63 灯る魚(ともるうお)中
「さて」
用があるのは、隣の第四教材室。
古谷先輩がいるなら話は早い。傘を返す。それだけだ。長居は無用。
ノックして、ドアノブを回す。
――りん、と鈴の音が聞こえた。
「うん?」
振り返るが、誰もいない。ただの気のせいか。
ドアは古かったが、難なく開く。
ほぼ全面が、本棚で埋め尽くされた部屋の中。二人の生徒が、驚いたように俺を見た。
「おい。結界をやすやすと破るなよ」
唯一、本棚で覆われていない箇所。窓を背にして立つ古谷先輩が、顔をしかめる。
「……何のことですか?」
意味がわからない。
全然、まったく、心当たりがない。普通にドアを開けただけだ。
古谷先輩と向かい合うようにして立つ、女子生徒が表情を強張らせていた。学年章を見るに、同じ一年生。
「お取り込み中……でしたか。出直します」
「待て。ちょうどいいから、ここにいろ」
そう言われても。
黙りこくった女子の、沈んだ表情に察する。
「痴話喧嘩には巻き込まれたくないので。失礼します」
「馬鹿者。そんなんじゃない」
本当かよ。
「お前にも関係あることだぞ」
ドアを閉じる手が止まる。
古谷先輩を見れば、入って来いと顎で示された。
腹が立つ。
腹が立つが、それ以上に気になるので、大人しく部屋の中に入る。ドアを閉めれば、古谷先輩が鼻を鳴らした。
「俺にも関係があるって、どういうことですか?」
痴話喧嘩に巻き込まれる心当たりはないし、彼女とも初対面だ。
「水口。さっきの話を、鳴海に聞かせてやってくれ」
古谷先輩に促され、彼女が俺を見た。
「……一年四組の水口美奈です」
ぺこりと頭を下げられた。肩までの髪が揺れる。
「えーと、一年一組の鳴海です。古谷先輩とは、全く無関係で、全く親しくないので、悪しからず。早く部活に行きたい」
ひどいなお前、と古谷先輩がぼやく。
「困っている人がいるんだぞ? 助けてやろうとは、思わないのか」
「思います。古谷先輩以外なら」
「……ずいぶんと嫌われたなぁ」
わざとらしく肩をすくめる古谷先輩に、持っていた黒い雨傘を突き出す。にたりと嗤って、古谷先輩が受け取る。
「一応、礼は言います。ありがとうございました」
「うん。じゃあ、恩を返してもらおうか」
――押し売りしておいて、よく言う。
睨み返しても、古谷先輩は気にしていないようで、水口に目を向けた。
「それで。僕への相談事は、どんなことだったかな」
「えっと、これ……見える?」
水口が左腕の制服の袖を、肘まで捲り上げる。
日焼けしていない白い肌の上に、一匹の魚がいた。長いヒレを持つ、十センチほどの黒い魚。
絵ではない。
影ではない。
その証拠に、エラと口をぱくぱくと動かしている。
「それ、どうした」
訊ねれば、水口は俯いた。
一見、黒い魚からは悪い感じはしない。
ただ、異様。
人の腕に、黒い魚が宿っている。
「一週間前から、現れるようになって……」
じっと見つめれば、黒い魚はふるりと体を震わせた。本当に、生きているかのようだ。
「家族や、友達には、見えないの。鳴海君は……見えるんだ」
頷けば、水口はほっとしたように息をついた。
「驚かないんだね」
「いや、ちょっとびっくりしたよ。でも、まぁ。慣れてるし」
不思議なもの。
怪異というか、何というか。人の道理から外れたものに遭遇するのは、初めてではない。
「体調は大丈夫なのか。腕が痛んだりはする?」
水口が首を横に振った。
「体は、大丈夫。なんともない。ただ、魚が皮膚の上を泳ぐだけで……」
それが怖いのだと、水口は言う。
「……今は、左腕だけだけど。ちょっとずつ、動く範囲が広くなっているの。最初は、手の甲だったのに。最近じゃ、肩まで泳ぎ回るようになって」
ぽつりぽつりと、水口が言葉を紡ぐ。
「魚も、もっと小さくて、一センチぐらいだったのに。いつの間にか、大きくなった」
水口が袖を下ろし、左腕を手でさすった。
「一週間前に、変わったことはあったのか? 寺社や、何処かに出かけたとか」
古谷先輩の質問に、水口が首を振る。
「放課後は部活ですし。出かけたとしても、友達と一緒にカフェやショップ、いつもの場所です」
「部活は何部だ」
「美術部です」
ふーん、と古谷先輩が腕を組み、手で顎を撫でた。
「最近、部活で変わったことは?」
「……変わったこと、というか。作品をひとつ、仕上げました」
水口曰く、初めてチャレンジした油絵だという。
ふいに、閃いた。
「もしかして。その完成した絵が、抜け出たんじゃ――」
ふるふると、水口が首を振った。
「それはない。だって、あたしが描いたのは、猫の絵だもん」
猫好きだから、とのこと。
「ふーん」
古谷先輩の相槌。
目が合えば、見下されているようで、無条件に腹が立った。
「何ですか。考えが浅いって、言いたいんですか」
「ご明察。さすがは書記係の雛鳥」
褒められている気は一切しない。
「原因はともかく。依頼は、その腕の魚をなんとかしてほしいってことか」
「……はい」
水口が頷く。
話を聞く限り、俺に関係があることだとは思えない。
それでも、水口の不安そうな表情に、何かできないのかと考えてしまう。
「鳴海」
「……なんですか」
にたり、と古谷先輩が嗤った。
「お前、魚を預かれ」
「は?」
意味がわからない。
「言った通りさ。こうなった原因を探るから、その間、水口の魚を預かれ」
特に害を成すものじゃない、と古谷先輩が付け足す。
「それとも、怯えている女子を放っておくのか?」
すがるような眼差しで水口が俺を見た。
「そんなこと一言も言っていません。でも、預かることが、できるものですか?」
古谷先輩が首を傾げる。
「さぁ?」
「さあって!」
確信があったんじゃないのか。
「普通なら無理だけど、お前は書記係見習いだから」
全然、まったく、理由になっていない。
「どうして、書記係だとできるんですか?」
古谷先輩が目を見張った。
「お前、聞いてないのか」
疑問を質問で返すのは反則だ。
「……何をですか」
「うん? 部外者が口を挟むことじゃあ、ないからな。知―らない」
唄うように、なぶるように。
その軽い声音に腹が立つ。水口がいなければぶん殴ってやるところだった。
古谷先輩が窓際から移動する。
本棚の上、何故かある神棚から、供えられていた榊の枝を手に取った。
「ほら」
古谷先輩から、差し出された榊の枝を受け取る。
「それで魚を撫でれば、榊の葉に移る」
「俺がやるんですか?」
「書記係だからな」
しれっと言い返された。水口が相談に来たのは古谷先輩なのだから、自分でやればいいのに。
「お前ができなかったら、僕がやってもいい。見習いがポンコツなら、当代も大したことないな」
にたりと笑う古谷先輩。
間違いなく、喧嘩を売ってくれた。
――売られた喧嘩は買う主義だ。
耳に蘇る当代書記係の声に、腹が決まる。
「いいですよ。俺がやります」
目が合えば、水口が袖をまくった。
黒い魚は左腕の肘の内側にいた。掬うように榊の枝で撫でれば、あっさりと黒い魚は葉の上に移動する。
「古谷先輩。これ、どうしたらいいんですか?」
「お前の利き手じゃないほうの腕に移せ」
ということは左腕か。弓手か。
榊の枝を左手の甲に触れさせる。
黒い魚は動かない。
じっと、葉の上に留まったままだ。
「嫌われたな」
古谷先輩が喉を鳴らして嗤う。
「怪異に好かれても困ります」
「つまらない正論だ」
「たのしい異論はあるんですか」
「無論勿論。『おもしろきこともなき世をおもしろく』だ」
「高杉晋作ですね!」
水口が叫び、表情を輝かせる。その豹変ぶりに少しびびった。
「え、知ってるの?」
「うん。だって幕末大好きだから!」
推しはねー、と水口が嬉しそうに話し始める。ふんふん、と古谷先輩は話を聞く。
「水口。図書室に新しく幕末関係の図書が入ったぞ」
「本当ですか! 借りにいきます!」
図書室の利用者を増やしてくれるのは、図書委員としても有り難いが。ちょっと、なんだか腑に落ちない。俺のことそっちのけで、二人で盛り上がっている。
黒い魚は、榊の葉の上から動かない。
「もう、このままでいいんじゃないですか?」
「駄目だ」
古谷先輩が首を横に振った。
「その榊の枝は一時的な憑代だ。効力がなくなったら、魚は水口の腕に戻るぞ」
「……右腕も移らないんですが」
試してみたが、黒い魚は動かない。
「書記係見習いのくせに、できないとは」
「じゃあ、古谷先輩はできるんですか」
ハンッ、と鼻で嗤われた。
「――そろそろ殴ってもいいかな」
「おい鳴海。心の声が漏れているぞ。不注意極まりないぞ」
「大丈夫です。故意ですから」
「専守先攻」
不可解な言葉とともに古谷先輩が榊を奪い取り、俺の左腕を叩いた。
「いった!」
べちん、と音が響く。
小枝といっても十分な質量。驚いた水口が目を丸くする。
「ほら、移っただろう」
古谷先輩が指差す。皮膚の上に黒い魚が宿っている。
「なんだ。所詮、嘴の茶色い雛鳥。こんなものか」
「……『後進をあまりいじめないでいただきたい』」
零れ出た声に一瞬、古谷先輩の眉が跳ねた。
そうして謎の大爆笑。
思わず水口と顔を見合わせる。
「ふ……、くくっ。なかなか面白いじゃないか」
「俺、変なこと言いました?」
「無自覚だとは。なお面白い」
榊の小枝で頭を叩いてくる。
「ちょ、やめてください」
上機嫌な古谷先輩ほど不気味なものはない。
「喜べ、水口。もう大丈夫だぞ」
「本当ですか?」
「ああ」
古谷先輩が神棚に榊を戻す。ちらっと、水口が心配そうな視線を向けてきた。
「鳴海君は……大丈夫?」
「あー、うん」
頭痛や耳鳴り、気分が悪くなるなどの体調変化はない。
左腕をさすれば、黒い魚が泳いだ。手の甲に移動する。ひらひらと長いヒレが揺れる。
「鳴海のことは気にするな」
古谷先輩が言い切ることではない。
「あとはこっちで始末をつける。代償は後日で構わない」
「あ……、はい」
水口が頷く。
「もう帰っていいぞ」
ぺこり、と水口が頭を下げた。部屋から出ていく。
古びたドアが閉じれば、古谷先輩と二人きり。
「それじゃ、行こうか」
唄うように、なぶるように。
楽しそうな声音に、頭の中で警鐘が鳴った。




