表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
69/72

65 伏見

 

 冊子を開く。

 いつの頃だったか。



 朝風に、神棚の紙垂(しで)が揺れる。


 矢を放った姿勢を保つ。

 残身(ざんしん)、は残心。

 弓道の上段者は無心でいられるそうだが、生憎と道のりは険しい。


 朝練の一射目、残念。


 的の十一時の方向、二センチ。白羽の矢が(あづち)に刺さっている。惜しい。悔しい。

 矢所を確認して、弓倒し。物見を返して、次の矢に移る。

 十一時の方向に外したということは、離れがよくなかったということだ。


 息を吐く。深く吸って気持ちを切り替える。


 乙矢を弦に(つが)えれば、ぱちんと小気味よい音が響いた。

 物見。

 的は二十八メートル先。

 

 微風に、矢道の草たちが葉先を震わせる。

 青々と茂るタンポポ、エノコログサ、カヤツリグサ、トウダイグサなどなど。

 他の弓道場と違って、ここでは芝生の代わりを野草たちが務める。


 物見を返して、取懸け。手の内。

 反復。反復。

 ただ、丁寧に。


 的を見る。

 打起し、大三。

 体に馴染んだ動作。身に刻まれた所作(しょさ)


 引分け――会。

 視界はぼんやりする。一方で、感覚は研ぎ澄まされていく。


 静寂。


 弦の軋む音もしない。それでも、力は天地左右に伸び合う。

 時が止まった瞬間。

 そうして訪れる〈離れ〉。


 たん、という的音に意識が引き戻された。


 矢所、中白(なかじろ)

 正しく射れば、正しく(あた)る。

 安堵のため息が出た。


 残心、弓倒し。足踏みを閉じて、ふいに疑問が湧く。

 ――正しい、とは何なのか。

 風に神棚の紙垂が揺れる。






 畳に座り、居残り練の的中記録をつけていた時だった。


「基準の基準は何か」

「は?」

 ぶっ飛んだ問いは、間違いなく俺に向けられていた。


「拾い食いでもしたんですか?」

「失礼なやつだな、鳴海は」

 不服そうに榊先輩が眉を寄せる。


「いや、だって。いきなり変なこと聞くので」

 手元が狂ってエンピツが床に転がった。夜闇に軽やかな音が響く。


「なんだ。『射位に入ったら喋るな』じゃないのか」

「それもそうですが」


 ふぅん、とつまらなそうに榊先輩が鼻を鳴らす。甲矢(はや)を番えて弦調べ。物見。雑談しながらも、その所作に雑さはない。


 (ゆがけ)を外した右手(めて)で落としたエンピツを拾う。

 芯が折れていた。

 畳の上、榊先輩の黒い上着の傍にあった黄色い鳩缶を引き寄せ、蓋を叩く。


「小刀と懐紙」


 ことん、と鳩缶の中から応える音がする。

 開ければ、古びた小刀と真新しい懐紙。


 正座から胡坐に座り直し、懐紙を畳の上に置く。

 小刀の()にエンピツを当て、削る。

 コツは小刀を動かすのではなく、エンピツのほうを動かすこと。


「芯の先が尖ったら完成?」

「いえ。それだと折れやすいので、適当なところで止めます」

「ふーん」


 訊ねておいて、榊先輩はどうでもよさそうだった。

 手の内をつくり終え、物見。

 彼女の纏う雰囲気が変わる。


 ぴんと張り詰めた空気の中、打起し。

 音もなく、それでいて滑らかな大三、引分け。


 会。

 エンピツを削る手を止めた。


 教本に載っていそうなほど美しく、正しい射形。


 高い弦音と矢が(あた)った的音に、あぁ〈離れ〉たんだと思った。矢を離したのではない。自然に必然な〈離れ〉。


「それで話は戻るんだが」

「……残心で喋るのは駄目ですよ」

 闇中でもわかる。矢所、中白。


「基準の基準は何か」

「えーと、平均のことですか?」

「全然違う」

 一刀両断された。


「それは中間や平衡の話だ」

「そもそも、何の基準ですか?」

 前提がない。範囲が広すぎる。


「だから、基準」

 その返しはずるい。

 

 どう答えても的中しないので、口を閉じる。顔を伏せ、エンピツを削ることに集中する。


 刃が木と黒鉛を薄く削ぐ。

 削りかすが懐紙の上に積もる。


 小刀を動かす音に、ぱちんと小気味よい音が重なった。榊先輩が乙矢を番える。


甲矢(はや)を基準にするなって話さ、鳴海」


 力加減を間違えた。

 ざくり、と小刀の刃がエンピツに食い込む。


「あっぶな!」

「何やっている」

 呆れたような榊先輩の声。


「いやいやいや、誰のせいですか。今それ言いますか!」

「だから、初めから言っている。基準の話」

 飛躍にも程がある。


「主語を省略できる日本語を悪用しないでください!」

「お前、甲矢の的中率が悪いだろう」


 その通りなので口を噤むしかない。

 開いたままの記録帳には、一射目の欄に×が並んでいる。


「それで、二射目からは外さない。三中(さんちゅう)はほぼ、このパターンだろ」

「……はい」

「どうしてだと思う?」

 それは、さっき言われた。


「甲矢を基準にしているから、です……が」


 声がかすれる。混乱する。

 そんなつもりは、まったくなかった。

 狙いはいつも半月。


「矢所を確認して射形を修正するのは、普通のことですよね?」

「うん」

 弦調べをして、榊先輩が頷く。


「ただ、一射目にすべてが出る」

 その声に頬を叩かれた。


「射形、狙い、体の調子。心の在り様。一射目が一番こわい」


 榊先輩が目を伏せる。

 言い含めているのは己か、俺か。


「そんなこと聞くと、余計に外しそうな気がします」

「気のせいだな」


 ソウデスカ。呟けば、榊先輩はさっさと物見に入った。

 息に応じた射法八節。

 淀みなく放たれる矢は、(たが)えずに的へ吸い込まれていく。


「――『鉛筆を削つてばかりゐる』。どこかの文豪みたいだな」


 榊先輩が射位から出る。

 示唆に富んだ引用癖は、今は有り難くない。


「集中できない時に矢数を重ねても、意味がないでしょう」

「真面目―」

 榊先輩が弓を壁に立て掛けた。弽と胸当てを取る。


「もう終わりですか」

「ん。そろそろだから」

 何が、と疑問が湧く。


「ところで、エンピツは完成?」

「え、あ、いや。あと少しです」


 止まっていた手を動かして仕上げる。

 小刀が喰い込んでしまった跡は、また今度削り直そう。


「何で」

「無理に成形すると、芯が折れやすくなります」

「ふーん」


 訊ねておいて、然したる興味を示さない。

 榊先輩にあっさりと思考を読まれたが、いつものことだと思えるほどに慣れた。


 が。

 畳から、黒の上着が浮き上がったのは驚いた。

 ふうわりと宙を舞い、榊先輩の両肩に掛かる。


「ん。ありがと」

 長い髪を背に流した、伏し目がちな女性が小さく頷いた。


「ちょ、ちょっと待ってください!」

 小刀を鳩缶に片付けた後でよかった。取り落としていたら――。


「危なかったな」

「じゃなくて!」

「幽霊じゃないぞ」

「そうでもなくて!」

 にやにやと榊先輩が笑う。


「伏見さんという。別嬪さんだろ?」

「それはそうですが!」


 黒の上着に憑いている女性(ひと)

 慎ましく、榊先輩の傍に控えている。


「やっと視えるようになったか」

「……どういうことですか」

「そういうことだよ」

「意味がわかりません」


 やっと、ということは、ずっと居たのか。

 事実に気付けば、血の気が引く。


 榊先輩が目を細めた。獲物をいたぶるかのような、意地悪さが滲む。


「そういうことだよ」

 その意味は、わかりたくもない。



『伏見』



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ