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59 登山者(下)


 二十分。

 腕時計の針をずっと見続けた。


 三十分。

 白い霧は晴れない。


 四十分。

 びょう、と風が吹く。


 四十二分。

 人の声はしない。


 四十四分。

 足音はしない。


 四十六分。

 霧が揺れた。

 はっと顔を上げたが、何も起こらなかった。


 四十七分。

 びょう、と風が吹く。


 四十八分。

 びょう、と風が吹く。


 四十九分。

 びょう、と風が吹く。


 五十分。

 ストックを握り締め、立ち上がった。

 歩く。


 左足首に刺すような痛み。

 でも、血が出ているわけじゃない。骨が折れているわけじゃない。


 歩く。

 ストックを地面に突き刺し、慎重に。

 転んだら駄目だ。

 転んだら終わりだ。


 赤茶けたガレ場。周囲は霧。本当に怪我をしたら動けなくなる。滑落でもしたら命がなくなる。


 ストックを突き刺す。

 一歩一歩、慎重に。確実に。進む。


 冷たい風が吹きつける。

 不思議と寒くはない。早めに装備を重ね着したおかげだ。

 それでも、鳥肌は収まらない。


 ――悪意がカタチを成して襲いくる。


 ずきずきとした痛みを、足が訴える。怪我をしたわけでもない。体調不良でもない。


 なんで。

 どうして。

 わたしが何をした。

 理不尽に涙が滲む。


 歩く。

 誰でもいい。


 歩く。

 なんでもいい。


 歩く。

 たすけてほしい。


 ごう、と風が吼えた。


「あ!」

 背後からの突風にバランスを崩す。手をつくのが間に合わない。そのまま前のめりで倒れる。


 しまった。

 転倒。

 容赦なく、赤茶けた砂地に顔を――打たなかった。


「ぶえっ」

 青臭さと苦さ。口の中に草が入った。


「ぺっぺっ。うわ、野襤褸菊(のぼろぎく)か」

 食べられない野草だ。黄色い筒状花に、ぼろぼろになったような葉。繁殖力が強いので、群生になりやすい。


 体を起こせば、森の中だった。


 樹齢百年以上だろう、立派な大木が立ち並ぶ。

 ブナ、シイ、コナラ。頭の遥か上に枝が生い茂り、太陽光を遮っている。

 それなのに、少しも暗い感じはしない。

 梢の隙間から、薄日が差している。地上には雑草たちが繁茂していた。


「えっ。オキナグサ!」

 毛に覆われた、暗い赤褐色の花が目の前で咲いていた。絶滅危惧種だ。

 一輪だけではない。

 二輪、三輪。三株、四株。群生だった。


「すごい、すごい!」

 座り直し、ザックからカメラを取り出そうとして、気づく。


 ――ここは、どこだ。


 さっきまで霧に巻かれ、ガレ場にいたはず。

 もしかして、山麓まで下りて来てしまったのか。


「……いや。植生が違うから、それはないか」


 周囲を見渡す。起伏はあるが、平地だ。

 草に覆われた地面。

 ストックで掘ってみれば、土壌。富士山周辺だったら十センチも掘れば溶岩だ。そんな気配はない。


 深呼吸。

 肺に満ちる凛とした空気。


 静かだ。

 鳥の声、獣の気配、虫の音。何一つ、聞こえない。


 かろうじて上空には風が渡っているようで、微かに木々の葉擦れがする。


 さやさやと、遠くから。

 さやさやと、近づいてくる。

 近づいてくる。


「お、いた」

 男の声だった。

 いつの間にか、十メートル先に人影が立っていた。


「だれ。なに」


 茂る森の中で出会うには奇妙な服装。

 黒い袴に、白い半袖の着物。一瞬、神主さんかと思ったが、顔を変な布で隠していた。


 おかしい。怪しい。


 ぼそぼそと男が呟けば、右手に黄色い筋が走った。よく見れば、野襤褸菊の花が一直線に咲いている。


 男が指差す。


「あちらへ。帰ることができます」

「え、ちょっと、待って。ここ、どこなの?」

「黄色い花をたどってください」

「あなた、誰」

「決して、後ろを振り向いてはいけません」

 会話が噛み合わない。


 ストックを支えに立ち上がれば、左足首に鋭い痛み。


妬鬼(とき)か。離れろ」

 男の声に、ごう、と強風が吹いた。


 目を開けていられず、腕で顔を覆う。

 風が、止む。


「……ちょっと」

 男の姿はなかった。


 夢かと思った。

 それか、狐に化かされているのか。


 右手に一列の野襤褸菊。

 帰れる、と男は言っていた。

 半信半疑で、一歩踏み出す。


 ――足が痛くない。


 針で突き刺すようだった、ひどい痛みが嘘のように消えていた。

 一歩、一歩。

 歩ける。

 進める。

 痛くない。


 ゆっくりと野襤褸菊に近づく。一直線に黄色い花が並んでいる。それに沿って、足を動かす。下を向いて、野襤褸菊を見失わないよう集中する。


 一歩、一歩。

 慎重に。

 進む。

 黄色は途切れることはない。


 進む。

 森は途切れることはない。


 進む。

 足はもう、痛くない。


 進む。

 ぼんやりと、野襤褸菊の黄色が薄れた。


「うそ」

 顔を上げれば、一面の白。霧の中。


 足元を見れば、雑草は一本も生えていなかった。

 振り返ろうとして、思いとどまる。


 ――決して、後ろを振り向いてはいけません。


 ストックの先。歩きにくい、赤茶けた砂。

 前方は真っ白な霧に包まれて見えない。


 右も、左も。後ろも、たぶんそうだろう。振り返る勇気はない。ストックを頼りに、一歩一歩。


 ふいに、視界が開けた。

 古い山小屋、その前に人だかり。


佐久良(さくら)!」

 吉野先輩が走ってくる。

 穏やかな顔が、今は強張っている。


「よかった……、よかった!」

「先輩?」

 強く抱きしめられて、気が動転する。


「あ、あの。苦しい、です」

「ごめん!」


 吉野先輩が腕を解いてくれた。

 それでも、心臓はバクバクと脈打っている。


「二日間、どこにいたんだ」

「え」

 耳を疑った。理解できなかった。


 岩陰で小一時間、休んでいただけなのに。


「体調は? 飲まず食わずだったんだろう」

 大島先輩がオレンジ色のブランケットを持ってきた。少し黴臭いが、包まれれば温かい。

 先輩たちに挟まれて、山小屋へ案内される。


 山小屋から墨田と柳田が走ってきた。二人とも泣いていた。


 玄関先で、美歌子がしゃがみ込んでいた。

 山小屋の主人だろうか、よく日に焼けたおじさんが美歌子の背中をさすっている。


「美歌子」

 青白い顔をして、ガタガタと震えていた。

 涙を浮かべた彼女の目が、わたしを見上げる。


「……ごめん、八重。こんなことになるなんて、思わなかった」

「よかったなあ、お嬢さん。友達が助かって。おおーい、救助隊にも連絡!」


 おじさんの声に、若い従業員が無線で何やら話していた。救助隊。そんなに大事になっていたのか。申し訳ない気持ちが半分と、未だにわけがわからない。


「あの、吉野先輩。わたし……」

「心配したんだぞ」

 吉野先輩の厳しい声。


「あの後、担架を担いで下ろうとしたら、松山に会って。

 佐久良はどうしたのか聞いたら、先に行けって言われたって。足の痛みはなくなったから、ゆっくり上がって来るって言うから、日没まで待っていたよ。


 でも、暗くなっても山小屋に来ないじゃないか。


 だから、山小屋のおやじさんたちとヘッドライト点けて、道を岩陰まで下ったんだ。そうしたら、佐久良の姿がないだろ? 絶対にすれ違わなかったし、これは遭難したって話になった」


 話を聞いていて、体が震え始めた。


「……霧は、だいじょう、ぶ、でしたか?」

「霧?」


 吉野先輩と大島先輩が顔を見合わせた。

 怪訝そうに大島先輩が首を捻る。


「ガスってなんか、なかったよ。なあ、吉野?」

「ああ」

 炎が踊る暖炉の前、椅子に座っても震えは治まらなかった。


「俺は、動くなって言ったよな」

「……ごめんなさい、吉野先輩」

 カチカチカチカチと、歯の根が噛み合わない。


「まあまあ、吉野。そんな怖い顔するな。佐久良ちゃんが無事でよかっただろ」

「でも大島!」


「……言って、ない、です」

 二人の動きが止まった。


「……先に、行って、なんて、言ってない」


 彼女の鳴き声が山小屋に響いた。

 主人が言葉を掛けても、泣き喚くだけだった。


「美歌子……」

 びくりと彼女の肩が跳ねる。

 離れていても、目が合う。


「わたしを置いて行ったの?」



『登山者』


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