52 躑躅が辻
冊子を開く。
皐月の頃だった。
「迷った」
行けども行けども、花咲く生垣が続く。
赤、白、ピンクのツヅジが盛り。
待て、落ちつけ、と思うが反面、焦りが心臓を加速させる。
土曜の昼下がり。自主練を再開するの腹ごなしに〈紫苑の森〉を探索しようと思ったのが運のつき。
垜小屋の裏に自分の矢を立て、いつも通りに足を踏み入れた。
奈良の東大寺の柱のような、太い幹の樹々が並び立つ深い森。足元にはヨモギやツユクサ、ヤエムグラ、コマツナギなどが若葉を伸ばしていた。歩けば、弓道着の袴の裾に当たる。ふわりと、ヨモギの清涼香。
どこをどう分け入ったのか。
気づけば、ツツジの生垣に囲まれていた。
左右のツヅジの壁は三メートルぐらい離れている。間の道は乾いた地面。草は一本も生えていない。庭師が整えた庭園ですと言われれば信じる。
空は晴天。抜けたような蒼。
穏やかな皐月の陽気。
けれども、どこか違和感。
赤、白、ピンクのツヅジが咲いている。
が。
静かすぎる。
無風だからかもしれないが、音がまったくない。
生きものの気配がしない。
普通だったら、蜜を集める蜂や虫たち、狸や狢や駆け回り、花喰い鳥が飛び回ってもいいはず。
ただ、ツヅジが咲いている。
その風景に腹の底が冷たくなった。
「野襤褸菊」
呼んでも現れない。
「マジか」
ぴりぴりと肌が痺れる。それなのに、目の前には平穏が広がっていることが異様。青い空に、満開のツツジたち。
鳥の鳴き声ひとつしない、静けさ。
麗らかに日差しに鳥肌が立つ。
ふっと香った。
ツツジから花蜜の匂い。
その漂う甘い香りに吐き気を覚えた。
風が無いので、どんどんと匂いは濃くなる。道着の袖で鼻を押さえるも、甘ったるい匂いが纏わりつく。
ぐらぐらと視界が揺れる。頭痛。気持ちが悪い。
赤いツツジの花が揺れた。
はらりと大きな花弁が地に落ちる。花弁は二枚、三枚と続けて散る。
残された茎に、目玉が一つ。
血走った結膜。黒い瞳。目が合った。
冷や汗が吹き出る。
目が、俺を見つめている。
白いツツジの花が散った。目玉が一つ残る。
ピンクのツツジの花が散った。目玉が一つ。
花、散れば目玉。
花、花、目玉、目玉、花、目玉、目玉、目玉、目玉、目玉。
ツツジの生垣が変容した。数百もの目玉が、見つめている。
突き刺す視線。
甘ったるい匂い。
気持ちが悪い。
生つばを飲み込む。視界が揺れる。
まずい。やばい。
意識が遠のく――その前に。
甲高い鳴き声がした。
天から空気を切り裂いて、何かが急降下してくる。点に見えたそれは、鳥。
隼だ。
容赦なく俺の肩を蹴り飛ばした。
「いって!」
衝撃で地面に尻もちをつく。
「何をやっている」
聞き慣れた、厳しい声。
顔を上げれば、弓道着の上に羽織を纏った北原先輩がいた。
「何をやっている」
俺を見下ろす、黄金色の目が冷たい。
「……迷い、ました」
正直に答えれば、盛大なため息が聞こえた。北原先輩が首を横に振る。
「おい」
「はい」
「戻るぞ」
北原先輩が羽織の袂を手で払った。青灰色の羽根が一枚、散る。
「ええっと、どうやってですか?」
「ついて来い」
生垣がざわめく。茎を伸ばし、目玉が集まってくる。
ふん、と北原先輩が鼻を鳴らした。
「置いていくぞ」
言うが早いが、彼の姿が消える。
代わりに一羽の隼が地面にいた。
翼を広げ、飛び立つ。
その羽風に甘い匂いが薄れる。隼は上空で円を描いた。鳴く。遅い、と言っている。
ぼこりと地面が隆起した。
無数のツツジの根が伸びて来る。血走った目玉が睨んでいる。
根に絡めとられる前に、羽ばたいた。
一気に空の蒼が近くになる。
背後で根がしなる気配。叩き落とそうとしたのだろう。危ない。
甲高い鳴き声。隼が鳴く。
一直線に蒼穹へと飛んで行く。速い。遅れまいと、その後を追った。
蒼の空、翼で掴む風。
必死で羽ばたけども隼には追い付かない。ぐんぐんと高度を上げていく。速い。追いかける。吸い込まれそうな天の蒼。蒼、蒼。
そうして、草叢へ倒れ込んだ。
「ぶえっ」
前のめりで手をつく暇もなく、顔面からダイヴ。口の中に草葉が入る。急いで身を起こして吐き出す。青臭いヨモギの味が舌に残った。
周囲を見れば、垜小屋の裏。
そばに、自分の白羽の矢が一本立っている。〈紫苑の森〉に入る前、地面へ突き刺した矢だ。
立ち上がった袴についたヨモギの葉を払う。打ち身ぐらいで、大きな怪我はなし。
地面から矢を引き抜く。矢道を通って弓道場へ戻れば、榊先輩がいた。
「おかえり」
「ただいま……です」
壁際の、畳の上に座る榊先輩がにやりと笑う。
「躑躅が辻に迷い込んだな」
持ち前の鋭い勘でもなんでもなく、当代の書記係はすべてお見通しだ。
「迷い、ました」
立ったまま声が小さくなる。
「ぼけっとしているからだよ」
ぐうの音も出ない。
が、その前に。
見ている光景の非現実さに、言葉が出ない。
榊先輩が畳の上に座っている。
彼女の肩に、目を閉じた北原先輩がもたれている。
「……寝ているんですか」
小声で聞けば、榊先輩は眼鏡を掛けた。北原先輩のものだ。
「もうすぐ起きる」
ぴくりと北原先輩の瞼が震えた。
「ん。おかえり」
榊先輩の声に、北原先輩が瞬きをする。彼女の肩から離れて、ひとつあくびをした。
「……眠い」
半分しか開いていない目が俺を見上げる。
「……戻ったか」
「その、えっと、ありがとうございました」
頭を下げる。
「次はもっと早く気づけ。魂代になれば、大体どうにでもなる」
「すみません」
北原先輩があくびをした。億劫そうに立ち上がる。
「寝る。三十分経ったら起こせ」
榊先輩から眼鏡を取り返し、弓道場を出て行った。
よっこいしょ、と榊先輩が立ち、隅から文机を出した。その上に硯と筆を並べる。
「あの、榊先輩」
「うん?」
べしべしと黄色い鳩缶を手で叩きつつ、彼女が顔を上げた。
「北原先輩、すごく眠そうでしたけど。大丈夫なんですか」
「現を飛ぶのは疲れるからな。ちょっと昼寝すれば元気になる」
引っ掛かっているのかなぁ、と榊先輩が鳩缶を叩き続ける。
「……俺は何ともないですけど」
疲労感はまるでない。
「うん。そういうものだから」
「書記係だからですか?」
「それは関係ない」
疑問符が頭の中に湧く。奇妙なもの、不思議なものと接する係が関係ないとは、何故。
「どういうことですか」
「鳴海だからだよ」
「意味がわかりません」
「おっ、やっと出た」
話をぶった切って、榊先輩が鳩缶の蓋を開けた。
缶の中には、墨を擦るための水差し――鳥のかたちをした急須――がひとつ。
冷や汗が噴き出す。
クチバシを象った注ぎ口に、一輪の赤いツツジが咲いていた。
『躑躅が辻』




