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分厚い羊皮紙を捲る乾いた音が、静寂に包まれた深夜の執務室に虚しく響き渡る。
魔石のランプが放つ青白い光は、机の上に積み上げられた膨大な帳簿の山を冷たく照らし出していた。私は小さく、しかしひどく重い溜息を吐き出し、羽ペンを持つ手を止めた。
ずきずきと痛むこめかみを指先で揉みほぐしながら、目の前に広がる無機質な数字の羅列を睨みつける。何度計算し直しても、何度裏付けの資料と照らし合わせても、結論は同じだった。
「……また、今月も」
誰に聞かせるわけでもない呟きが、夜の空気に溶けて消えていく。
帝国の南部に位置する穀倉地帯。本来であれば、先月の水害に対する特別復興支援金として国庫から多額の資金が割り当てられているはずだった。しかし、私の手元にある秘密裏に入手した「真の出納帳」によれば、その資金の実に七割が、全く無関係のダミー商会へと流れている。
その商会の背後にいるのは、あろうことかこの国の第一王子であり、私の婚約者でもあるカイル・ヴァン・ディートリヒ殿下、その人であった。
私、フィオナ・エル・ローゼリットは、帝国筆頭公爵家の長女として生を受けた。
幼い頃から次期王妃としての過酷な教育を受け、礼儀作法、歴史、政治、経済、そして帝王学に至るまで、血を吐くような思いで全てを完璧に修めてきた。それは全て、この身が帝国の礎となり、民の安寧を守るため。個人の感情などというちっぽけなものは、ローゼリット家の誇りという重圧の下にとうの昔に封じ込めていた。
カイル殿下との婚約も、もちろん政略的なものだ。そこに愛があるかなど、最初から問題ではなかった。かつての彼は、少なくとも表向きは聡明で、王族としての矜持を持ち合わせているように見えたのだ。だからこそ、私も己の人生を彼に、そして帝国に捧げる覚悟を決めていた。
だが、彼が変わり始めたのはいつ頃からだろうか。
権力の蜜の味を覚え、己の取り巻きとして甘言を弄する者たちばかりを重用するようになったのは。
諫言する忠臣を遠ざけ、国庫を私物化し、あまつさえ己の浪費のために民から過酷な税を搾り取るようになったのは。
最初は些細な綻びだったはずだ。しかし、今やその腐敗は帝国の根幹を揺るがすほどの巨大な病巣となっている。そして厄介なことに、第一王子という絶対的な権力を持つ彼を、正面から咎めることができる者はこの国の宮廷にはもう誰も残っていなかった。
「……このままでは、帝国は内部から崩壊するわ」
私は固く唇を噛み締めた。
婚約者として、いや、帝国の貴族としての責務に従い、私はこれまで幾度となく彼に忠告を試みてきた。しかし、その全てが徒労に終わっている。
数日前の、王宮の庭園で行われた茶会の光景が脳裏に蘇る。
満開の薔薇が咲き誇る東屋の下、豪奢なベルベットの長椅子に深く腰掛けたカイル殿下は、最高級の茶葉の香りを楽しみながら、ひどく退屈そうに私を見下ろしていた。
『この税収報告に、不自然な点が見受けられます。殿下、どうか今一度、財務官の提出した資料を直接ご確認いただけないでしょうか。民の不満は、すでに限界に近いと……』
私が周囲の目を気にしつつ、可能な限り控えめな言葉を選んで進言した時のことだ。
カイル殿下は美しい金糸の髪を揺らし、まるで羽虫でも追い払うかのように、苛立たしげに手を振った。
『くどいぞ、フィオナ。お前は女の身でありながら、一々、一々国政にくどくどと口を挟む。本当に可愛げのない女だ』
氷のように冷たい声だった。金色の瞳には、明らかな侮蔑の色が浮かんでいた。
『お前はただ、私という次期皇帝の隣で、美しく着飾って微笑んでいればいい。それだけが、公爵令嬢であるお前に与えられた唯一の価値であり、役目だ。金の流れなど、お前のような温室育ちが理解できるはずもないだろうに。生意気な奴め』
彼はあざ笑うかのように言葉を続けた。
『それに、私はこの帝国の筆頭第一皇子(自称)だぞ? 我が国の食料がなければ、帝国なぞすぐに干からびる。私の決定は、すなわち帝国の決定だ。一部の愚民ども如きが、どれほど騒ごうが私が法であり、私が正義なのだ。お前も少しは、己の立場をわきまえるべきだな。屑め』
その傲岸不遜な態度に、私は絶望的なまでの隔絶を感じた。
権力に溺れ、己を神か何かと錯覚している男。彼にはもう、どれほど真摯な言葉を尽くしても届かない。
そして何より、あの茶会の場で私の心を最も凍りつかせたのは、カイル殿下の斜め後ろに影のように控えていた一人の騎士の存在だった。
漆黒の髪に、凍てつくような氷色の瞳。
王室近衛騎士団副団長にして、カイル殿下の筆頭側近、ゼイン・ギルフォード。
若くして剣の頂点に立ち、「黒刃」の異名をとる彼は、カイル殿下の最も忠実な猟犬として宮廷内でも帝国内でも恐れられている男だ。
殿下が私をなじり、嘲笑う間、ゼインは表情一つ変えることなく、ただ冷徹な眼差しで私を見下ろしていた。
『……殿下の仰せの通りです、フィオナ様』
感情の欠落した、ひどく平坦で低い声。
彼が一歩前に出ただけで、周囲の空気が急速に冷え込んだかのような錯覚に陥る。ゼインは私の反論を一切許さないというように、剣の柄に静かに手を添えて告げた。
『これ以上、殿下のお心を煩わせるような発言はお控えください。次期皇太子妃としての分をわきまえぬ振る舞いは、ローゼリット公爵家の名に泥を塗る行為でもあります。お下がりを』
その言葉は、絶対的な拒絶だった。
カイル殿下の腐敗した権力を、ゼインという圧倒的な武力と冷酷な頭脳が完璧に守り抜いている。ゼインが殿下の側近として目を光らせている限り、私はおろか、いかなる政敵であってもカイル殿下に傷一つ負わせることはできない。彼は殿下にとって最強の盾であり、そして、私に刃を向ける最も恐ろしい処刑人でもあった。
あの時の、私を見るゼインの無機質な視線を思い出すだけで、背筋に冷たいものが走る。
彼らにとって、私はもはや「目障りな小言を言う邪魔者」に過ぎないのだ。
執務室の椅子から立ち上がり、私は重い足取りで窓辺へと向かった。
厚いカーテンを開け、窓を少しだけ開けると、涼しげで穏やかな夜風と共に、月明かりに照らされた帝都の街並みが広がっている。美しく静かな夜だ。しかし、この平穏な風景の裏側で、確実に破滅の足音が近づいていることを私は知っている。
宮廷の裏側では、すでに私に関する妙な噂が流れ始めていた。
「フィオナ・エル・ローゼリットが、実家の権力を笠に着て国庫から資金を横領している」という、全く身に覚えのない悪辣な噂だ。
最初は単なる嫌がらせかと思っていた。だが、裏で糸を引いているのが誰なのか、今となっては火を見るより明らかだった。
カイル殿下だ。
彼は己の不正の証拠が露見する前に、私に全ての罪をなすりつけ、トカゲの尻尾切りをするつもりなのだ。邪魔な婚約者を「横領の罪」という大義名分のもとに断罪し、排除する。そうすれば、彼は自身の潔白を証明できるだけでなく、新たな、より御しやすい自らの息のかかった令嬢を隣に置くことができる。彼はずっと、父親の取り決めに不満そうだった。
そして彼に忠実な猟犬であるゼインが、その冷酷な手腕を用いて、私を完璧に追い詰めるための証拠(もちろん、偽造されたものだ)を着々と集めているのだろう。
四面楚歌。
今の私の状況を的確に表すなら、その一言に尽きた。
味方は誰もいない。第一王子という紛れもない絶対的権力と、最強の騎士団副団長が、結託して一人の公爵令嬢を潰しにかかっているのだ。社交界の貴族たちも、すでに風向きを察して私から距離を置き始めている。父である公爵ですら、この巧妙に仕組まれた罠から私を救い出すことは容易ではないだろう。
窓ガラスに映る自分の顔を見た。
疲労で青ざめ、目の下には隈ができているが、その双眸だけは、まだ死んではいなかった。
(……ただ黙って、断罪されるとでも思っているのなら、大間違いよ)
私は窓枠を強く握りしめ、自分自身に言い聞かせるように呟いた。
彼らが私を不当に断罪し、全てを奪い去ろうというのなら、受けて立つまでだ。
誇り高きローゼリットの名にかけて。そして、核から腐敗の泥に沈みゆくこの帝国を救うため。
たとえ相手が次期皇帝であろうと。
たとえ、立ちはだかるのがあの冷酷無比な氷刃の騎士であろうと。
(私を消そうとする前に……あの驕り高ぶった顔を、絶望に歪ませてあげるわ。必ずね)
私は静かに窓とカーテンを閉じ、再び執務机へと戻った。
来るべき「その日」に向けて、準備を進めなければならない。彼らが用意する偽りの証拠を根底から覆し、逃げ場のない真実で彼らを絡めとるための、最後の罠を。
たった一人で挑む、あまりにも無謀で孤独な戦い。
それでも、私が立ち止まるという選択肢は存在しなかった。
夜の闇の中、再び羊皮紙に走らせる羽ペンの音だけが、私の静かなる宣戦布告として響き続けていた。




