44 行進(上)
冊子を開く。
暑さ残る、秋の頃だった。
「なぁ、聞いたか?」
体育の授業の前。
ウォーミングアップのグラウンド三周を終えて、息を整えていると、田村が言った。
「あの有名な幽霊が出たんだってよ」
「何だ、あの有名な幽霊って」
訊き返せば、何故か田村に呆れられた。
「お前なぁ。それでもここの生徒かよ」
「ここの生徒だよ」
「じゃあ、知ってんだろ? 行進する兵隊の話」
それは、この高校に伝わる怪談話のひとつだ。
もちろん、姉ちゃんから聞いていた。聞かされていた。
その手の伝統的な怪談話は他にもたくさんあるので、とっさにどれだか思い付かなかった。
「夜になると、グラウンドを兵隊の幽霊が行進する……ってやつか」
「そうそれ」
田村が頷く。
「出たのか」
「出たんだよ」
真剣そうな顔を作って、そのくせ田村の口元は笑っている。
「吹奏楽部の子に聞いたんだけど。昨日の夜、遅くまで部室に残っていて……窓から見たんだと」
「その子、目が良いな」
吹奏楽部の部室は、音楽室の隣り、校舎の四階にある。
夜で真っ暗だっただろうに、グラウンドで動くものが兵隊の幽霊だと、よくわかったな。
「話の腰を折るなよ、鳴海」
田村が不機嫌そうに眉を寄せた。
「悪い。それで?」
額から汗が垂れる。鬱陶しくて手で拭う。暦の上ではとっくに秋なのに、暑さは一向に納まらない。体操着の襟元を指で摘まみ、風を送る。
「だから、今日の部活終わりに確かめようぜ」
田村が目を輝かせて言った。
「……マジか」
「マジマジ」
頷く田村に、ため息が出る。
「やだよ」
「はぁー? なんで。お前、そういうの得意じゃん。榊先輩の弟子じゃん。書記係じゃん」
「弟子で書記係見習いってのは、別に否定しないけど。でも、得意じゃない」
弓道部にあって、他の運動部にはない役職、書記係。
要は記録係なのだが、部活動以外の諸々も書き記す。例えば、ちょっとした怪異とか。
「それに、兵隊の幽霊が出るのはグラウンド。〈紫苑の森〉じゃないから、管轄外だ」
ちぇー、と田村が口を尖らせた。
「鳴海は興味ないの? 兵隊の幽霊の正体」
「ない……ってか、触らぬ霊に祟りなし」
「お前なぁ。それでもここの生徒かよ」
「ここの生徒だよ」
体育の島田先生の姿が見えたので、田村と一緒にだらだら歩きながら整列場所に向かう。
途中、俺たちよりもずっと早く、アップを終えていた松永が、靴紐を縛り直していた。
「松永ー、縮めー」
しゃがみ込んでいる松永の肩に、田村がのし掛かる。
「……重い」
「重くないでーす。オレは標準体重でーす」
「邪魔」
田村を手で引っぺがし、ついでに田村の頭を押さえつけたまま、松永が立ち上がる。
「いででででっ。縮む、縮むから!」
「縮め、縮めー」
俺が冷やかせば、お前覚えていろよ! と安っぽいセリフを田村が言った。
松永が手を離す。すかさず田村が距離を取った。逃げた。
「ずりーぞ、松永。お前だけ百八十センチオーバーだなんて!」
びしっ、と田村が指差した。
昨日やった身体測定の結果を根に持っている。
「正確には百八十三センチだ」
表情を変えずに、淡々と返す松永も松永だ。その流れ矢が胸に突き刺さる。松永の身長からマイナス……やめよう。
「どーせ、オレなんて平均値ぴったりですよーだ!」
逆にすごいが、口には出さない。
「おらっ、田村! いつまでも遊んでんな、並べ!」
島田先生に怒鳴られた。
すみませーんと、田村が整列場所――仁王立ちする島田先生の前へ駆け寄る。俺も松永と一緒に走った。
「整列おせーぞ、男子! ペナルティでもう一周走るか?」
「嫌でーす!」
ブーイングの嵐が吹き荒れる。せっかく、汗もひき始めてきたのに、追加はちょっと勘弁してもらいたい。
「島田先生、本気で走らせるからなぁ」
「ああ」
そうぼやけば、松永も頷く。
ぴりっと鋭い気配が肌を刺した。
「鳴海?」
振り向けば、白須賀と目が合った。
睨まれた。
それも一瞬だけで、すぐに白須賀が目を逸らす。
「鳴海」
ちくりと、胸に微かな痛みを覚える。
「おい、鳴海」
「ん……、うん?」
松永には珍しく、眉間に皺を寄せていた。
「前から思っていたが、白須賀と何かあったのか」
「うーん……」
白須賀の横顔を見ても、もう視線が合うことはなかった。昔より背は伸びたが、その凛とした佇まいは変わらない。
「いや、俺が悪いんだ。……きっと」
行進(下)へ続く




