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凄まじい地響きと共に、王座へと続く大広間の最奥の扉がゆっくりと開け放たれた。
その重厚な音は、カイル殿下が作り上げた欺瞞の空間を根底から揺るがす、運命の号鐘だった。
広間を埋め尽くしていた貴族たちが、息を呑んで道を空ける。
現れたのは、皇帝直属の証である緋色の外套を翻した真の近衛騎士団、そしてその先頭を歩く、帝国宰相バルテル卿であった。病床にあるはずの皇帝陛下の右腕であり、私が誰にも知られず、秘密裏に『証拠』を託し続けてきた「あの方」の代理人だ。
「な、なんだ……!? 宰相、何故このような場に武装した兵を引き連れて現れた!?」
カイル殿下が、顔を引きつらせて怒鳴り声を上げた。その声には、先程までの余裕は微塵もなく、隠しきれない動揺が凄まじく入り混じっている。
バルテル卿はカイル殿下の怒声に動じることなく、広間の中央、私のすぐ傍まで歩みを進めると、恭しく一礼した。そして、懐から皇帝の御印が押された黄金の勅書を取り出し、高々と掲げた。
「皇帝陛下からの勅命である! アラムルド王国、第一王子カイル・ヴァン・ディートリヒ、並びにその取り巻きの者どもを、帝国反逆罪および国庫横領の容疑で直ちに拘束する!」
その言葉が響き渡った瞬間、大広間は水を打ったような静寂に包まれ、次の瞬間、爆発的な悲鳴とどよめきに包まれた。アラムルド王国の兵士達が包囲される。
「な、なにを馬鹿な! 反逆者も横領犯も、そこにいるゴミ女のフィオナだろうが! わ、私は次期皇帝だぞ! 私を誰だと思っている! 帝国を支えているのはこの私だ!!」
カイル殿下は狂乱したように叫び、ゼインが提示した偽造の証拠書類を指差した。
しかし、宰相は冷ややかな視線をカイル殿下に向けると、背後の従者に命じて、分厚い羊皮紙の束を広間に投げ出させた。
「見苦しい言い訳はおやめください、殿下。……それは、殿下が他国に帝国南部の防衛機密を売り渡そうとした密約の原本。そして、ダミー商会を経由して殿下の私財へと流れた真の出納帳です。すべて、皇帝陛下の『影護官』の調査によって裏付けが取れております」
「な、なんだと……!? まさか、この薄汚い裏切りのメス犬か!?」
床に散らばった書類を見て、カイル殿下の顔面から一瞬にして血の気が引いていく。
彼がどれほど無能な部下を使って証拠を隠蔽しようと、私が数ヶ月かけて命懸けで集め、「影」に託した真実の重みには抗えない。貴族たちは顔面蒼白になり、先程までカイル殿下を称賛していた者たちほど、一目散に彼から距離を取り始めた。
「嘘だ……嘘だ嘘だ嘘だ! 誰かの陰謀だ! そうだ、やっぱりフィオナ! お前が私を陥れるためにでっち上げたのだな! なにもかも!!」
追い詰められたカイル殿下の双眸が、血走った異様な光を帯びて私を睨みつけた。
もはや理性を失った獣のようだった。彼は震える指で私を指差し、傍らに控える最強の猟犬へと叫んだ。
「衛兵! これは独裁皇帝による我が国への口封じだ! 戦え!! おい、ゼイン! なにを呆けている! その女諸共、こいつらを全員殺せ!! 宰相もろとも切り捨てろ! 私に逆らう者は全員、反逆者だ! 今すぐその首を刎ねろーー!!」
それは、権力者の最後の悪あがき。
その狂気に満ちた命令が下された瞬間、私の首元に突きつけられていたゼインの剣が、微かに動いた。
(……私はきっと。ここで、終わる。でも、決して無意味な死ではない)
私は静かに目を閉じた。
皇帝の軍が到着したとはいえ、ゼインの剣は私の喉元にある。最強の騎士である彼が本気で剣を振るえば、宰相の近衛兵が彼を取り押さえる前に、私の首は確実に落ちるだろう。
でも構わない。私の命と引き換えに、この腐敗し、イカれた王子が裁かれ、ローゼリット家と帝国が救われるのなら、それは本望だ。
空気を裂く、鋭い刃の音が響いた。
しかし――いつまで経っても、私に鋭い痛みは訪れなかった。
代わりに聞こえたのは、ガツン! という硬い靴音が床を踏み砕く音と、誰かが息を呑む音。
恐る恐る目を開けた私の視界に飛び込んできたのは、信じられない光景だった。
私を殺すはずの氷刃の騎士。
ゼイン・ギルフォードは、いつの間にか私を背に庇うように立ち塞がっていた。
そして、彼の冷たい白銀の剣先が突きつけられていたのは、他でもない――彼の主であるはずの、カイル殿下の喉元だった。
「ゼ、ゼイン……? お前、何をしている……!? 剣を向ける相手が違うだろう! 狂ったのか!」
剣先を突きつけられたカイル殿下が、腰を抜かして無様に床へ這い蹲る。
広間中の誰もが、その光景に言葉を失っていた。私も同じだ。なぜ、カイル殿下の最も忠実な猟犬が、彼に牙を剥いているのか。
ゼインは表情一つ変えず、カイル殿下を見下ろして、その極寒の声を響かせた。
「狂ってなどおりません。私はただ、真の主君の命に従い、ゴミを掃討しているだけです」
「真の……主君だと……? 土壇場で寝返る犬に、誰が喜んで首を付けると言うんだ!!」
「私の主は、建国の昔よりただお一人。偉大なる皇帝陛下のみ」
その揺るぎ無い言葉に、カイル殿下が絶望の声を上げる。
私は呆然とゼインの背中を見つめていた。カイル殿下の側近であり、私に無慈悲な偽の証拠を突きつけ、私を追い詰めることに誰よりも加担してきた男が、皇帝側の人間……?
「……ど、どういう、こと……?」
私の震える呟きを聞き取ったのか、ゼインはカイル殿下から視線を外さぬまま、懐から一つの小さな銀のロケットを取り出した。
それを見た瞬間、私の心臓が大きく跳ねた。
青い百合の紋章が刻まれたそのロケットは、私が集めた証拠文書を隠し場所に届ける際、「皇帝の影護官」に預けた暗号鍵そのものだった。
「……う、嘘!? あなたが……!? あなたが、『皇帝の影護官』だったの……!?」
皇帝が私と連絡を取るために差し向けた、顔も名前も知らない協力者。夜の闇に紛れて証拠を受け取り、私に励ましの手紙を返し続けてくれた、唯一の希望。
それが、昼間はカイル殿下の隣で私を虫ケラのように見下し、冷酷な言葉を浴びせ続けていた、このゼイン・ギルフォードだったというのか。信じられない。
「ご命令通り、王子の逃げ道を全て塞ぎ、最も効果的な舞台を作り上げましたよ。……我が君、フィオナ様」
ゼインが、初めて見せるような、ひどく甘く、どこか冗談交じりの熱を帯びた声で囁いた。
頭が真っ白になった。
彼が私に突きつけた「完璧な偽造書類」。あれは私を追い詰めるためではなく、カイル殿下自身に「絶対に勝てる」と錯覚させ、この大舞台の真ん中へとおびき出すための、極上の撒き餌だったのだ。私が動けなくなるよう監視していたのも、カイル殿下が差し向けるかもしれない暗殺者から、最も近い場所で私を守り抜くため。
私ですら気づかないほど完璧に、彼は「敵」を演じ切り、同時に私という「光」をたった一人で守り続けていたのだ。
「裏切り者ォォッ! 貴様ら、よくも私を騙したな! 許さんぞ、絶対に殺してやる!!」
泡を食って叫びながら、カイル殿下が懐から剣を引き抜き、狂ったようにゼインへ飛びかかってきた。
しかし、帝国最強の騎士の動きは、素人の暴走などあくびが出るほど遅く見えたに違いない。
ゼインは剣の峰を返し、流れるような動作でカイル殿下の手首を打ち据えた。手首の骨が砕ける生々しい音と共に、剣が宙を舞う。
「ぎゃあああああああっ!!」
カイル殿下が悲鳴を上げて床を転げ回る。その情けない姿は、先程までの傲慢な王子の面影など微塵も残っていなかった。
ゼインは冷酷にその顎を靴底で踏みつけ、地を這うような声で宣告した。
「黙れ、愚か者。お前が皇帝陛下と帝国、そして帝国を愛するフィオナ様に浴びせてきた数々の暴言と侮辱。本来ならば、今すぐその薄汚い舌を切り落としてやりたいところだ。……だが、それを判断するのは、皇帝陛下だ。皇帝陛下の慈悲に感謝することだな」
ゼインの合図で、宰相の近衛兵たちが一斉にアラムルド王国兵士達の武器を奪い、アラムルド王国の兵士達は両手を上げて、降伏していた。
床で喚き散らすカイル殿下と、青ざめて逃げ惑う、カイルとドプドプに繋がっていた取り巻きの貴族たちを次々と拘束していった。
「離せ! 私は次期皇帝だぞ!」という醜い絶叫が、広間の外へと引きずられていき、やがて完全に聞こえなくなる。
残されたのは、己の保身のために手のひらを返そうと必死に取り繕う愚かな貴族たちの震える姿と、完璧な勝利だけだった。
全てが終わった。
カイル殿下の不正は完全に暴かれ、私の無実は証明された。帝国を覆っていた暗雲は、今、完全に払われたのだ。
極度の緊張と安堵が一度に押し寄せ、私の膝からふっと力が抜けた。
床に倒れ込みそうになった私の体を、力強く、そしてひどく優しい腕が抱きとめてくれた。
「……よく、一人で耐え抜いてくださいました。私の、気高き戦乙女」
見上げると、そこには昼間の氷の仮面を完全に打ち砕き、別人のように甘く熱の籠もった瞳で見つめてくるゼインの顔があった。あの手紙のような励まし。
彼の手は私の震える背中を優しく撫で、その体温が、冷え切っていた私の心をゆっくりと溶かしていく。
「ゼイン……あなた、ずっと私を騙して……」
「お許しください。あなたの見事な演技を引き出すためには、私すらも心底憎んでいただく必要があった。……これは我儘ですが、あなたが一人で泣いている夜、声をかけることもできず、冷たい言葉で突き放さなければならなかった私の胸の痛みも、少しだけ分かっていただきたい。しかし、もうすべて終わりました」
彼が苦しげに顔を歪め、私の髪をそっと整えてくれた。
その感触に、私の中に溜まっていた緊張の糸が完全に千切れ、大粒の涙がとめどなく溢れ出した。
彼がどれほどの覚悟で、誰よりも近い場所で私を守り抜いてくれていたのか。
憎まれることを承知で、泥を被り続けていた彼の孤独を思うと、胸が張り裂けそうだった。私は無意識に彼の唇へ引き寄せられ、そっとキスをした。彼は優しくそれを受け入れてくれた。
「……馬鹿な人。本当に、意地悪な人……」
「ええ。私は皇帝陛下への忠誠と、あなたという勇敢な女性を手に入れるためならば、悪魔にでもなる男です。……カイルという障害は消え去りました。これからは、私が生涯をかけて、あなたを守り抜くと誓いましょう」
ゼインは私を抱き寄せたまま、誰の目も憚ることなく、熱を帯びた瞳で私を見つめた。
ざわめく貴族たちの声も、宰相の言葉も、今の私にはもう何も聞こえない。ただ、私を抱きしめるこの不器用で優しすぎる騎士の心臓の音だけが、心地よく耳に響いていた。
この王国の、腐敗した貴族自身が、己の傲慢さゆえに真実を見る目を失い、破滅への階段を転げ落ちていったのだ。
煌びやかなシャンデリアの下、私を不当に断罪しようとした男が全てを失った夜。私は涙を拭い、私だけを守る真の騎士の腕の中で、極上の微笑みを浮かべたのだった。




