43 夢路(下)
夢路(上)より続き
ぼんやりと、風景が滲んでいる。
斜面に埋め込まれた石階段。
その横に、蠟梅と白梅が咲いていた。
生い茂った木々の枝葉の隙間から、古びた弓道場の屋根が見える。
〈紫苑の森〉の端に建つ弓道場は、何故か校舎や学生会館よりも低い位置にある。どうしてかは知らない。高校自体が丘の中腹にあるから、たぶん、丘を削って建物を造った影響だろうと勝手に思っている。
鮮やかな新緑の向こう、垜小屋には的が五つ。
石階段を下りながら、足元の感覚に違和感を覚えた。
雪駄が踏む石が、ふわふわとしている。石の上、ところどころに桜の花弁が散っていた。視界の片隅がぼやける。
弓道場の玄関、引戸が開いている。
覗き込めば、弓道場の中には、弓を持った榊先輩と北原先輩がいた。
「マジか」
「マジか」
二人の声が重なる。
目を見張り、驚いているようだった。その反応と、先輩たちの姿に俺も驚く。
「えーと、こんにちは?」
叩き込まれた挨拶は、思わず疑問形になった。
「鳴海だよな?」
榊先輩の目が瞬く。
「俺です」
「ずっと前に教えた、坂で化かされたら唱える呪文は?」
「ええっと……」
唐突な質問に面食らうが、教えて貰った言葉を口にする。あー、と榊先輩が声を漏らした。
「鳴海だ。紛うことなく鳴海だ」
「どういうことですか」
「そういうことだよ」
「意味がわかりません」
疑うのなら、こっちにだって、気になることが多くある。
「その格好、どうしたんですか?」
「うん? 良いだろ」
榊先輩が弽を着けた右手で、腰の辺りをぽんと叩く。袴の上に、黒い毛皮を腰巻のように巻き付けていた。
「暑くないんですか」
「暑くないぞ。それを言うなら、北原のほうが着込んでいる」
「おい」
北原先輩が顔をしかめた。
青みがかった灰色の着物を肌脱ぎ――袖から右腕を抜いていた。青灰の着物の下に、いつもの白い弓道着を着ている。
厳格な北原先輩には珍しい、衣服の〈遊び〉だ。そうして、榊先輩も同様だった。
「夢の中ぐらい、自由に遊んでもいいだろう?」
にやりと榊先輩が嗤った。
「夢の中?」
彼女の言葉に、頭の片隅で何かがぴんと張り詰めた。ぼやけていた視界の端が、明確になる。
「そう、夢だよ。私の夢であり、北原の夢でもある。……だから少し、驚いた。お前が飛び込んで来たから」
夢。
それにしては、やけにリアルだ。
「明晰夢と、聞いたことはないか」
訊ねる北原先輩へ、頷き返す。
「確か……夢の中で、これは夢だって気づく夢、でしたっけ」
そうだ、と北原先輩が首肯する。
「それだよ」
「マジですか」
マジマジ、と北原先輩と榊先輩が揃って頷く。
「鳴海は、練習着のままなんだな」
榊先輩にそう言われて、初めて気づいた。
白の弓道着に、黒の袴。足袋に雪駄――普段通りだ。
北原先輩に手招きされて、弓道場に上がる。
身に馴染んだ、というよりは反射で、神棚へ頭を下げる。
「どうやって夢路を来た?」
北原先輩の質問に、首を捻るしかない。
「えっと、最初から、普通に、石階段に立ってました」
眼鏡の奥で、濃い茶色の北原先輩の目が瞬いた。
「さすがは、書記係だな」
うーん、と榊先輩が、俺を見て唸る。
「でも、遊び心がない」
「最初は、そういうものだろう」
北原先輩が肩をすくめた。遊び。姿のことか。
「遊びというか、これぐらい違いをつけないと、夢か現かわからなくなるぞ」
北原先輩の言葉に、ひやりと腹の底が冷える。
「……わからなくなる?」
夢か、現か。
それはちょっと、恐ろしい。
「見間違えるほど、現実感があるだろう? 夢路を辿った先の夢は、そういうものだ。だから、少し現実と変える。そうすれば、こっちは夢なんだとわかる」
北原先輩にとって、それが青灰の着物なのだろう。
よくよく見れば、鱗のような、重なる羽根のような文様が浮き出ていた。芸が細かい。
「あと、見分ける標にもなる」
榊先輩が付け足す。
「夢路を辿らない、自分が勝手に見る閉じた夢では、現実の姿の相手しか出てこない」
だから、普段の姿の俺に、二人は判断を迷ったのか。
「ん?」
ふと、疑問が浮かぶ。
「失礼を承知で訊きますけど……、これ全部、俺が創った夢ってこと、ありますか?」
ほぉ、と面白がるように、榊先輩と北原先輩が声を漏らした。
「その疑問は当然。北原も、最初はそう言っていたな」
弓を抱くように、榊先輩が腕を組む。
「それはそうだろう。同じ夢を視るなんて、それを共有するなんて、信じられるものか」
現実主義の北原先輩らしい言葉。
「よし。じゃ、誰も知らない北原の秘密を教えようか。明日、現実で訊いてみればいい」
これは名案、と瞳を輝かせる榊先輩に、当の本人が眉根を寄せた。
「どうして、おれなんだ。自分のことにしろ、榊」
「やだ。それじゃあ、つまらない」
「つまらなくない」
「えー」
「えーじゃない」
傍から見ていて、じゃれ合うような言葉の応酬が続く。幼馴染みの、独特の距離感だ。というか、現実よりも距離が近い。夢だからか。遠慮がないのか。
榊先輩が弓手を伸ばす。
「実は――北原は、左耳の後ろに黒子が二つある」
その手が、北原先輩の髪を掻き上げた。
僅かに肩を跳ねさせた北原先輩だったが、彼女の手を振り払うことはしない。このやろう、と言った顔で、されるがままになっている。
来い来い、と榊先輩に呼ばれたので、北原先輩の横に回る。
確かに、左耳の後ろ――普段なら髪で隠れて見えない位置に、小さな黒子が二つ、縦に並んでいた。
「……どうして、知っているんですか」
盛大に藪蛇な気はしたが、頭の中で警鐘が鳴る前に、言葉が口からすべり出た。たぶん、家族ぐらいしか、知りえないことだろう。
「小学校の頃だっけ。背比べしたときに見つけた」
「へー……」
ここまでだ。
これ以上、間合いに踏み込んではいけない。
経験測が、死線を警告する。藪に手を突っ込む趣味はないので、感謝を述べて身を引く。
榊先輩が手を離す。がしがしと、北原先輩が手櫛で髪を直した。黒子が隠れる。
「鳴海」
「はい」
きらりと、北原先輩の眼鏡が光った。彼の口元が、珍しく三日月形に吊り上がる。
「ついでだ。覚えておけ」
「はい?」
「榊はな、中学一年まで、グリーンランドがニュージランドの隣りにあるって思い込んでいたんだ」
そんなわけがない。
社会で習う。
世界最大の島は、グリーンランド。
名前に騙されてはいけないが、緑生い茂る豊穣の地ではなく、ほぼ雪と氷で覆われた、北大西洋にある島。土地の大部分が北極圏に入る。
「だって、名前がなんとなく似ているから」
不服そうに、榊先輩の声が尖る。
ニュージーランドと、グリーンランド。
「いやいやいや。その理論でいくと、オーストラリアとオーストリアは隣同士ですか?」
さすがに、それはない。
「……と、思っていた」
悪びれもせず、榊先輩が頷いた。マジか。
北原先輩を見れば、呆れたように肩をすくめた。間違った地理の知識を正したのは彼だろう。ご苦労様です。
「鳴海は? 何かないのか」
榊先輩の目が輝いている。
「どうして、暴露大会になっているんですか」
「別にいいだろう。どうせ、夢だし。減るものでもないし」
「減りますよ。確実に何かが減りますよ」
気力と、秘密と、その他諸々。
「それに、言ったとしても。目が覚めて、俺自身が忘れていたら、何か悔しいので嫌です」
「どうして秘密を知っているのかと、慌てふためく鳴海を見てみたいが」
意地悪だ。悪趣味だ。
「ま、そこまで言うなら、今回は見逃してやろう」
歪みなき、榊先輩の上から目線。一学年上の先輩様で、書記係の師匠だから、確実に俺よりも偉いわけだが。
「その代わり、座射に付き合ってくれ」
思ってもみなかった申し出に、反応が遅れる。
榊先輩の柳眉が跳ねた。
「何だその、鷹が鷹矢で射られたような顔は」
「……驚いて、いるんです」
「そも、夢の中でも弓を引きたいから、夢路を辿ったんだろう?」
そうかもしれない。
「大社である試合が座射だから。立ち順の所作を覚えないと、って思ってました」
「真面目―」
けらけらと榊先輩が笑う。
「お前は少し見習え」
矢箱から矢を取りながら、北原先輩がため息をつく。
「苦手な座射を克服するんだろ」
「えっ。榊先輩、座射が苦手なんですか?」
静かで、恐ろしく整っている彼女の所作と行射。
それなのに、苦手とは。
「座射に限らず、団体戦が。他人の息合いを読むってのが、どうも苦手なんだ」
そうして、榊先輩は言い放つ。
「――所詮、弓道は個人競技だろ?」
息が詰まった。
剣道や柔道と違って、弓道は相手がいない。
向かうのは、二十八メートル先、的のみ。
五人組を組んでも、他人の行射が良くても、だからといって自分の射が善くなるわけではない。的中数が上がるわけでもない。
所詮、個人競技。
それは正論でもある。
けれども、何故か胸に引っ掛かる。腑に落ちない。
「――という、考え方もある」
北原先輩の声が、俺を思考の渦から引き摺り上げる。
「突き詰めれば、個人競技かもしれない。それでも、同じ立ちに五人。ひとつの流れに乗って、弓を引くことに意味はあると思う」
かしゃり、と北原先輩の四矢が擦れて鳴った。
「おれは嫌いじゃない。与えられた立ち順。その場で、自分の務めを果たす。己の行射に集中しながら、周囲の息合いを読む。面白いじゃないか」
嗤った北原先輩の口元、鋭い八重歯が僅かに覗く。
「とりあえず、三人立の座射だな。榊が大前、鳴海は中でいいか?」
はーい、と榊先輩が、聞きわけの良い返事をした。矢箱から、四本の矢を抜く。
「お前も早く仕度しろ、鳴海。のんびりしていると、夢が解けるぞ」
榊先輩の目が、悪戯っぽく光る。
「せっかく来たんだ。たっぷり射込もうじゃないか」
そう言って彼女は垜を見た。
準備されている的は、どれも穴が開いていない新品だ。
四矢を手にして、榊先輩と北原先輩の間に並ぶ。
横一列になって、正面の的に向かう。
弓と矢を持った手を腰に当て、立ったまま居住まいを正す。
「じゃあ、よろしく頼む」
北原先輩の声に背筋を伸ばす。
「よろしくお願いします」
夢の中でも、現実と変わらない矢道の風景が広がっていた。
『夢路』




