64 灯る魚(ともるうお)下
美術室は鍵が閉まっていた。
「今日は休みだ。好都合」
誰もいない廊下。
壁には紅白リボンがついた動物の絵が飾られている。古谷先輩がポケットから鍵を取り出して、差し込む。難なくドアが開く。
「いつの間に鍵を借りたんですか」
古谷先輩の後に続いて美術室に入る。
カーテンが開けられた室内は、夕陽でオレンジ色に染まっていた。天板が広い独特な机。四角で木製の座り心地が悪いイス。整然と並ぶ。
部屋に沁みついた独特な匂い。
絵の具と、油と、紙と、木と、糊と、粘土と、石膏と、鉄と、鉱物と、チョークと、柑橘系の刺激臭。
「鍵の象徴のひとつは『特権』だ」
「は?」
変化球の返答を捕え損ねた。
「古来より開閉するためのもの。魔を封じ、富を蓄える」
古谷先輩が長い脚で机の間を通り抜け、奥へと向かう。
「武家の家紋にもあるが、有名どころではヴァチカンだな」
奥の壁には、キャンバスを乾燥させる網棚。三十段ぐらい。幅が細い段に、大きさが不揃いな絵が並ぶ。
「金と銀。交差する二本の鍵は、ローマ教皇を示す」
古谷先輩が絵を一枚ずつ確認する。どれも描き途中の作品だった。
「えーと、つまり?」
世界史は得意ではない。
「言っただろう。鍵は『特権』の象徴でもあると」
「だから、なんですか」
「『天国の門』を開けることができるなら、平凡なシリンダー錠なんて容易だってことだ」
「……なんでも開けられる鍵を持っている?」
古谷先輩が振り向いた。
にたり、と嗤う。
「正解」
気付いた。
わかった。
血の気が引いた。
「どうして学校のマスターキーなんて持っているんですか!」
「無論勿論。世界民族風俗記念日研究部の現部長だからさ」
絶対、違法的手段で作ったな。
「どこの部活にも、代替わりに継承の儀式があるだろ。そのひとつ。普通だろ」
「奇抜ですよ!」
「ウチの部室の鍵がこれだぞ」
古谷先輩がマスターキーを見せた。とち狂っているのは現部長だけではなかった。
そもそも、世界民族風俗記念日研究部という訳のわからない、活動内容不明瞭な部が存続できることが謎だ。何かの陰謀か。
「なんなら職員室へ告発するか? ここに不法侵入した時点で、お前も同罪なんだが」
認めたし、まさかの巻き添え。
「今は協力しろ」
何が悲しくて古谷先輩に従わなければならないのか。
「帰りの夜道は背後に気を付けてくださいね」
「お前は闇討ちなんてしない」
確信を持って言われた。そうだけど。
「ない……か」
古谷先輩が美術室を見回した。何かを探している。
「完成させたと言っていた、水口の猫の絵」
「確かに……、ありませんね」
別の保管用棚を見たが、猫の油絵はなかった。
古谷先輩がマスターキーを使って隣の美術準備室を開ける。石像や木材や塗料の缶が押し込まれている。空振りの気配に、古谷先輩は眉根を寄せ、元通りに鍵を閉めた。
「どこかに飾られているのか――」
「あっ、美術室前の廊下!」
閃きは鼻で一蹴された。
「掲示されていたのは、動物愛護絵画コンクールに入賞した部員の作品だ」
「ああ……、そうですか」
「お前、絵に興味ないだろう」
「普通です」
「それは『日常生活において基本的に絵画への関心はないが、授業および試験に付随する場合は注意を払う』という解釈でいいか?」
小難しい表現をする。やはり変人。
「俺だって、良い絵だなーとか思いますよ。えーと、下駄箱の大きな森の絵とか。西棟……だっけ……三階にある、魚の群れの絵とか」
聞いているのか、いないのか。古谷先輩はさっさと美術室を出ていく。慌ててその後を追う。
「お前が言ったのは、両方とも卒業生の作品だ」
美術室の鍵を閉めて、古谷先輩が廊下を歩く。
壁に絵が飾られている。コンクールに入賞したという動物の絵。よく見れば、絵の下に名札があった。名前が違う。
「そういえば、古谷先輩は『天使の絵』を見たことありますか?」
「七不思議のひとつか」
歩きながら古谷先輩が呟く。視線は廊下の壁に飾られたいくつもの絵に向けられている。
どこの高校にもある話。
「西棟の四階に飾ってある、一枚の少女の絵」
卒業生の姉ちゃんに教え込まれた。
「満月の夜の午前零時十三分に、描かれた少女が天使へ変わり、願いをひとつだけ叶えてくれるってやつです」
「――見ないほうが良い」
バリトンの声が鼓膜を震わせた。
「あれは、見ないほうが良い」
唄うようでも、なぶるようでもなく。
真剣な古谷先輩の声に息を呑む。
「……どうして、ですか」
「僕の口からは説明できない。ただ、忠告はする」
見るな、と古谷先輩は言う。
黄昏時、傾いた陽が廊下を照らす。
燃えるような朱色、魔を祓う色。
けれども、すぐに逢魔が時。光が絶えて、闇が来る。
「いった!」
左腕に鋭い痛みが走った。
「どうした」
「……噛まれました。たぶん」
袖を捲れば、手首の辺り。黒い魚がヒレを動かしていた。
古谷先輩も覗き込む。皮膚に赤みや傷はない。
ふっと、彼が顔を上げた。
導かれるように視線の先。廊下の壁に飾られたいくつもの絵、そのひとつ。
「そういうことか」
「どういうことですか?」
古谷先輩が小さく息を吐く。
「わけがわかった」
「俺はわかりません」
「僕がわかった。それでいい」
「よくないですよ!」
説明を求めると、古谷先輩はうるさそうに手を振った。
「さえずるな、雛鳥。やかましい」
「いつか闇討ちしますよ本当に」
「怖い、怖い」
袖を直して、睨み上げる。古谷先輩のほうが背が高い。悔しい。
「まったく……、先輩とは偉大だな」
にたり、といつもの笑み。
西棟の三階を歩きながら、古谷先輩が言う。
「ガハクを知っているか」
「画伯?」
絵が上手い人のことか。
「類稀なる才能があった。多作で秀逸。高校にも数点、作品を残している」
「ん?」
古谷先輩と認識にズレがある。彼は誰かひとりを指している。
「作風は繊細にして大胆。水墨画のように、雄弁な空白を得意とした」
美術部の展示が期間限定で行われていた。
水彩、油絵。十点以上の絵が壁に飾られている。
「あ」
一番端は猫が描かれていた。絵の下の名札を見れば、水口の名前。
「お前のお気に入りも、彼の作品だ」
廊下の突き当たり。
白い壁に、一枚の絵が掛けられている。
A3サイズよりも一回り大きい。魚の群れの絵。
その前に、見慣れた彼女の姿あった。
「よう、榊」
「ああ、変人」
榊先輩が振り向いた。その動きを追って、結った黒髪が尾のように揺れる。
「遅かったな、古谷」
古谷先輩が肩をすくめた。
「いつから?」
「金枝篇を読みふけるぐらい」
榊先輩の手には古びた文庫本がある。
「憑代はヤドリギのほうがよかったかな?」
「お前は『森の王』になれないさ」
軽口の解釈をお願いしたい。
「それで、元気か? 鳴海」
「え、あ、はい」
急に会話の輪に引きずり込まれた。
「魚の影は?」
「ここにいます」
左腕を肘から軽く撫でれば、黒い魚が手の甲に現れる。ほう、と榊先輩が息をつく。
「見事だな。これ、紙に留め置こうとは思わなかったのか」
古谷先輩が首を横に振った。
「できると思うか?」
「無理だな。影でさえも」
「えーと。すみません。説明をください……」
原因がわかったのなら、早く魚を返したい。
「猫に驚いた魚が逃げ出した」
榊先輩が猫を指差す。その指先を今度は魚の群れに移した。
頭痛がする。
「……絵、ですよね?」
「どっちも油絵だな」
古谷先輩がいらない補足をする。これが蛇足か。
「どうして絵の魚が逃げ出すんですか!」
「うん? ガハクの作品だから」
当然のことのように榊先輩が言う。
「画伯って、絵が上手い人のことじゃないんですか」
「その意味もある」
榊先輩と古谷先輩の声が揃った。
来い来い、と榊先輩が手招きをする。
大きな絵、魚の群れ。その下にプレート。
――『群泳』卒業生・杉崎雅博
「すぎさき まさひろ」
製作者の名を呼べば、手の甲から魚が泳ぎ出た。
するり、と絵の中に吸い込まれる。
「お、戻ったな」
古谷先輩が満足そうに頷いた。水口の絵に近寄り、それに気付く。
「猫の絵を動かしたのか」
横を向く猫の視線は、絶妙な角度で『群泳』から外れていた。
「期間限定の展示だからな。この件はこれで終わりさ」
じゃ、と榊先輩が歩き出す。
「ちょ、ちょっと待ってください! ガハクって」
「名前の音読み」
古谷先輩が答えた。
「お前も見ただろう、鳴海。呼ぶ者によっては、喚んでしまうから、仮名なんだよ」
「雅博……ですか」
「敬称の画伯でもある。先輩とは偉大だな」
その言葉と嗤い。二回目だ。
どっと疲れが襲いかかる。頭痛がする。肩が重い。
にぃ、と古谷先輩が唇を吊り上げた。人を食った嗤笑。
「……本当に人を食ったことがあるんじゃないんですか」
「ご明察」
「はっ?」
「なんてな」
ひらりと手を振り、古谷先輩が去っていく。
残されて、疲労感が倍増する。
「……なんで、からかわれるんだ……」
榊先輩と古谷先輩が、同時に振り向いた。
「『雛鳥だからさ』」
『灯る魚』




