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60 蛙石

 

 冊子を開く。

 梅雨前の頃だった。


 弓道場の外の水場には石がある。


 ひとつしかない水道、そのタイル貼りの水受けの下。うっかりすれば、足で蹴ってしまう位置に石はあった。


「どうして、こんなところに」

 絞ったぞうきんを手に、屈み込む。弓道着の袴が地面につかないよう注意。


 ハンドボールより大きく、サッカーボールより小さい、灰色の滑らかな石。うっすらと土埃をかぶっている。形は(いびつ)で、何かに似ていた。


 丸みを帯びた三角形、左右にはふたつのこぶ。

 ひび割れか、横一文字に線が走っている。


「蛙……?」

 呟けば、ぎょろりと目玉が動いた。


「うおっ!」

 思わず身を引く。

 石の蛙がくわっと口を開けた。長い舌が出る。

 蛙は舌で自身の頭をぬぐった。うっすらと積もった土埃。


「気になるのか」

 ぐるん、と蛙の目玉が俺を見た。舌をしまい、口を閉じる。目で訴える。


「……手を喰うなよ?」

 蛙石は何も言わない。ただ、黒い眼玉がじっと見ている。


 持っていたぞうきんを広げ、蛙石の頭を拭く。冷たくて気持ちがいいのか、蛙石は目を細めた。ちゃんと大人しいので、ついでに体も拭いてやる。


「きれいになったぞ」

「ゲコッ」

「鳴けるのか」

 蛙石が瞬きをする。喉を膨らませ、鳴く。


「ゲコッ」

「いや。何言ってるのか、わからん」

「ゲコッ」

 ひと鳴きして、蛙石は目を閉じた。気配が薄まる。


 ただの石に戻った。

 指でつついても、手で撫でても、反応しない。


「寝たかな」

 立ち上がり、水道でぞうきんを洗う。水を止め、しっかり絞る。そのまま弓道場へ戻ろうとしたら、蛙石を蹴ってしまった。


「ゲココッ!」

 左足首を舌で掴まれた。

 つんのめる。

 バランスを崩す。


 転んだ。






「――ということが、あったわけです」

「ふーん」


 畳の上の榊先輩が鼻を鳴らした。正座をしないで胡坐で座っている。女子なのだから、もう少し慎みを持ってもらいたい。


「擦り傷なら、絆創膏を貼るより乾かしたほうが良いぞ」

 俺の右腕を指差す。大きめの絆創膏。


「あ、いや。血は止まったんですが、かゆくて無意識に掻いてしまうんです」

「ああ、なるほど」


 四矢(よつや)を持って射位に入る。

 部活後の自主練。午後六時を過ぎても、まだ外は薄明るい。

 空は灰色の雲に覆われているが、野外灯を点ければ十分に的は見える。


「蛙石は、元から水道下にいたわけじゃない」

 足踏みを終えたタイミングで榊先輩が言った。思わず彼女へ振り向く。


「どういうことですか」

 行射中の私語はよくない。よくないが、気になる。


「そういうことだよ」

「意味がわかりません。どこからか、やって来たんですか?」

「うん。私がつくった」

「は?」


 榊先輩は、軽やかに理解の上を飛んでくれる。


「〈紫苑の森〉で見つけたんだよ。形が蛙に似てるなーって思って、墨で目を入れたら、動くようになった。水気のある水道の下が、気に入ったらしい」

 腹の底から、ため息が出た。


「……何やってるんですか」

「害はないから、別にいいだろ」

 右腕の絆創膏を見せれば、榊先輩が笑う。


足蹴(あしげ)にした鳴海が悪い」

「蹴られる場所に、何でいるんですか」

 お互いに危険極まりない。


「知らん。あの位置がいいんだろ」

「榊先輩から、動いてくれるように言ってくれませんか?」

「言った。手を出す相手は選べと」

 違うそうじゃない。


「それに、蛙石は役立つぞ」

 榊先輩が視線を投げた。その先をたどれば、灰色の空。

 湿った冷風が吹く。

 濃い水の匂いがした。


 ゲコゲコ、と鳴き声が響く。


「雨が降るのを教えてくれる」


 ぽつ、と雨粒が降り出した。




『蛙石』



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