56 藤の下
冊子を開く。
春方のよく晴れた日だった。
空が青紫に染まっている。
風が甘く香っている。
「壮観だな」
呟けば、満開の藤の花房がふるりと揺れた。
天を覆うように、藤の大樹が花を咲かせている。流れ咲く藤の下、岩に腰掛けて花見をする。
「お褒めいただき、光栄ですな」
天然記念物でもおかしくはない藤の大樹の根元、磐座の上にちょこんと翁が座っていた。
表は紫、裏は青の狩衣を纏っている。その色目の名は知っていた。
「藤襲ですね、翁。狩衣ということは、あとで弓ですか」
「ほっほっほ。さすがは矢の君。話が早い」
風が吹く。
ふんわりと藤の香が広がる。甘さを含んだ風が、羽織る黒の上着の裾を翻す。
「金銀をやりましょうぞ」
金紙、銀紙を貼った中白ほどの小さな的を狙う余興だ。
「飛び入り参加もありで」
「ほっほっほ。辰巳が射抜いたら、雨が降りそうじゃ」
見上げれば、藤の波を透かして気持ちの良い晴天。
「にじが出るぐらいで、お願いしましょう」
「良き、良き」
ほっほっほ、と藤の翁が笑う。
岩と地面の隙間に咲く野襤褸菊へ、声を掛ける。
「お前も参加するんだぞ」
「ご冗談を」
姿を現した野襤褸菊が膝をつく。
「だめだ。余興だからな」
「……命ずるのは、お嫌いではなかったのですか」
「今も嫌いだよ。だから、これはお願い」
「請願にしては、強うございます」
「うん」
頷いてやれば、おもしろいほどに野襤褸菊の眉根が寄った。
「じゃあ、一射だけでどうだ。もし射抜いたら、お前の言う通りに振舞うよ」
堅苦しい礼儀作法は、ほどほどでいいのに。いつまでたっても、野襤褸菊は最上級の礼を尽くす。俺はただの書記係だ。
「そう軽々しく、口にしないでくださりませ」
「軽くなんて思っていない。ここはどこだか承知している。藤の翁もいるだろ?」
「ほっほっほ。儂も楽しみじゃ」
「藤の翁様まで」
せっかくの余興なら、皆で楽しむべき。
「伏見さんは?」
黒の上着の陰から、するりと気配が立ち上った。
いつもの着物を着た伏見さんが、袖で口元を隠す。首を横に振った。結わない黒髪がさらさらと流れる。
「ふられてしまいましたな」
残念じゃ、と藤の翁が零す。
「ふられてしまいました」
ふっと伏見さんの姿が消えた。
遠く風が吹く。藤の花房が揺れる。濃くなる藤の香り。どこかで、どこかが繋がった。
水の気配ではない。辰巳ではない。
では、何か。
「野襤褸菊」
名を呼べば、人形は消える。すぼまった黄色い花は、岩と地面の狭間で咲いている。
――商い箱を背負った男がやって参ります。
「おお、そうか。そんな頃合いじゃ」
藤の翁が膝を打った。
「心配せんでもよい。顔見知りの行商人じゃ」
「行商人?」
風が吹く。藤が揺れる。
がさがさと、草をかき分ける音がする。近づいてくる。
茂る草叢から男が現れた。蓬髪で前髪が長い。目が隠れてしまっている。
「おお?」
驚いたように男が声を上げた。
「久しぶりだな」
そう声を掛けられても、困る。
「いや、はじめましてですが」
「うん?」
怪訝そうに男が首を捻る。
「なんだ、小僧じゃないか」
「喧嘩を売っているのなら買いますよ」
行商人だったよな。
「や、や。悪い、時違いだ」
「はあ……」
悪気はないらしい。
何と間違えたのか問い質したいが、その前に藤の翁が上機嫌で笑いだした。
「ほっほほ。若くとも、矢の君ですぞ。気をつけなされ」
意味がわからない。
がしがしと男が頭を掻く。
「面倒事はご免だ。さっさと仕事に移るか」
そう言って、背負っていた箱を地面に置いた。
しゃがみ込んで蓋を開く。
何やらごそごそと中をあさる。次に立ち上がったときには、男は花鋏と茶色い巾着を手にしていた。
「藤の翁殿。花をもらってもいいか」
「良いとも」
藤の翁を許しを得て、男が腕を伸ばした。
頭上に広がる、藤の海。花房のひとつに手を掛け、ぱちん、と鋏を鳴らす。切った藤の花を茶色い巾着へと入れる。
ぱちん、
ぱちん、
ぱちん、
「今年も見事だなあ」
鋏を動かしながら男が言う。
「ずっと、藤を摘みに来ていたんですか?」
そう訊ねれば、手を止めずに男は頷いた。
「今まで、どうして出会わなかったんだって顔してるぜ」
前髪に隠された目が、こちらを向く。
「どうしてですかね」
「さあ? そういうものなんだろうな」
「そうですか」
藤の翁を見やれば、目を細めて笑っている。
ぱちん、
ぱちん、
ぱちん、
藤の花房が茶色い巾着へ吸い込まれていく。
ぱちん、
ぱちん、
ぱちん、
「藤の花を摘んで、どうするんですか?」
「香をつくる」
「香?」
そうだ、と男が答える。
「魔除けにもなる一級品さ。買うか?」
ちりっと頭の片隅で警鐘が鳴った。
あやしい行商人が求める対価は、きっと金銭ではないだろう。
「今はいいです。必要になったら、相談します」
「そうしな。藤の翁殿を通してくれれば、いつでも来るよ」
ぱちん、
ぱちん、
ぱちん、
十や二十の藤が入っても、茶色い巾着はいっこうに膨らまない。
ぱちん、
ぱちん、
ぱちん、
「藤の花は、どれぐらい必要なんですか」
「そうさなあ」
男が茶色い巾着の中を覗く。
「まだまだ、だな」
「手伝います」
岩から腰を上げれば、男は驚いたようだった。
「不可侵じゃないのか」
「基本的にはそうですが。これはこれ、それはそれで」
くく、と男が笑う。
「だからといって、藤の香はタダでやらんぞ」
「そのつもりじゃないので、お気になさらず」
「ほう。こりゃ、得した」
男が商い箱から花鋏を取り出し、手渡す。
「色が濃い藤だ。房の、花の間際で切ってくれればいい」
「わかりました」
風が吹く。
藤が揺れる。
艶やかな香が漂う。
「藤の翁。花を切ってもいいですか」
「良いとも。手を切らんようにな」
「はい」
左手で藤の花を押さえて、鋏を鳴らす。ぱちん、と小気味よい音とともに、左手に藤の花が残った。甘い香が立ち上る。
ぱちん、ぱちん
ぱちん、ぱちん
摘んだ藤を、男の茶色い巾着へ入れる。
巾着がわずかに膨らんだ。
「無限収納って、意外と存在するんですね」
「無限……なんだって?」
言葉を拾えなかったのか、男が訊き返す。
「際限なく物が入るもののことです」
「そんな特級品がほいほいあって堪るか。この巾着は、ちゃんと限度があるし、制約もある」
曰く、香をつくるのに必要な量の藤しか入らないという。
「見ていろ」
男が手にしていた花鋏を茶色い巾着の中へ入れた。
もぞもぞと巾着がうごめき、そのうちに花鋏をぺっと吐き出した。花鋏が地面の上に転がる。
「いっぱいになったら、勝手に口が閉じる優れものだ」
花鋏を拾い上げて、男が自慢げに言う。
「この巾着は売り物じゃないが、必要なら壺でも仕入れてきてやるぞ」
「壺ですか?」
「何でも入るが、決して中を覗いてはいけない壺」
「もし覗いたら、自分が吸い込まれる?」
「わかってるじゃなか」
そんな恐ろしいものはいらない。
ざあ、と藤の花が揺れた。
水気を含んだ風が渡る。
「ほっほっほ。やっと来たか」
藤の翁が顎鬚を撫でた。
「遅くなってしまい、申し訳ありませんでした」
和服を着流した辰巳が姿を現す。
「ほっほ。務めだろう、良いことさ。春雨の合議は決まったのかね」
「はい。雨鬼が頑固で困りました」
「ほっほっほ。どのような雨でも、儂らは受け入れるだけぞ」
「して、何をやっているのですか」
辰巳に睨まれた。
「花を摘む手伝い」
正直に答えれば、盛大なため息。
「そやつらの手先にならないでください」
「なった覚えはないぞ。自分から手伝うって言ったんだ」
「尚更、何をやっているのですか」
なにやら辰巳の機嫌が悪い。
「行商人は嫌いです」
しゅう、しゅう、と辰巳の口から霧が零れる。
「何かしたんですか?」
「いや」
男が首を横に振った。
「はじめましてだ。が……」
困惑したように男が頭を掻く。
「どこぞの商人が、そちらさんに失礼したみたいだな」
前髪を透かして、男の目が光った気がした。
「鱗、もしくは角か?」
「口外したら殺します」
男が肩をすくめて、両手を上げた。
「しないさ。藤の翁殿と、諸々の逆鱗に触れたくはない」
何故か俺を見る。
「辰巳や。そう邪険にしないでよい。この行商人は分を弁えておる」
「藤の翁殿がそう言うのであれば……」
拗ねたように、辰巳が男から視線を外した。横を向くその目元、朱の刺青が鮮やか。
ぱちん、ぱちん、と男が藤の花を摘んでいく。
ふたつ、みっつ、茶色い巾着に入れれば、きゅっと口がひとりでに閉まった。
「な? 優れものだろ」
男の口元が弧を描く。
花鋏を返せば、代わりに小さな紙包みを渡された。逆さにした照る照る坊主のようで、紐で縛ってある。
「手伝い賃。蜜を煮詰めたフジの飴さ」
「思い切り、子ども扱いしていませんか」
「一粒で熱病を治す」
「ありがとうございます」
「やっぱりお前も強かだよな」
誰かと比較されたが、不思議と嫌な気分ではない。
「書記係ですから」
「怖や、怖や」
男が花鋏と茶色い巾着を商い箱に仕舞った。そのまま背負う。
「では、藤の翁殿。また」
「うんうん。達者でな」
行商人が振り向く。
「じゃあな。またのご贔屓に」
「するものですか」
「辰巳」
注意しても、辰巳はつんと顔をそらしている。
行商人は気にすることなく、にい、と唇を吊り上げた。
来た時と同じように、がさがさと草をかき分け、やがて茂る草叢へ消えていった。
「そんなに悪い感じじゃなかったぞ?」
辰巳が顔をしかめた。
「商人の心内は、わかりません。財貨を積まれれば、いとも容易く豹変する」
「そういうものか」
「そういうものです」
手の中には小さな紙包み。一粒で熱病を治すフジの飴。手伝い賃には多い気がするが、深く考えないでおく。
両の掌を合わせて、畳の上、と思う。
消えた。
風が渡る。
藤の花が揺れる。甘い香り。
紫の花の向こう、見上げた空は晴れ。
「さあさ、早く弓をやりましょうぞ」
楽しげな翁の声に、ふるりと藤の大樹が身じろいだ。
『藤の下』
どこかで繋がる。




