65 伏見
冊子を開く。
いつの頃だったか。
朝風に、神棚の紙垂が揺れる。
矢を放った姿勢を保つ。
残身、は残心。
弓道の上段者は無心でいられるそうだが、生憎と道のりは険しい。
朝練の一射目、残念。
的の十一時の方向、二センチ。白羽の矢が垜に刺さっている。惜しい。悔しい。
矢所を確認して、弓倒し。物見を返して、次の矢に移る。
十一時の方向に外したということは、離れがよくなかったということだ。
息を吐く。深く吸って気持ちを切り替える。
乙矢を弦に番えれば、ぱちんと小気味よい音が響いた。
物見。
的は二十八メートル先。
微風に、矢道の草たちが葉先を震わせる。
青々と茂るタンポポ、エノコログサ、カヤツリグサ、トウダイグサなどなど。
他の弓道場と違って、ここでは芝生の代わりを野草たちが務める。
物見を返して、取懸け。手の内。
反復。反復。
ただ、丁寧に。
的を見る。
打起し、大三。
体に馴染んだ動作。身に刻まれた所作。
引分け――会。
視界はぼんやりする。一方で、感覚は研ぎ澄まされていく。
静寂。
弦の軋む音もしない。それでも、力は天地左右に伸び合う。
時が止まった瞬間。
そうして訪れる〈離れ〉。
たん、という的音に意識が引き戻された。
矢所、中白。
正しく射れば、正しく中る。
安堵のため息が出た。
残心、弓倒し。足踏みを閉じて、ふいに疑問が湧く。
――正しい、とは何なのか。
風に神棚の紙垂が揺れる。
畳に座り、居残り練の的中記録をつけていた時だった。
「基準の基準は何か」
「は?」
ぶっ飛んだ問いは、間違いなく俺に向けられていた。
「拾い食いでもしたんですか?」
「失礼なやつだな、鳴海は」
不服そうに榊先輩が眉を寄せる。
「いや、だって。いきなり変なこと聞くので」
手元が狂ってエンピツが床に転がった。夜闇に軽やかな音が響く。
「なんだ。『射位に入ったら喋るな』じゃないのか」
「それもそうですが」
ふぅん、とつまらなそうに榊先輩が鼻を鳴らす。甲矢を番えて弦調べ。物見。雑談しながらも、その所作に雑さはない。
弽を外した右手で落としたエンピツを拾う。
芯が折れていた。
畳の上、榊先輩の黒い上着の傍にあった黄色い鳩缶を引き寄せ、蓋を叩く。
「小刀と懐紙」
ことん、と鳩缶の中から応える音がする。
開ければ、古びた小刀と真新しい懐紙。
正座から胡坐に座り直し、懐紙を畳の上に置く。
小刀の刃にエンピツを当て、削る。
コツは小刀を動かすのではなく、エンピツのほうを動かすこと。
「芯の先が尖ったら完成?」
「いえ。それだと折れやすいので、適当なところで止めます」
「ふーん」
訊ねておいて、榊先輩はどうでもよさそうだった。
手の内をつくり終え、物見。
彼女の纏う雰囲気が変わる。
ぴんと張り詰めた空気の中、打起し。
音もなく、それでいて滑らかな大三、引分け。
会。
エンピツを削る手を止めた。
教本に載っていそうなほど美しく、正しい射形。
高い弦音と矢が中った的音に、あぁ〈離れ〉たんだと思った。矢を離したのではない。自然に必然な〈離れ〉。
「それで話は戻るんだが」
「……残心で喋るのは駄目ですよ」
闇中でもわかる。矢所、中白。
「基準の基準は何か」
「えーと、平均のことですか?」
「全然違う」
一刀両断された。
「それは中間や平衡の話だ」
「そもそも、何の基準ですか?」
前提がない。範囲が広すぎる。
「だから、基準」
その返しはずるい。
どう答えても的中しないので、口を閉じる。顔を伏せ、エンピツを削ることに集中する。
刃が木と黒鉛を薄く削ぐ。
削りかすが懐紙の上に積もる。
小刀を動かす音に、ぱちんと小気味よい音が重なった。榊先輩が乙矢を番える。
「甲矢を基準にするなって話さ、鳴海」
力加減を間違えた。
ざくり、と小刀の刃がエンピツに食い込む。
「あっぶな!」
「何やっている」
呆れたような榊先輩の声。
「いやいやいや、誰のせいですか。今それ言いますか!」
「だから、初めから言っている。基準の話」
飛躍にも程がある。
「主語を省略できる日本語を悪用しないでください!」
「お前、甲矢の的中率が悪いだろう」
その通りなので口を噤むしかない。
開いたままの記録帳には、一射目の欄に×が並んでいる。
「それで、二射目からは外さない。三中はほぼ、このパターンだろ」
「……はい」
「どうしてだと思う?」
それは、さっき言われた。
「甲矢を基準にしているから、です……が」
声がかすれる。混乱する。
そんなつもりは、まったくなかった。
狙いはいつも半月。
「矢所を確認して射形を修正するのは、普通のことですよね?」
「うん」
弦調べをして、榊先輩が頷く。
「ただ、一射目にすべてが出る」
その声に頬を叩かれた。
「射形、狙い、体の調子。心の在り様。一射目が一番こわい」
榊先輩が目を伏せる。
言い含めているのは己か、俺か。
「そんなこと聞くと、余計に外しそうな気がします」
「気のせいだな」
ソウデスカ。呟けば、榊先輩はさっさと物見に入った。
息に応じた射法八節。
淀みなく放たれる矢は、違えずに的へ吸い込まれていく。
「――『鉛筆を削つてばかりゐる』。どこかの文豪みたいだな」
榊先輩が射位から出る。
示唆に富んだ引用癖は、今は有り難くない。
「集中できない時に矢数を重ねても、意味がないでしょう」
「真面目―」
榊先輩が弓を壁に立て掛けた。弽と胸当てを取る。
「もう終わりですか」
「ん。そろそろだから」
何が、と疑問が湧く。
「ところで、エンピツは完成?」
「え、あ、いや。あと少しです」
止まっていた手を動かして仕上げる。
小刀が喰い込んでしまった跡は、また今度削り直そう。
「何で」
「無理に成形すると、芯が折れやすくなります」
「ふーん」
訊ねておいて、然したる興味を示さない。
榊先輩にあっさりと思考を読まれたが、いつものことだと思えるほどに慣れた。
が。
畳から、黒の上着が浮き上がったのは驚いた。
ふうわりと宙を舞い、榊先輩の両肩に掛かる。
「ん。ありがと」
長い髪を背に流した、伏し目がちな女性が小さく頷いた。
「ちょ、ちょっと待ってください!」
小刀を鳩缶に片付けた後でよかった。取り落としていたら――。
「危なかったな」
「じゃなくて!」
「幽霊じゃないぞ」
「そうでもなくて!」
にやにやと榊先輩が笑う。
「伏見さんという。別嬪さんだろ?」
「それはそうですが!」
黒の上着に憑いている女性。
慎ましく、榊先輩の傍に控えている。
「やっと視えるようになったか」
「……どういうことですか」
「そういうことだよ」
「意味がわかりません」
やっと、ということは、ずっと居たのか。
事実に気付けば、血の気が引く。
榊先輩が目を細めた。獲物をいたぶるかのような、意地悪さが滲む。
「そういうことだよ」
その意味は、わかりたくもない。
『伏見』




