙れ、毒婦め! 証拠はすでに揃っているのだ!」
カイル殿下が指を鳴らすと、背後に控えていたゼインが音もなく一歩前に出た。
ゼインの氷色の瞳が、私を無慈悲に射抜く。彼は懐から数枚の羊皮紙を取り出し、貴族たちに見せつけるように高く掲げた。
「皇室近衛騎士団による厳正なる捜査の結果、ローゼリット公爵家の別邸より、横領の事実を示す複数の隠し帳簿、ならびに国庫から流出した金塊が発見されました。……これが、動かぬ証拠です」
ゼインの地を這うような低い声が、広間の隅々にまで響き渡る。
その声には一切の温度がない。ただ淡々と、私の死刑宣告を読み上げる悪魔のような声だった。彼が提示した偽造書類の完璧さを前に、貴族たちからは私に対する怒りの声が爆発した。
「恥を知れ、ローゼリット!」
「恩知らずの泥棒女め!」
「我らを騙していたのか!」
怒号の渦。四面楚歌。
私がどれほど無実を訴えようと、もはや誰も耳を貸す者はいない。ゼインという絶対的な証人がいる限り、カイル殿下の言葉こそがこの場の、いや、この王国の法そのものなのだ。
カイル殿下は満足そうに貴族たちの怒号を一身に浴び、そして私を冷たく見下ろした。
「見たか、フィオナ。これだ。これこそが民意だ。お前の強欲が、どれほど多くの人々を傷つけたか。私は未来の皇帝として、お前のような腐敗した女を隣に置くわけにはいかない」
彼はゆっくりと右手を掲げ、そして、断頭台の刃を落とすように振り下ろした。
「よって、私、カイル・ヴァン・ディートリヒは、この場を以てフィオナ・エル・ローゼリットとの婚約を破棄する! ならびに、国家反逆および横領の罪で、今すぐこの女を地下牢へ投獄せよ!」
その命令が下された瞬間、ゼインが静かに剣を抜いた。
チャキ、という冷たい鋼の音が響き、鋭い切っ先が私の喉元に向けられる。剣から放たれる殺気に、周囲の貴族たちが悲鳴を上げて後ずさった。ゼインの目は、私が少しでも抵抗すれば、この場で容赦なく斬り捨てることを告げていた。
「さあ、フィオナ。膝をつけ。そして、私と民の前で、己の罪を泣きながら懺悔するがいい。そうすれば、少しは苦しまずに済むよう取り計らってやろう」
カイル殿下が高らかに笑う。
完璧な勝利。完璧な断罪。
彼はそう確信している。この場にいる全ての人間が、私が絶望に涙し、崩れ落ちる姿を今か今かと待ち望んでいた。
――ああ、本当に。
――本当に、滑稽で、哀れな人。
静寂の中、私はゆっくりと息を吐き出した。
そして、突きつけられたゼインの剣先を恐れることなく、凛と顔を上げた。
「……ふふっ」
私の唇から漏れたのは、涙でも命乞いでもなく、静かな、しかし確かな嘲笑だった。
その場にそぐわない私の笑い声に、カイル殿下の顔からスッと笑みが消える。
「……何がおかしい? 狂ったか、フィオナ」
「いいえ、殿下。狂っているのは、あなたの方ですわ」
私は毅然とした声で、大広間に響き渡るように言い放った。
先程までの怯えた令嬢の演技は、もう終わりだ。
「民の涙を嘲笑い、国庫を私物化し、あまつさえ己の罪を隠蔽するために無実の者に濡れ衣を着せる。……その身に余る大罪を犯しているのは、他でもない、カイル・ヴァン・ディートリヒ殿下。あなたではありませんか」
「なっ……貴様、まだそんな戯言を……!」
「戯言ではありませんわ。あなたが用意した偽造書類など、本物の前ではただの紙屑に過ぎないということを、今から証明して差し上げます」
カイル殿下の顔が、怒りと僅かな焦りで真っ赤に染まる。
私は彼から視線を外し、群衆の奥へと目を向けた。
時は満ちた。
私の合図と共に、「あの方」が仕掛けた致命的な罠が、今まさに大音響と共に作動しようとしていた。
「さあ、茶番は終わりです。――本当の断罪を、始めましょう」
私の声に応えるように、大広間の奥、王座へと続く重厚な扉が、凄まじい地響きと共に内側から開け放たれた。




