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あなたにはもう、発言権すらありませんから。  作者: 逆立ちハムスター


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2

 王宮の回廊を歩く私の足音だけが、不自然なほど冷たい静寂の中に響いていた。

 すれ違う貴族たちの視線が、針のように私の背中を刺す。私が視線を向ければ、彼らはあからさまに顔を背け、扇で口元を隠してヒソヒソと囁き合う。その微かな声音の端々から、「横領」「公爵家の恥」「哀れな令嬢」といった単語が、毒の棘のように飛んできた。


 無理もない。ここ数日で、宮廷内の空気は完全にカイル殿下の思惑通りに作り替えられていた。

『次期王妃であるフィオナ・エル・ローゼリットが、実家の権力を笠に着て、復興支援金を私的に流用している』

 そんな荒唐無稽な噂が、まるで真実であるかのように王宮中を駆け巡っているのだ。火のない所に煙は立たないと言うが、この煙は意図的に、そして周到に焚かれたものだ。放火魔自身が第一王子という絶対的な権力者なのだから、誰もその火元を疑おうとはしない。むしろ、権力者に迎合して一緒に火の粉を撒き散らすのが、この腐敗した社交界の習いだった。


 私は背筋を伸ばし、顔を上げて歩き続けた。

 どれほど冷たい視線を浴びようとも、ローゼリット公爵令嬢としての矜持を崩すわけにはいかない。私がここで少しでも弱みを見せれば、彼らは嬉々として群がり、私の尊厳を食い荒らすだろう。


「……フィオナ様。カイル殿下がお呼びです」


 不意に、前方から進み出てきた従者が恭しく頭を下げた。その態度は一見すると丁寧だが、声には明らかな侮蔑の色が混じっている。もはや、ただの従者でさえ、私を「終わった人間」として扱っているのだ。


「分かりました。ご案内なさい」


 私は抑揚のない声で答え、従者の後をついて歩き出した。

 向かう先は、王宮の奥深くにあるカイル王子専用の執務室。豪奢な彫刻が施された重厚な両開きの扉の前に立つと、従者が静かに扉を開け放った。


 部屋の中に足を踏み入れた瞬間、肌を刺すような冷たい空気に包まれた。

 執務机の向こう側、深紅のベルベットが張られた椅子に深く腰掛けているのは、金糸の髪を煌めかせた私の婚約者、カイル・ヴァン・ディートリヒ殿下。彼は私の姿を認めると、薄い唇を歪めて酷薄な笑みを浮かべた。


「よく来たな、フィオナ。まあ、座るがいい」


 勧められたのは、部屋の中央にぽつんと置かれた、背もたれのない簡素な椅子だった。まるで罪人を尋問するかのような配置。私は表情を変えずに歩み寄り、静かに腰を下ろした。


 そして、カイル殿下の斜め後ろ――部屋の最も暗い場所に、彫像のように直立している男の姿があった。

 皇室近衛騎士団副団長にして、カイル殿下の筆頭側近。ゼイン・ギルフォード。彼はいつものように、影の如く空間を支配している。

 漆黒の髪と、凍てつくような氷色の瞳が私を射抜き、純白の騎士服に身を包んだ彼は、微動だにせず、ただ無機質な視線で私を見下ろしている。彼がそこに存在しているだけで、部屋の空気が張り詰め、呼吸すら困難になるほどの威圧感が漂っていた。


「さて、フィオナ。今日お前を呼んだのは他でもない。我が国における由々しき問題について、お前の口から直接『釈明』を聞きたくてな」


 カイル殿下が、芝居がかった大げさな溜息を吐きながら言った。


「穀倉地帯を襲った水害。その復興支援のために国庫から支出された莫大な資金が、用途不明のまま消えているという報告が上がっている。……それも、お前の実家であるローゼリット公爵家が管理する商会を経由して、な」


「身に覚えのないことです、殿下。ローゼリット家が国庫の資金を不正に操作するなど、あり得ません。我が公爵家は建国の昔より、皇室への絶対の忠誠を……」

「口を開くな」


 私の言葉を遮ったのは、カイル殿下ではなかった。

 低く冷徹な声。ゼインだった。


 彼は音もなくカイル殿下の側から歩み出ると、私の目の前まで迫り、一枚の書類を突きつけてきた。


「言い逃れは無用です、フィオナ様。これは、我が国の統括財務官から秘密裏に提出された報告書、そして、ローゼリット家傘下の商会が交わした裏取引の証書の写しです」


 ゼインの長い指が、書類の束を机の上に滑らせた。

 私はその文面を一瞥して、内心で冷や汗を流した。

 そこに記されていたのは、架空の工事費用、存在しない物資の購入記録、そして、それらの資金が最終的にローゼリット公爵家の隠し口座へと流れたことを示す、完璧な「偽造証拠」だった。

 筆跡、印章、日付の整合性。どれを取っても、一目見ただけでは偽造だと見抜けないほどの異常な精度。単なる小悪党に作れる代物ではない。宮廷の裏表を知り尽くし、公爵家の内情にまで精通した人間が、長い時間をかけて緻密に作り上げた芸術的なまでの「罠」だ。


「ゼインの調査に抜かりはない」

 カイル殿下が、勝利を確信したような傲慢な声で言い放った。

「まさか、次期皇太子妃となるべきお前が、自らの私腹を肥やすために民の血税を貪っていたとはな。失望したぞ、フィオナ。お前の強欲さが、この私と王室の顔に泥を塗ったのだ」


「殿下、これは何かの間違いです! その書類は巧妙に偽造された……」

「黙れ!」


 カイル殿下が机を激しく叩きつけた。


「証拠は完全に揃っている! これ以上見苦しい言い訳を重ねるというなら、今すぐお前を地下牢に放り込み、公爵家を取り潰してもいいのだぞ!」


 怒号が部屋に響き渡る。

 私は強く拳を握り締め、反論を飲み込んだ。今ここで感情的になっても、彼らの思う壺だ。カイル殿下は、私が取り乱し、無様におののく姿を見たいだけなのだから。


 私が沈黙すると、カイル殿下は満足そうに鼻で笑い、椅子に深く寄りかかった。


「……だが、私も悪魔ではない。長年婚約者であったお前に、最後の慈悲を与えてやろう。三日後だ」

「三日後……?」

「建国記念祭の夜会。王国の全貴族が集うあの晴れやかな場で、お前は自らの罪を告白し、膝をついて私に許しを乞え。そうすれば、極刑だけは免じてやろう。公爵家の存続くらいは、まあ、考えてやらんでもない」


 背筋が凍るような宣告だった。

 大勢の貴族たちの前で私に罪を認めさせ、公開処刑のように婚約破棄を宣言する。私と公爵家から全ての権力と名誉を奪い去り、自分は「不正を暴いた正義の王子」として称賛を浴び、皇帝の座への駒を進める。それが、彼の描いた完璧なシナリオなのだ。

 その裏で、彼自身が国庫から横領した莫大な資金は、全て「フィオナの罪」として闇に葬り去られる。


「……返事は?」


 頭上から、再び氷のような声が降ってきた。

 見上げると、ゼインが私を見下ろしていた。その氷色の瞳には、一片の感情も、同情も存在しない。ただ、主人であるカイル殿下の命令を遂行するためだけの、無慈悲な処刑人の目だった。


「私は……」


 私が口を開きかけたその時、ゼインは私の顔の横に手をつき、逃げ場を塞ぐように顔を近づけてきた。

 息がかかるほどの至近距離。彼の冷ややかな視線が、私の瞳の奥底まで射抜くように見つめてくる。


「賢明な判断を期待しますよ、フィオナ様。あなたを取り巻く状況は、すでに完全に詰んでいる。これ以上足掻いたところで、傷口を広げ、あなたの愛する家族を不幸にするだけだ。……無力なあなたにできるのは、ただ運命に従い、頭を垂れることだけです」


 囁くような、しかし絶対的な強制力を持った言葉。

 カイル殿下の稚拙な怒号よりも、ゼインのこの静かな脅迫の方が、なぜか何百倍も恐ろしかった。この男がカイル殿下の側にいる限り、私の声が誰かに届くことは絶対にない。彼が作り上げたこの完璧な包囲網を、真正面から突破することなど不可能なのだ。


 彼はカイル殿下の最も忠実な猟犬。

 私という獲物の喉元に深く牙を突き立て、致命傷を与えながら、最後の一息が絶えるまで決して逃がそうとはしない。


「……分かりました。本日は、これで失礼いたします」


 私は静かに立ち上がり、完璧な淑女の礼をとって執務室を後にした。

 背後から、カイル殿下の嘲るような高笑いが聞こえてきた。ゼインは無言のまま、ただ私が扉の外へと消えるのを見送っていた。


 王宮を出て、迎えの馬車に乗り込んだ瞬間、私は限界まで張り詰めていた糸が切れたように深く息を吐き出した。

 震える両手を強く組み合わせ、目を閉じる。

 ゼインが突きつけてきた偽造書類の精度。カイル殿下の底知れぬ悪意。そして、三日後という猶予のないタイムリミット。状況は最悪だ。誰の目から見ても、私という存在はすでに盤上から取り除かれるのを待つだけの死に駒に過ぎない。


 カイル殿下。そして、彼に付き従うあの冷酷無比な氷刃の騎士。

 彼らは、私が恐怖に打ち震え、三日後の夜会で泣き崩れると確信しているのだろう。公爵令嬢としての誇りを折られ、全ての罪を被って歴史の闇に消えていくのだと。


 私はゆっくりと目を開けた。

 馬車の窓ガラスに映る私の瞳は、決して絶望に染まってなどいなかった。


(……ええ、そうね。私は無力で、愚かな令嬢。あなたたちの完璧な罠に落ちた、哀れな生贄よ)


 私は誰もいない馬車の中で、ふふ、と低く笑い声を漏らした。

 彼らが私を「完璧に包囲した」と思い込んでいるのなら、これほど都合の良いことはない。彼らが勝利の美酒に酔いしれ、油断している今この瞬間こそが、私にとって最大の好機なのだから。


 私はドレスの隠しポケットに忍ばせていた小さな鍵に触れた。

 私の部屋の、さらに奥に隠された金庫の鍵。そこには、カイル殿下が横領した資金の真の流出先、ダミー商会と彼を繋ぐ絶対的な証拠、そして彼が隣国と交わした到底許されざる「密約」の写しが眠っている。

 ゼインがどれほど見事な偽造書類を作ろうとも、真実の重みには敵わない。


 三日後の建国記念祭。

 王国中の貴族が集うその華やかな舞台は、彼らが私を断罪する処刑場となるはずだった。

 けれど違う。

 あれは、私が彼らの罪を白日の下に晒し、その傲慢な仮面を引き剥がすための、最高の舞台だ。


(存分に高笑いしていればいいわ、カイル殿下。そして、殿下を守る無敵の騎士様)


 私は窓の外、遠ざかる王宮の尖塔を冷たく見据えながら呟いた。


「最後に絶望の底に叩き落とされるのが誰なのか……建国記念祭の夜、たっぷりと教えてあげる」


 彼らが張り巡らせた蜘蛛の糸は、今や彼ら自身を絡めとる死の罠へと変貌しつつあった。

 反撃の準備は、すでに整っている。後はただ、傲慢な獲物たちが自らギロチンの台座へと歩み寄るのを待つだけだ。

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