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54 くちなわ

 

 冊子を開く。

 一年生の晩夏の頃だった。



 がらり、と弓道場の引戸が開けられた。

 玄関を振り返れば、ジャージ姿の田村が立っている。


「おっ、寝坊しなかったんだな」

 土曜日の朝練に、田村が参加するのは珍しい。まだ眠いのか、俯いている。


「な、る、み」

 力無い田村の声に肌が粟立つ。

 同時に、ぴりっと肌が引き攣れる。


「頼む、助けてくれ」

 田村が顔を上げた。泣き出しそうなその表情に、頭痛がした。


「お前、何した?」

「見ての通りだよ」

「いや、わからん」

 書記係見習いだが、千里眼などというものは持っていない。


 ただ、盛大に嫌な気配はする。


「とりあえず中に入れ。話を聞くよ」

 田村が首を横に振った。


「なんでか、入れない」

「マジか」

「マジマジ」


 敷居を跨ごうとするも、田村の足は透明なガラスに当たったかのように弾かれる。

 無論、玄関に透明ガラスなんてものはない。


「お前、何した?」

「蛇を轢いた。自転車で」

「マジか」

「マジマジ」

「いつ」

「さっき。橋の上で」

 田村の唇が震える。青白く、生気がない。


「最初は、ロープの切れ端が、落ちてるんだと、思ったんだよ。でも、違った。気づいた時にはもう、轢いてた」

「ただ轢いただけで、そうならないだろ」


 頭痛がする。嫌な気配。

 頭の片隅で大音量の警鐘が鳴っている。


「たぶん……殺した。ほら、蛇は祟るっていうだろ。怖くなって、全力でペダル漕いでたら、やっぱり。急に胸が、締めつけられる、みたいになって、息苦しくて――」


「わっ」


「わあああああ!」

 驚いた田村が地面に尻もちをつく。


「大丈夫か!」

 足袋のまま玄関を出れば、榊先輩が立っていた。


「何したんだ、田村。見事に祟られているぞ」

 ひいいい、と田村が悲鳴を上げる。


「……一目でわかったなら、おどかさないでやってくださいよ」

「真面目だな、鳴海は」

 悪びれもなく榊先輩は鼻を鳴らす。


「助けてやれるんですか」

「うん」

 問えば、あっさりと頷かれた。


「じゃなきゃ、日暮れが今生の別れになる」

 ああああ、と田村が尻もちをついたまま打ちひしがれる。


「あまり、いじめないでやってくださいよ」

「たまには田村いじり」

「後輩いじりはよくないです」

 駄目、ゼッタイ。それでも先輩か。


「鳴海いじりならいいのか」

「やめてください。俺も後輩です」

 手を貸して田村を起こす。ふらふらと立ち上がった。


 田村が榊先輩を拝む。

 深々と頭を下げる。


「後生ですから助けてくださいお願いします」

「田村」

 驚いたように榊先輩が目を見張る。


「お前、よく『後生』なんて言葉知っていたな」

 田村が顔を上げた。泣きそうな声で言う。


「今それどーでもよくないですか」

「古典の文法小テスト三点がよく言う」

「何故それを……!」

 昨日、部長の北原先輩にバレて説教されていただろうに。


「榊先輩」

「わかったよ」

 名を呼べば、榊先輩が指で右耳の裏を掻く。ため息ひとつ。


「田村。こう、手の指を組めるか」

 榊先輩がやってみせる。影絵のような、不思議な指の組み方。


「こうですか?」

 田村が真似をする。そうそう、と彼女が頷いた。


「そのまま、息を吸ってー、吐いてー」

 言われるがまま、田村が呼吸を繰り返す。


「吸ってー、吐いてー。吸ってー、息を止めろ」

 く、と微かに田村の喉が鳴った。


 組んだ指の上に、黒い影が立ち上る。

 榊先輩が片手で影を掴む。ひっぱる。

 ずるずると細長く影が伸びた。ロープのよう。

 否。

 それは黒い蛇。


「もう、呼吸していいぞ」

 ぷはあ、と田村が息を吸った。


「祓えましたか?」

「ここにいる」

 榊先輩が田村に見せる。握られた黒い蛇が、身をくねらせている。


「うえー。気持ち悪」

 青白い顔で田村が口を押さえた。


「吐くならトイレ行け」

 榊先輩の声に田村が走る。武道館の外トイレに向かう。後を追おうとして、足袋のままだったことに気がついた。慌てて雪駄を履く。


 榊先輩が蛇に何事かを呟いた。

 そのまま無造作に地面へ捨てる。


「ちょっと!」

「平気。すぐ消える」

 言葉通り、地面に落ちた黒い蛇の姿は、溶けるように消えてなくなった。


「……どういうことですか」

「運が悪かったって話」


 それはそうだろう。

 わざとではないが、蛇を自転車で轢き殺してしまった田村。


「違う違う」

 榊先輩が首を横に振る。


「橋の上で息絶えたのは、しょうがない。もう動けなかったのだから、逆恨みはやめなってこと」

「どういうことですか」

「そういうことだよ」

 彼女の言葉を反復する。


「逆恨み?」

「そう。気持ちは理解できるけどね。死んだ後でも自転車に轢かれたら、気分良くないだろ」


 田村が轢き殺したのではないのか。

 最初から、蛇は死んでいた。

 榊先輩が言う。


「運が悪かったって話」


 それからというもの、田村は蛇が苦手になった。



『くちなわ』



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