表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
59/72

55 森怪

※この話には、精一杯のグロテスク及びホラー要素を含みます。

 苦手な方はご注意ください。

 得意な方は笑ってやってください。




 冊子を開く。

 いつかの生温い日暮れだった。


「変な天気だ」

 弓道場の雨戸をすべて開けて、見上げた空は曇り。


 けれども、局地的に雲が湧いたようで、南の空は晴れている。この辺りだけ、黒い雲に覆われている。


 びょう、と風が吹く。生温い風に肌が粟立つ。

 言いようのない不安が胸の内に広がる。雨が降るのなら、冷たい風のはずなのに。


 風が吹き抜ければ、〈紫苑の森〉がざわめく。

 薄闇に木々の葉擦れの音。ひそひそと、何事か囁いている。嫌な感じだ。


「三十六計、逃げるに()かず」

 いつぞや榊先輩が言った言葉を口にする。真理だと思う。


 月曜日は部活がない。

 併せて、放課後の自主練も行わない決まりになっている。本業の勉学に精を出せということだ。


 それでも部長である北原先輩から、的貼りの勅許は得ている。


 壁際の、畳の上で乾かしていた三つの的を確認する。

 朝練のときに貼ったので、糊は乾いていた。しわもなく、霞的の的紙はぴんと伸びている。


「誰かと思ったら、やっぱり鳴海か」

 引戸を開けておいた玄関に、榊先輩の姿があった。


「お。上手くできたじゃなか」

 榊先輩が並んだ三つの的を見る。


的枠(まとわく)は、まだ使えそうだな」

「はい。なるべく欠けてないやつを使いました」

 矢が的枠を削ることがある。使い込まれた的枠は、ところどころ欠損していた。


「どっちがいいんだろうな」

「何がですか?」

 真剣な顔で、榊榊先輩が続ける。


「外すなら的スレスレより、見事に外したほうが、的枠も看的(かんてき)もありがたい。でも、射手としたら悔しい。どっちがいいんだろうな」


 確かに。矢がかすらなければ、的枠の寿命が延びる。また、看的に(あた)りなのか残念(はずれ)なのか判断に迷うことはない。


「馬鹿者」

 呆れたように榊先輩が言った。


「外すことより、中白に中ることを考えろ」

 あっさりと思考を読まれた。持ち前の鋭い勘と、碌でもない術の併せ技。


「……正論です、が、言ったの榊先輩じゃないですか」

「真面目に考えるなよ、真面目」

 理不尽。

 不満がそのまま顔に出たようで、けらけらと榊先輩が笑う。


「正直は美徳だな」

「褒められている気がしません」

「褒めていないからな」


 謎の敗北感に打ちひしがれていると、榊先輩が女子部室の鍵を手に取った。


「えっ、引くんですか」

「いや。着替えるだけ」

「……引かないのに?」


 疑問符が頭の中に湧く。

 弓を引かないのに、何故着替える必要があるのか。


「書記係の案件」

 その言葉を残して、榊先輩は玄関を出た。






「お前まで着替える必要はないぞ?」

 弓道着に黒のジャージを羽織った榊先輩が眉根を寄せた。


「書記係に関係することなんですよね」

 見習いだが、俺も書記係だ。師匠に(なら)って弓道着に着替えた。

 小さく唸り、榊先輩が右耳の裏を指で掻く。


「ちょっと、まだ、早い?」

 珍しく歯切れが悪い。


「どういうことですか」

「うん。そういうことだ」

「勝手に納得しないでください」

「呑まれるか否かは、半々ってとこだな」


 意味がわからない。

 文脈が唐突に飛躍することは知っていた。でも、まだ慣れない。


「まあ、いいや。来るか?」

「……行けばわかる、って解釈で合っていますか」

 にやり、と榊先輩が嗤う。それが答え。


 弓道場に上がり、木の名札を在部――朱文字の面を表にした彼女は、ぺこりと神棚に頭を下げた。壁に並んだ弓袋から、自分の弓を出す。弦を張る。


「どう見ても、引く気満々ですけど」

「予防線は張ってもいいだろ」


 ビン、ビン、ビン、と榊先輩が弦を三回弾いた。射る前の彼女の癖。澄んだ弦音が響き渡る。


 嫌な予感がした。


「危険なんですね」

「うん」

 誤魔化すことなく素直に頷かれて、頭痛がする。


「マジですか」

「マジマジ。だから、やばいと感じたらすぐに逃げること」

 榊先輩と目が合う。漆黒の冴えた眼差し。


「三十六計」

「逃げるに如かず」

 答えれば、満足そうに彼女が頷いた。手にしていた弓を弓立てに置く。


 ふっと疑問が湧いた。


「榊先輩でも、逃げることってあるんですか」

「お前、私を何だと思ってるんだ」

 睨まれて、背筋が凍る。


「いやっ、その。百戦錬磨?」

 不思議なこと、人ならざるものに対する経験値が膨大すぎる。


「戦った覚えはないが。まあ、だいたい正解」

 マジか。


「自分で言っておいて驚くなよ」

「驚きますよ」

 榊先輩が首を傾げる。


「そういうものだろ。な?」

「いや、同意を求められても。困ります」

 ふーん、と榊先輩が鼻を鳴らした。唇の端が吊り上がる。


「……からかって遊ぶの、やめてもらえますか」

「なんだ。バレたか」

 悪びれることなく榊先輩は言う。


 玄関で雪駄を履く。そうして、さっさと石階段のほうへ歩きだした。

 慌ててその背中を追う。


「行くのは〈紫苑の森〉じゃないんですか」

「うん? そうであって、そうではない。領域の端かな」


 急斜面に石を埋め込んだだけの朴素な階段を上る。

 何故だか、弓道場は校舎や他の建物より低い土地にある。高校自体が丘の中腹に建っているからかもしれない。理由は知らない。


 石階段を上りきって、少し歩けば小さな庭園が広がっていた。

 普段の夕方なら、風が通る気持ちのいい時間。植えられた緑や置かれたベンチは、生徒の憩いの場。


 ただし、暗雲立ち込める今は違った。


 無人の庭園に、湿った風が吹く。

 ぞぞぞ、と背筋に冷たいものが走る。


「さか――」

「名は伏せておけ」


 急いで口を(つぐ)む。

 以前、榊先輩が教えてくれた。〈紫苑の森〉では名を呼ばないこと。何かが聞いているかもしれないから、とのこと。何かって何だ、という疑問には、まだ答えをもらっていない。


「それは、また今度だな」

 さらりと思考を読まれた。


「今度っていつですか」

「今日ではないことは確か」

「じゃあ、しつこく聞き続けます」

「いい度胸だ」


 軽口の応酬が気分を紛らわせる。胸の内がざらつく、言いようのない不安。


 榊先輩が庭園に足を向けた。

 雪駄でさくさくと草を踏みながら、奥へ奥へと進む。その後を辿る。薄闇の中、木々の枝が揺れる。色を失った葉影が地面に落ちる。


 視線を感じた。


 木の陰から、草の陰から、石の陰から。

 針のような視線が肌に突き刺さる。


 なにかが、いる。

 風が無いのに、木々が震えた。ごおおう、と唸り声。


「と、当代」

「うん?」

 足を止めて、榊先輩が振り向いた。ひとつに結った黒髪がその動きを追う。


「何か、いませんか」

 ごおおう、と唸る声は止まない。


「それも、たくさん」

 にやりと榊先輩が嗤った。


「それがわかれば重畳(ちょうじょう)、重畳」

「いろいろと意味がわかりません」

 唐突に古い言葉を使う。


「後で辞書でも引くんだな」

「弓を引かずに?」

「血の気が引くよりいいだろ」

「それは絶賛体験中なので、勘弁してもらいたいです」

「そうか」


 榊先輩が遠くに視線を投げた。振り返れば、木々に覆われた庭園の入り口。


 聞こえていた唸り声が、ぴたりと止んだ。


 大気が湿り気を帯びる。

 雨が降り出す瞬間にも似た、薄闇と水のにおい。それらに混ざる、異質な甘さ。果実が腐った臭気。


 ずるり……

 ずるり……


 何かが這う音。


 ずるり……

 ずるり……


 冷や汗が噴き出した。音が、少しずつ、近づいてくる。


 ずるり、

 ずるり、ずるり……


 頭が痛い。

 気分が悪い。

 五臓六腑を掻き混ぜて、火で(あぶ)られたかのよう。


 これは、やばい。本当に、やばい。


 榊先輩を見れば、一切の表情がなかった。ただ、宙を見つめている。冴えた漆黒の眼差し。


 ずるり、

 ずるるり、

 ずずるりり……


 庭園の入り口に、大きなものが現れた。


 薄闇でも視える。遠目でもわかる。わかりたくなかったその姿に、初めて自分の視力を呪った。


 人の二倍はあるだろう、ぶよぶよとした塊。

 白く半透明な表面に、数十の人の顔が浮き出ている。


 男、女、少年、少女、赤ん坊、老婆、老爺。土色の肌に黄色く濁った目は何も映してはいない。顔は上下左右、なんの秩序もなく、塊の表面にあった。


 ずるり、ずるり

 ずるり、ずうるり


 地面を塊が這う。

 視えるだけで二十、腕が地面を掻いていた。


 濃くなる水の気配。臭気。生理的に受け付けない甘い匂いに、右手で口を押さえる。


 ずるり、

 ずるり、

 ずるり、

 べちゃ……


 白く半透明な塊の表面から、ぐずぐずぐになった何かが落ちる。


 ずるり、

 ずるり、

 べちゃ……


 腐った人の顔だった。

 腐敗臭は、果実のような甘い匂いがするという碌でもないことを思い出した。


「おい」

「は、い」

 みっともなく声が震えた。


「逃げてもいいぞ」

 鋭利な光を宿した、漆黒の瞳。


 ごくりと喉が鳴る。


「……どう、して」

 どうして、何ともないのか。


 彼女は近づいてくる塊を見つめている。濃厚な臭気も、肌を痺れさせる視線も、感じていないように。


「……だいじょうぶ、なんですか」

「慣れた」

 淡々と応える。怯えも、嫌悪も何もない。

 ただ冷然と、そこに()る。


 嘔吐する前兆の甘い唾を飲み込んだ。

 口を覆う右手、薬指の根元を噛む。

 痛い。

 皮膚は破れ血が出た。金臭さと舌に広がる鉄の味。痛みと血で気を保つ。


「いい度胸だ」

 榊先輩が呟く。冷え冷えとした、笑み。


 彼女が弓手を真っ直ぐに伸ばす。

 その手には弦も巻藤も黒い竹弓。いつの間に。


 弦を弾く。


 キン、と澄んだ高音が鳴り響いた。

 榊先輩は三回、繰り返す。


 半透明の塊が止まった。

 ぶるぶると、その場で震えだす。


 榊先輩が弓構(ゆがま)えをした。

 打起し、大三。

 美しく正しい所作。

 引分け、会。


 離れ。


 ざっ、と突風が巻き起こった。

 臭気も、恐怖も、塊も、薄闇も。すべてが吹き飛ばされる。

 強風に耐えきれず目を瞑った。


 ごおおう、

 ごおおう、

 大気が唸る。

 びりびりと肌が引き攣れる。


 ごおおう、

 ごおおおう

 荒れ狂う風に、何かが頭上に落ちてきた。


「いった!」

 三十センチばかり。サクラだろうか、青々とした葉がついている枝が足元に転がった。


「終わったぞ」

 榊先輩の声に、辺りを見渡す。


 一面の青葉。あの気味の悪い塊は、どこにもいなかった。


 新鮮な青臭さが大気に満ちる。ちかりと一筋。眩しさに見上げれば、木々を透かして薄青の空が広がり始めていた。


「さて、帰るか」

 降り積もった青葉を雪駄で踏み、榊先輩が歩きだす。


「ま、待ってください」

 頭を手でさすりながら、彼女の背を追う。


「あれ、なんだったんですか」

「ん? ああいうものだよ」

「はぐらかさないでください」

 ああいうものが普通に存在していて堪るか。


「本当にやばいやつ、だったじゃないですか」

「うん」

 さくさくと葉を踏む。緑の香りが漂う。


「言っただろう、書記係の案件だって」

「それは、そうですが」

「どう視えた?」

 榊先輩が歩きながら問う。


「どう、って」

 思い返せば、甘い臭気が蘇った気がした。慌てて口を手で押さえる。


「見事に血色が悪い顔しているぞ」

「あんなの、初めて視たもので……」

「だろうな」

 あっさりと榊先輩が頷く。


「あれは、人のよくないものが()ったものさ」

「人のよくないもの?」

 漠然としていて、理解が追いつかない。


「負の感情、ですか?」

「何を負とするかによる」

「えーと、悲しいとか、悔しいとか?」

「そんな簡単なものじゃない」

 榊先輩が唇を小さく歪めた。


「執念や大き過ぎる情、または胸の内に積み重なった(おり)。そのなれ果て」

 唄うように、囁くように。榊先輩が答える。


「大気に()かれて、出てくるんだ。そうして、塊になって、這いずり回る。放っておくといろいろと(さわ)りになるから、ああやって還す」

「還す」

 その言葉が引っ掛かった。


「祓う、のではないんですね」

「神様じゃないからな」

 話の飛躍に面食らう。榊先輩が石階段で立ち止まった。


「細かいことはどうでもいい。やり方だって決まりはない。ただ、還す。そうやって、消えて、現れて、つながっていく」


 風が吹き上がる。

 石階段を伝い、頭上に茂る木々を揺らす。葉音、ざわめき。

 気づけば、雲が多い空の端が茜色に染まり始めていた。


 榊先輩が軽やかに石階段を下る。ひとつに結った黒髪が尾のように跳ねる。


「聞いてもいいですか」

「うん?」

 石階段の途中で、榊先輩が振り返った。


「黒い竹弓は、どうしたんですか」

 いつの間にか現れて、いつの間にか消えていた。

 榊先輩が嗤う。


「答えるとは一言もいってないぞ?」

「じゃあ、聞き続けます」

「いい度胸だ」



『森怪』



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ