53 影踏み
冊子を開く。
梅雨入り前の黄昏時だった。
「お疲れ様です」
木の名札を裏返し、弓道場へと声を掛ける。
「お疲れー」
戸締りをしていた副島先輩が振り向いた。
「残っているのは、オレと北原と榊だけかな」
「はい」
他の部員たちは帰って行った。家の店番がある松永はいいとして、早々に田村は駆け出して行った。デートらしい。
「だから前にも言っただろ約束は約束だ!」
唐突に、北原先輩の怒声が響く。
「模試の結果だけでしょ授業の小テストは含まれない!」
負けじと榊先輩が反論した。
「模試だろうが小テストだろうが試験は試験だカウントする!」
上座の畳で、北原先輩と榊先輩が言い合っている。
そろりと副島先輩の顔をうかがえば、乾いた笑いが返ってきた。
「榊、英語の文法小テストが十二点だったんだってさ」
英語が壊滅的ということは周知の事実。
「それで北原先輩が怒り狂っているんですね」
「何点満点のテストだったか聞きたい?」
「後が怖いので結構です」
ぷくく、と副島先輩が噴き出すのを堪える。俺の反応が予想通りでツボったらしい。笑い上戸。
「もうすぐ終わるから、アレは気にしなくていーよ」
当然のように傍観者に徹する副島先輩へ、軽く頭を下げた。
「じゃあ、お先に失礼します」
「うん。帰り道は気をつけて」
弓道場を出る。
生い茂る木々の向こう、見上げた空は茜色。湿り気を含んだ風が吹けば、緑の枝葉が揺れる。
斜面に石を埋め込んだだけの急階段を上る。
徐々に黄昏色に染まる学生会館が見えてくる。何故か、弓道場は校舎や他の建物より低い場所にあった。高校自体が、丘の中腹に建てられたからかもしれないが、理由は未だに知らない。
夕陽が山際に掛かり、金色の光を投げている。
正門までの道のり。ずっと自分の影がくっついていた。
並木のように植えられたソメイヨシノが、億劫そうに葉を揺らしている。梅雨入り前の重たい風が肌にまとわりつく。
「ん?」
人影がひとつ。
さっきまで一緒だった仲間。
「田村」
名を呼べば田村が顔を上げた。
「お前、こんなとこで何してんだ? デートじゃなかったのか」
今日は部活中も散々惚気を聞かされた。
「ああ。それが、向こうの都合が悪くなったらしくて」
普段とは違う抑揚のない声。気落ちしているらしい。表情も堅く、生気がない。
「あー……、残念だったな」
あんなに楽しみにしていたのに。
「また、誘えばいいじゃないか」
「ああ。そうしてみる」
こっくりと田村が頷いた。その人形のような仕草に胸がざわつく。
「大丈夫か、田村。そんなに落ち込むなよ」
「なあ、ちょっと付き合ってくれないか」
「別にいいけど」
田村が歩きだした。駅とは反対方向。
「なんだ? 北上公園に行くのか」
「ああ。ついて来てくれ」
振り向かずに田村が言う。
何かが変だ。
「なあ、田村。お前、自転車はどうした」
電車通学の俺と違って、田村は自転車通学だったはず。
「置いてきたんだよ」
「どこに」
「どこでもいいだろ」
前を歩く田村は振り向かない。早足でどんどん進む。
坂道を行けば、北上公園の緑が見えてきた。
おかしい。
前を歩く田村との距離が縮まらない。
「おい、田村」
反応することもなく、北上公園の中へ入っていく。
散歩するには遅い夕方のせいか、人気はない。花壇に植えられたサルビアが、夕陽に照らされて赤々と燃えていた。
舗装された歩道に伸びるひとつの影に、思わず足を止める。
田村が歩道から逸れる。乾いて踏みしめられた地面の上を歩き、植栽のツツジの裏へと行こうとする。
そこで、はじめて田村が振り返った。
「どうかしたのか」
「お前誰だ」
姿は同じでも田村ではない。
「ど忘れしたのか。さっき名前を呼んだじゃないか」
正門のところで、ついうっかり。少し前の自分をぶん殴りたい。
「俺の名前を言えるか」
そう切り返せば、田村が口を噤んだ。
表情がみるみるうちに崩れる。目が落ち窪み、蒼紫の唇が歪む。凝縮された悪意。ぎらついた眼光が俺を射る。
「お前、何ものだ」
人ではない。
夕陽を受けて、地面に伸びる影はひとつ。
俺の影だけだ。
田村のかたちをしたもの、その足元に影がない。
「もぉ少しだったのになぁ」
しわがれた、それでいて若い、知らない男の声。
叩きつけられた害意に冷や汗が噴き出す。
「……辰巳」
小さく呟けば、水の匂い。
和服を着流した青年が隣りに立つ。
「何用ですか」
目元にある朱の刺青が、落陽の光を受けて艶やかに浮かび上がる。
「ああ、なるほど」
辰巳が袖で口元を隠す。
「あれを喰らえばよいですか」
男が後退る。踵を返し、ツツジの向こうへ消えていった。
「……はああああぁ」
天を仰ぐ。今になって心臓が早鐘を打つ。
「助かったよ、辰巳」
「助けた覚えはないのですが」
「ありがとう。じゃあ、貸し借りなしで」
辰巳が眉根を寄せた。
「妙なところは当代譲りですね」
「変なものに引かれるもの、そうだと有り難いんだが」
「己れは変なものに入りますか」
「入る」
安心感のせいか、口が軽くなる。
「変なもの、友人枠」
辰巳がため息をついた。
「こちらからすれば、鳴海も十分変なものですよ」
「ちょっと待て。こっち、ってどっちだ」
含みのある言い方に、頭の中で警鐘が鳴る。
「さあ? 人ならざるもの、でしょうか。己れの友人枠でしょうか」
「……今度、アイス持ってきてやる」
「そぉだ味がいいです。青いやつ」
「わかった」
湿り気を帯びた風が吹く。
最期の光を投げて、陽が完全に沈む。
辰巳が西の空を見た。
「誰そ彼時ですね。帰り道は、お気をつけて」
歩道の上に、二つの影が伸びていた。
『影踏み』




