57 登山者(上)
「次は、富士山で御来光を見ようよ!」
それは美歌子の発案だった。
大学で山歩きサークルに入ったのは、自然が好きだったからだ。決して、山登りが目的だったわけじゃない。
山歩きサークルは、頂上踏破を目指すガチガチの山岳部ではなく、ハイキングコースを歩いたり、キャンプを楽しんだり、学生らしいのんびりとした雰囲気だった。
「ね、八重も行くでしょ?」
講義が終わったカフェテリア。
仲の良い四人でテーブルを囲み、夏休みの計画を立てていた。
「うーん、富士山かあ。麓は自然いっぱいだけど、頂上付近は石だらけなんだよなあ」
「ちょっと八重」
美歌子が不満そうに、アイスストロベリーミルクラテが入った透明なカップを両手で持つ。
「アンタそれでも山ガール? 日本一高い山にトキめかないの?」
墨田と柳沢、男子二人が茶化す。
「佐久良は山ガールってか、植物博士だもんな」
「この前の高尾山だって、ずーっと花見てて、置いてかれそうだった」
「花よりバーベキューのあんたたちに、言われたくなーい!」
皆が大爆笑した。
「二年が集まって、なに楽しそうなの?」
「あっ、吉野センパイ!」
美歌子が明るい声を上げる。
「オレもいるんだけど」
「いたんですか、大島センパイ。影薄くて、わかんなかったっす」
美歌子の言葉に、大島先輩が顔を腕で覆った。
「ひどい、ひどいぞ。いくら吉野がイケメンでも、フツメンいじめはよくないぞ」
やっかみを含んだ泣き真似だった。
「大島のほうがイケメンだぞ? 眼鏡外せば」
「オレのアイデンティティーを否定するな!」
確かに、大島先輩の眼鏡はオシャレだ。
さすが眼鏡男子。ツボな女子からはポイント高いだろう。たぶん。
「吉野センパイも富士山に行きませんかー?」
「待って松山。オレは?」
自分を指差す大島先輩に、美歌子が唇を尖らせる。
「……ついでに、大島センパイも」
墨田と柳沢が、声を上げて笑う。
「大島が行くなら、俺も行こうかな。頂上目指すの?」
吉野先輩が空いていた椅子に座る。わたしの隣りだ。
「あー、八重ずるーい!」
「場所変わろうか? 美歌子」
腰を浮かしかければ、吉野先輩が眉尻を下げる。
「ちょっと、佐久良。それ俺が傷つく」
「え、ごめんなさい?」
「なんで疑問形なの」
吉野先輩が苦笑した。不満げに美歌子が見ている。
「はいはーい。それなら大島様が間に座りますよーっと」
大島先輩が隣りのテーブルから椅子を持ってきた。吉野先輩が座る椅子を足で蹴る。
「いった。ひっど」
文句を言いながら、吉野先輩が立ち上がり、椅子をずらす。
「おらおら。富士登山するなら、経験者の言うことを聞け」
「なんだよ。三回とも俺と一緒に登っただろ」
へえ、と墨田が驚く。
「マジすか。全部頂上まで行けたんですか」
「晴れ男、大島のおかげでな」
吉野先輩がそう言えば、墨田と柳沢がそろって拝みだした。
「神様、仏様、大島様。晴れて御来光が見えますよーに」
「そうだ、そうだ。山登りは、顔より御利益だ」
フハハハ、とふんぞり返る大島先輩の声がカフェテリアに響いた。
赤茶けた砂は歩きにくい。
真っ白な霧に包まれて、前が見えない。
前だけでなく、右も、左も。後ろも、たぶんそうだろう。振り返る勇気はない。ストックを頼りに、一歩一歩。
ふいに、視界が開けた。
古い山小屋、その前に人だかり。
「佐久良!」
吉野先輩が走ってくる。穏やかな顔が、今は強張っている。
「よかった……、よかった!」
「先輩?」
強く抱きしめられて、気が動転する。
「あ、あの。苦しい、です」
「ごめん!」
吉野先輩が腕を解いてくれた。それでも、心臓はバクバクと脈打っている。
「二日間、どこにいたんだ」
「え」
耳を疑った。理解できなかった。
左足が痛くなって、小一時間、岩陰で休んでいただけなのに。
「体調は? 飲まず食わずだったんだろう」
大島先輩がオレンジ色のブランケットを持ってきた。少し黴臭いが、包まれれば温かい。先輩たちに挟まれて、山小屋へ案内される。
山小屋から墨田と柳田が走ってきた。
二人とも泣いていた。
玄関先で、美歌子がしゃがみ込んでいた。
山小屋の主人だろうか、よく日に焼けたおじさんが美歌子の背中をさすっている。
「美歌子」
青白い顔をして、ガタガタと震えていた。涙を浮かべた彼女の目が、わたしを見上げる。
「……ごめん、八重。こんなことになるなんて、思わなかった」
冊子を開く。
桜が散った頃だった。
「あ」
本座に立つ榊先輩が、顔を上げた。
「どうかしたんですか」
「うん」
矢を一手持ち、今にも射位に入ろうとしていたが、唐突に足を止めた。弓を起こして、そのまま弓道場の縁へ移動する。
矢取りで回収してきた矢を、矢箱に入れる。榊先輩の隣りに立てば、彼女は垜小屋の向こうにある〈紫苑の森〉を睨んでいた。
「何ですか」
「迷い人だ」
榊先輩が視線を移す。
「行ってこい、鳴海」
「俺がですか?」
「師匠の言うことは」
「絶対です。……けど、普通の迷い人ですか」
榊先輩の眉が跳ねた。
「そんなわけあるか」
「ですよね」
弓と矢を壁に立て掛け、榊先輩が畳の上に座る。手早く弽を取った。棚から黄色い鳩缶を取り出し、蓋を叩く。
「念のため、これを持って行け」
榊先輩が蓋を開ける。
かつて土産のサブレーが詰まっていた缶の中には、白いものが一枚。
「何ですか」
「何だと思う」
「布」
「情緒がないなあ、お前は」
何故か呆れられた。
「質問を質問で返すのは、情緒があるんですか?」
「そういうところ北原に似てきたぞ」
「光栄です」
ふん、とつまらなそうに榊先輩が鼻を鳴らした。缶の中から布を取り出し、俺に渡す。
「面不。顔を隠すもの」
墨で文字が書かれた布に、紐がついている。
「何て書いてあるんですか」
漢字を崩しすぎて読めない。絵柄のように見える。
「目が二つ、耳が二つに口が一つ。視えて聴こえて話せれば十分だ」
「三猿ですか」
日光東照宮の、有名な彫り物が思い浮かんだ。
唄うように榊先輩が言う。
「非礼勿視、非礼勿聴、非礼勿言、非礼勿動」
「……ええと」
「『論語』だよ。礼節に背いたらいけないってこと」
有り難い引用癖。理系クラスに在籍しているのに、どうして古典に詳しいのか。
「数千年経っても人は変わらないからな」
しみじみと呟かれた。
「どういうことですか?」
「そういうことだよ」
「意味がわかりません」
突拍子もない、文脈の飛躍はいつものことで。
「喋ってもいいが、会話はするなよ」
「は?」
それは矛盾している。
「していない。一方的に言葉を発するのは大丈夫だが、問答が成立したら、相手が帰れなくなる」
さらりと思考を読まれた。持ち前の鋭い勘と碌でもない術の併せ技。
「……気をつけます」
「ほら、早く行け」
しっし、と手で追い払われた。
布を手に、雪駄を履く。
矢道を通って垜小屋へ向かう。裏手に回れば、野襤褸菊が待っていた。
「見習いだけど、扱いが雑だと思わないか?」
そう訊ねれば、野襤褸菊が苦笑した。
「当代様なりの可愛がりでしょう。念のためと、面不をご準備なされたのですから」
「顔を見られたら、よくないのか?」
「場合によりますが、障りが出るかと」
大人しく面不をつけた。紐を耳の後ろの辺りで結ぶ。
網戸を透かして見るような、意外にも視界は良好だった。
「案内を頼む」
「承知しました」
一礼をした野襤褸菊が、袖を振る。
風が起こる。
生い茂る野草たちが一斉に葉を裏返した。




