58 登山者(中)
「うーん。捻った覚えはないんだけどなあ」
左の足首が痛い。
それも、針で突き刺すような鋭い痛み。
ハイカットのトレッキングシューズと靴下を脱ぐ。足首を見る。岩で切ってもいないし、腫れてもいない。
「あれ、八重? どうしたの」
最後尾の美歌子と吉野先輩が登って来た。
「怪我したのか?」
吉野先輩が、座り込むわたしの前に膝をついた。脇に避けていても狭い山道、顔が近くて、どきどきする。
「急に足首が痛くなって。捻った感じはしないんですけど……」
「大丈夫?」
心配そうに美歌子が見下ろす。
「ちょっと失礼」
手袋を外した吉野先輩の手が、足に触れる。
大きな手の平。
温かな体温。
かあっと、頬が熱くなった。
「骨折じゃないな。立てる?」
「えっ、あっ、はい」
靴下とトレッキングブーツを履く。ストックを使って立ち上がれば――ずきん、とひどい痛み。
よろめく。
「佐久良!」
倒れる前に、吉野先輩に抱きかかえられた。
「ねえ、八重。本当に大丈夫?」
美歌子が反対側から支えてくれる。
「うん平気。靴ずれかな。ちょっとここで休んでくよ」
「こんな岩陰でか?」
吉野先輩が顔を曇らせた。
整備されているといえども、赤茶けたガレ場だ。休憩所のように安全は保障されない。
「二人は先に行ってください。ここから……山小屋まで、二百メートルぐらいですよね? ガスも出てないし、大丈夫ですよ」
「馬鹿。お前ひとり置いていけるか」
思いの外、吉野先輩の声が厳しかった。
「松山。悪いが、先に行って、大島と山小屋の人たちを呼んで来てくれ。担架を頼む」
「吉野センパイは……?」
美歌子へ、吉野先輩は頷いて見せた。
「ここに残る」
「それだったら、あたしが八重のそばにいます。あたしより、吉野センパイが山小屋に行ったほうが早い」
張りのある美歌子の声に、吉野先輩が目を丸くする。
「……そうか。そう言われれば、そうだな」
吉野先輩と美歌子が、ゆっくりとわたしを岩陰に座らせてくれた。美歌子がぴったりとくっついて一緒に座る。
「いいか、二人とも。絶対にここから動くなよ!」
そう言い残して、吉野先輩が足早に山道を登って行く。勾配に隠れて、すぐに姿が見えなくなった。
「はー。やっぱり吉野センパイ、かっこいいねー」
「ごめん、美歌子。こんなとこで足止めさせちゃって」
「いいよー。八重が心配だもん。早く戻って来ないかなあ、吉野センパイ」
びょう、と冷たい風が吹いた。
嫌な予感がした。
山下から、みるみる白い霧が湧き出してくる。
「うわ、マジで?」
美歌子がうんざりしたように言った。
山の天気は変わりやすい。
あっという間に、一面が真っ白になった。
「ヤバイじゃん、これ」
「天気予報では、気圧は安定してたはずだけど」
びょう、と冷風が吹く。寒さではない鳥肌が立つ。
「この霧ってすぐ晴れそう?」
美歌子がきょろきょろと周囲を見渡す。霧に囲まれたのは、初めてなのかもしれない。
「わかんないけど、明るい霧だから。日没まで時間はあるし、二十分時間見れば薄くなるかも。風、止んでないし」
「さすが、山ガール」
「そんなんじゃないよ。とりあえず、大人しく待とう」
けれども、風が気になる。
どうにも変だ。
びょう、びょう、と生き物の鳴き声のような風音。急に湧き出した霧。痛む左の足首。
――悪意がカタチを成して襲いくる。
「八重、足痛いの?」
「あ、うん。ちょっと」
心配そうに見る美歌子へ、笑って誤魔化した。脳裏に閃いた言葉は、胸のうちに仕舞った。
びょう、と風が吹く。
腕時計を見る。長針は遅々として進まない。
びょう、と風が吹く。
「……ねえ、変じゃない?」
「何が」
美歌子は前方の霧を不安げに見つめる。
「吉野センパイ、遅くない?」
「うーん。先輩も、途中で霧につかまったのかも。でも、大丈夫だよ。わたしたちより経験あるから」
「そうだけど……。もしかしたら、ここの場所がわからなくなったんじゃないのかな」
美歌子が足の踵で地面を擦る。赤茶けた砂礫。
「それは有り得ないよ。だって、山道の脇だから」
いくら視界が悪くても、道に従えばたどりつく。赤茶けたガレ場。だからこそ、通れる道は絞られる。
美歌子が立ち上がった。
「あたし、ちょっと見てくる」
「駄目だよ、美歌子!」
視界が利かない状況下での行動は危険すぎる。
「吉野先輩も、二人でここにいろって言ってたじゃん!」
「へいき、へいき。だって山小屋まですぐでしょ。もしかしたら、霧が晴れるかもしれないし」
思わず手を伸ばす。
が、美歌子の動きのほうが早かった。
中途半端な姿勢のまま、宙を掴む。
「待っててね、八重。すぐ戻ってくるから」
「美歌子!」
白い霧の中、返事はない。




