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47 紫の花の名

 

 冊子を開く。

 〈紫苑の森〉に慣れた頃だった。



 弓道着姿のまま、垜小屋(あづちごや)の裏手へ行く。

 生い茂る野草たちを雪駄(せった)で踏み分ければ、薄暗い草地に男が立っていた。


「お待ちしておりました」

 腰を直角に折る最敬礼。

 短い茶髪をひっつめた、その毛先だけが黄色い。


「それは、やめてくれって言っているだろ。野襤褸菊(のぼろぎく)

 身体を起こし、細目の野襤褸菊がさらに目を細めて笑う。


「矢の君は書記係を継ぐ御方。礼を欠く謂われは、ございません」


 弓道部の書記係。


 諸々の(こと)を書き残す役目だが、どうして弓道部(ウチ)だけにあるのかは謎。


「今日は、どちらに?」

「うーん」


 目の前に広がる、鬱蒼とした樹々。

〈紫苑の森〉と呼ばれる、表向きは高校の敷地内の一角。グラウンドほどの広さ。

 表向きは。


 当代書記係の榊先輩が言う〈あっち〉や〈向こう〉、(うつつ)ではない〈紫苑の森〉は、果てし無く広い。丘陵のような勾配も、天然記念物になりそうな藤の大木もある。


 見習い始めなので、ひとりで森に入って無事生還する自信はまだない。下手したら鬼神に喰われてしまう。だから、野襤褸菊に案内を頼む。命は大事に。


「ちょっと散策して、藤の翁のところへ行くかな」

「承知しました」


 野襤褸菊が頭を下げ、纏った着物、ボロボロの濃緑色の袖を振う。

 ざっと風が巻き起こり、野草たちが一斉に葉を裏返した。






 凛とした森気が肌を刺す。

 瞬きをすれば、古木が悠然と並び立つ、森の中に立っていた。


 見上げれば、遥か頭上で、枝葉が風にそよいでいた。揺れる白い陽光が、木漏れ日となって顔に降り注ぐ。

 雪駄を履いた足を踏み出せば、ふわりと花の香りが立ち起こった。足元を見ても、何も花は咲いていない。


「いかがなさいましたか」

 前を行く野襤褸菊が声を掛ける。


「……花の香りがしないか?」

 周囲を見渡しても、咲く花は見つからない。

 花といっても、甘ったるい芳香ではなく、涼やかで控えめ。清楚とか、清廉という言葉がイメージされる。


「前触れ、でしょう」

 野襤褸菊の袖が、風で揺れた。


「前触れ?」

「すぐ、お(わか)りになりますよ」

 足を止めれば、はらはらと薄紫の花弁が降ってきた。


「うん?」

 手の平で受け止める。


 薄紫色の菊のような細い花弁。

 雪が溶けるように、すうっと消えた。降る花弁は、数は多いのに、地面へ積もることはない。

 幻のように消えてしまう。


「なぁ、野襤褸菊。どういうことだ」

 顔を上げれば、その姿はなかった。

 代わりに、蕾のように(すぼ)まった黄色い花が咲いている。


「……おい」

 急に姿を消すなよ、と口にする前に、彼女が現れた。


「こーんにちは」

 制服姿の先輩が、大木の陰からひょっこりと顔を覗かせる。

 肩ぐらいの長さで切り揃えられた髪が、風に揺れている。


「お久しぶりです」

 頭を下げれば、ふふふふ、と先輩が笑う。


「どう? 書記係は慣れてきた?」

「ぼちぼちです」

 巻き込まれ、振り回されてばかりですと答えれば、彼女は楽しそうに頷く。


「何事も経験だからねー」

 けらけらと笑う榊先輩の顔が、何故か思い浮かぶ。

 いつの間にか、薄紫の花弁は降り止んでいた。


「あの、さっき野襤褸菊が前触れって言っていたんですけど。何のことだか、知っていますか?」

「あらあら、まあまあ。だから、遠慮しているのね」


 先輩が野襤褸菊を見る。

 黄色い花を咲かせる野草は、ぺこりとお辞儀した。


「……どういうことですか?」

 先輩が微笑んで、自分を指差す。


「こういうことかな?」

「意味がわかりません」

 先輩が真面目な表情をして、腕を広げた。


「ここは〈紫苑の森〉です。何があっても、どんなことが起きても、不思議ではないのです」

「はぁ……?」

「そういうことなのです」


 ね? と小首を傾げて、彼女がふんわりと笑う。穏やかで凪いだ笑顔に、これ以上何も訊けなくなる。


「今日は西の滝に行くと良いよ。もしかしたら、鯉の登竜が見られるかも」

 そう言って、先輩は手を振った。


 すぐに大木の陰に隠れ、その姿が見えなくなる。

 慌てて斑模様(まだらもよう)した樹皮の大木の後ろへ回るが、誰もいなかった。


 ひらりと一枚。薄紫が降る。

 その花の名を、俺は知らない。




『紫の花の名』




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