66 草琴(そうきん)
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夏も過ぎ、時折、涼風が吹く頃だった。
夕方になると、暑さは幾分和らぐ。
それでも、矢道の野草たちは元気だ。
旺盛に緑を茂らせている。乾いた冷風に葉を揺らしている。さやさやと葉擦れの音。
しん、と静まった意識の中にすべり込む。不快ではない。
引分け。からの、会。
風が吹く。
野草が揺れる。
離れ。
白羽の矢が真っ直ぐに飛翔する。
タンッ、と的音。
矢所、中白。三時の方向。
残身のまま、胸をなで下ろす。
さりん、さりん。
風が吹き渡る。神棚の紙垂が揺れた。
さりん、さりん。
「……ん?」
さりん。さりん。
弓倒しをして、射位から出る。不思議に思い、周囲を見回す。
さりん、さりん。
どこからか、金属音が聴こえる。
しゃりん、しゃりん。
風が松葉を揺らすような、かすかな音。
しゃりん、しゃりん。
しゃら、さん。しゃら、さん。
意識しなければ、気にならない。
しゃりん、しゃりん。
しゃら、さん。しゃら、さん。
が、気づいてしまった以上、気になる。
自主練の今は大人しくても、平日の部活時間に大暴れされても困る。何事も早期発見、早期対処。
さやさやと鳴る風に、さしゃら、さしゃら、と張った細い糸を弾くような音が重なる。
さやさや。
しゃら、しゃら。
さやさや。
しゃりん、しゃりん。
弽を着けたまま、弓弦を弾いた。
ビンッ。
弦音に驚いたのか、音が止まった。
しん、と静寂が満ちる。
「……いや、悪かった。咎めたわけじゃない」
さやさやと風が吹く。
矢道の野草たちが緑の葉を揺らす。
弓を立てかけ、弽を外した。
下駄箱から雪駄を取り出し、本当はいけない経路短縮。弓道場の縁から、直接矢道へ下りる。どうせ人はいないので、内緒にしてもらう。
矢道の中央に立てば、生い茂る木々に切り取られた青空。
うだる夏の頃よりも、青が薄く、高い気がする。涼やかな風が吹く。野草たちが葉を揺らす。
さやさや。
しゃら、しゃら。
さやさや。
しゃりん、しゃりん。
「野襤褸菊」
「――はい」
名を呼べば、茶髪をひっつめた男が現れた。
どんな季節でも、まとめた毛先は黄色く、上は蘇芳の着物、下は緑の袴。ぼろぼろで、趣味がよいとは言えない。言う予定もないけれど。
さりん、さりん。
しゃらり、しゃらり。
しゃらりら、しゃらりらん。
「地面に膝をつく必要はないぞ」
「畏れながら。矢の君は書記係でございます」
「うん。何度、このやり取りしてもダメか」
「駄目でございます」
野襤褸菊が俺を見る。
「礼を欠く謂れはございません」
「うーん」
指で耳裏を掻けば、ふっと野襤褸菊が微笑んだ。
「そういうものでございます」
「ふーん。あんまり嬉しくないな」
「そういうものでございます」
「いや、繰り返さなくても」
野襤褸菊は笑みを浮かべている。糸目でわかりづらいが、絶対心から笑っている。何が面白いのだろうか。
「まあ、いいや。訊こうと思ったのは……」
風が吹く。
さりん、さりん。
しゃらり、しゃらり。
しゃらりら、しゃらりらん。
何かが鳴る。
「聴こえるか?」
「はい。草琴でございますね」
「そうきん?」
「人の世で言う、和琴です」
「わごん……、琴のことか」
「総称ではなく。六弦を張り、爪を使わずに、指でつま弾くものを指します」
琴って一種類だけじゃないのか。
「よく知っているな」
「勿体なき御言葉」
「んで、どうして和琴の音が聴こえる? 〈紫苑の森〉で誰か弾いているのか?」
野襤褸菊は曖昧に頷いた。
「人では、ありませんが」
「だろうな。俺に聴こえる時点でそれはわかってた」
何かが、どこかで琴を弾いている。
さりん。さりん。
しゃりん。しゃりん。
「人に危害は?」
「ありません」
野襤褸菊が首を横に振った。
「そうか」
目を閉じて、耳を澄ます。
さりん。さりん。
しゃりん。しゃりん。
さやさやと風が吹く。
さらら、さらら。
しゃらん、しゃらん。
幽けき音が、風に乗って聴こえてくる。
しゃりん、さりん。
さりん、しゃりん。
そういうこともある。
『草琴』
2021年5月3日。
別シリーズ進行のため、しばし停滞します。
続きます。




