61 青楓(あおもみじ)
冊子を開く。
二年生の、初夏の頃だった。
自主練の矢取りを終え、垜小屋の裏で涼む。
大岩に座って空を見る。天気が良い。傍に生える楓の青葉を風が揺らす。
ぼうっとしていたら、弓道着姿の榊先輩がやって来た。
開口一番。
「度胸あるな」
「はい?」
それ、と榊先輩が指差す。俺が腰掛けている岩に、何かあるのだろうか。
「たたり石」
腰を上げ、脱兎の勢いで距離を置く。
「たたりと言っても、鳴海が想像している、災いのほうじゃないぞ。『立てり』の上代の言葉さ」
「……ええと」
頭の中で単語が結び付かない。古典はそんなに得意ではない。
「立っている、という意味」
さらりと榊先輩が教えてくれた。
理系クラスに在籍するくせに、古文漢文その他諸々に精通している。代わりに英語は壊滅的。
「何が立っているんですか」
「神様」
ざっと音を立てて血の気が引いた。
「祟られたり、しませんよね?」
榊先輩が岩に視線を投げる。
「平気だろ。そんなに狭量じゃない」
相手は神様です。
「踏み台にする石に腰掛けた程度で、怒る方ではないよ」
「……知り合いみたいに言いますが。会ったことあるんですか」
「そりゃ、勿論」
あっさり頷かれた。
「さすがに、御顔を拝見したことはない。でも絶対イケメンだと思う」
その根拠は。
「……勘ですか」
「勘だよ」
言いようのない疲労感が両肩にのし掛かる。榊先輩の勘は、何故か良く当たる。
風が吹く。
乱れる髪を榊先輩手で押さえた。
「ずいぶん余裕があるな」
唐突に話が飛ぶのは、いつものことで。
「県大会は、楽しみか」
「はい」
懐かしい、あの場所へ行ける。
県央にある、総合運動公園。剣道や柔道の大会が開かれる、大きな武道場がある。そうして、その一角。林に囲まれて、弓道場が建っている。
胸を走る小さな痛みと、腹の底にある微かな温もり。二つがない交ぜになり、悲しいのだか嬉しいのだか、わからない。それでも、不快ではない。
空を見上げれば、楓の葉を透かして、恐ろしいまでの青。雲ひとつない、果てのない蒼穹が広がっていた。風が渡る。青葉が揺れる。
「県央の弓道場は、蚊が多い。試合中に瞼を刺されたヤツもいる。虫除けをしっかりな。泣きっ面は嫌だろう」
蜂ではなく、蚊か。
さすがは常連。いろいろと知っている。
「ここみたいに、大百足が出るんじゃなければ、大丈夫です」
そう言えば、声を上げて榊先輩が笑った。
いつぞや、二十センチ近い大物が男子部室に出たことがある。
「弓道場には現れないから、いいだろ」
「部室や看的小屋には、いろいろ出るのに。どうして弓道場だけ、出てこないんですか」
「そういうものだから」
「意味がわかりません」
緑の木々に囲まれて、野草も好き勝手に生い茂っている。虫も、鳥も、狸も。その他諸々もいるのに、何故、弓道場だけ安全なのか。
「……神棚が、あるだろ?」
榊先輩が呟いた。頷けば、言葉を続ける。
「榊が、あるだろ」
神棚があれば、その両脇に榊を備えるのは当然のこと。
「注連縄ではなく、弓を上げてあるだろ」
確かに。
注連縄の代わりに、紙垂のついた、古い竹弓が掛かっている。
「あとは、私がいて、お前がいる。そういうことだ」
ざっ、と疾風が吹く。
楓が身を震わせる。一枚、二枚。青い葉が宙を舞う。
「……書記係がいるから、ってことですか?」
「そう」
余計にわからなくなった。
弓道部だから、弓を注連縄の代わりにしているのは、なんとなく理解できる。
けれども、書記係がいるからという理由は、腑に落ちない。
書記係。
その役は他の部活でもありそうだが、その実、置いている運動部はない。基本は部長、副部長、加えるとしたら会計。その部活独自の係もあるだろうが、運動部である剣道、柔道、陸上、水泳、野球、サッカー、バレー、バスケ、テニスでは、聞いたことがない。文化部は知らない。
「書記係って、何なんですか」
ふっと、榊先輩が口の端を緩めた。
「あったことを書き留める係。引き継ぐ役」
そのままの答えが返ってきた。
「それだけですか?」
「それだけだ」
単純なことほど、解釈に困る。
「どうして他の部活には、ないんですか」
「弓道部にあれば、必要ないから」
榊先輩が遠く視線を投げる。その先を辿れば、木々が生い茂る〈紫苑の森〉。
「……この場所のせいですか?」
「まぁ。そういうことかな」
小首を傾げて、榊先輩は笑う。はぐらかされたようで――はぐらかされたんだな。
風が渡る。
森の樹々が、ざぁっと枝葉を揺らした。さわさわと、ささめく。声をひそめて、何かが言葉を交わしている。
その、何かが、わからない。
自分の気のせいかもしれないが、そうでないかもしれない。弓の道の外、人の領域から離れたものたちがいる。
「怖いか」
凛とした榊先輩の声。彼女と目が合う。
漆黒の冴えた眼差し。
「恐ろしいか」
疾風が、榊先輩のひとつに結った髪を揺らす。その黒髪が尾のように風になびく。
「……いいえ」
真っ直ぐに見返せば、彼女は僅かに唇の端を歪めた。
「もやもやして、頭の中がこんがらがりますが……怖くも、恐ろしくもないです」
代わりに、胸の奥底をちりちりと灼く熱がある。
「知りたいんです」
風に、葉擦れの音。
緑が波打つ。
「どうして在るのか。どうして、そのように在るのか。俺には、わからないことだらけで。だから――知りたいんです」
身の内を焦がす熱の名。
それは、ぼんやりと、曖昧だが見当がついている。
でも、口にはしない。
「真面目だなぁ」
唄うように、からかうように。
目を細めて、榊先輩が笑った。
「そうして欲張りときた」
意外な言葉に、体が固まる。
「欲張り……ですか?」
そう、と榊先輩が頷いた。胸の前で腕を組む。
「すべてを知りたいなんて、ゼウスもびっくりだぞ」
「全知全能の神になりたいなんて一言も言っていません」
「どうだかな」
にやにや嗤いながら、わざとらしく首を傾げないでもらいたい。
「まっ、いいさ。なるように成るだろう。お前は、お前だからな」
「俺は、何にもなりませんよ」
平穏に生き、平穏に終わりたい。
「ほーう」
偉そうに腕を組んだまま、榊先輩は俺を透かして何かを見ている。眇めた彼女の目に、なんとなく居たたまれなくなって、背後を振り返った。
無論、何もない。
ただ、萌える新緑と、〈紫苑の森〉が在るだけだった。
「これはまた、別の話だな」
意味深に呟かれた。
「……何ですか?」
訊いても、榊先輩はにやにやと嗤って答えてくれない。ずるい。
「ずるくない。何やらかんやら、どうにかしてしまうお前が悪い」
「どういうことですか」
「そういうことだよ」
「意味がわかりません」
榊先輩は、にやにやと嗤っている。
ざぁっ、と風が吹いた。
緑香る大気に、青楓が揺れている。
『青楓』




