41 雨客(うきゃく)
冊子を開く。
いつかの、雨の日のことだった。
細く、静かな雨が降っていた。
夜から続く雨は、朝になっても降り止まない。
さー、と幽かな音が、弓道場を包み込んでいる。
打起し。
呼吸とともに、大三。引分け。白い雨の帳の向こう、的に狙いを付ける。弓の矢摺籐から半分、的を透かした――半月。
伸び合う、会。
さー、と雨音が鼓膜を震わせる。それでも、身の内はしんと静まり返っている。
二十八メートル先の霞的は、雨に白く覆われて、いつもより遠く思えた。
離れ。
鈍い弦音。真っ直ぐに飛翔する矢。
さくり。
矢が垜に刺さった。的から数センチ離れた、四時の方向。残心をしつつ、矢所の確認を終える。弓倒し。
物見を返して、所作を続ける。乙矢を番える。
ちらり、と視界の端に白色が引っ掛かった。
「ん?」
物見をしながら、矢取り道を見る。中ほどに、ぼんやりと白い影か浮かび上がっていた。
息を吸い損ねた喉が鳴る。
冷水を浴びたかのように、ぞくぞくと背筋が凍る。
やばい、まずい。これは、まさか。
白い影は、着物を着た女性の姿をしていた。
――幽霊。
髪は背に流して、垜小屋を見ている。伏し目がちで、かなしそうに、寂しそうに、的を見ている。
物見を返す。
ばくばくと、心臓が飛び跳ねた。慌てて深呼吸しても、落ち着かない。
「……うん。駄目だ。無理だ」
行射の途中だが、足踏みを閉じて射位から出る。神棚へ礼をして――即座に矢道へ振り向けば、白い女性は立っていた。
幽霊に見られながら、弓を引く度胸はまだない。
さー、と白く冷たい雨が降っている。
玄関の鍵掛けを見る。女子の部室の鍵は、さっき持って行った。もうすぐ着替え終えるだろう。
と、思っていたら。
がらりと、玄関の引き戸が開いた。
「ん? どうした、鳴海。怖い顔して」
弓道着の姿の彼女が、首を傾げる。
「榊先輩!」
「うん?」
指差せば、榊先輩は矢取り道をじっと見つめた。
ぼんやりと、白い女性が立っている。
「……何もいないぞ」
「なっ!」
心臓が止まるかと思った。マジか。
榊先輩には見えないのか。嘘だ。
「うん、悪い。嘘だ。いるいる。ちゃんと、見える見える」
力が抜けた。
ずるずると、弓を持ったまま座りこめば、榊先輩が嗤う。
「鳴海も、見えるようになったんだな。感心、感心」
「……俺で、遊ぶのは、やめてください」
ばくばくと心臓が暴れまくっている。
「いやぁ、面白いから。つい」
「つい、じゃ、ありません!」
声を上げても、榊先輩はひらひらと手を振るだけだ。
「度胸が鍛えられていいだろ?」
「良くないです! 全然良くないです! 北原先輩に言いつけますよ!」
「おおう、悪かったってば。ごめん、ごめん」
悪びれもせずに笑いながら、榊先輩が弓道場へ上がる。壁際の、畳の上に胡坐をかいて座った。
「……部活じゃなくて、朝練ですけど。ちゃんと正座しましょうよ」
「いつでも何処でも真面目だなぁ、鳴海は」
進言するも、あっさり流される。
榊先輩が垜へと視線を走らせた。
「弓手が弱いな。少し、離れで緩んだか」
「そうかもしれません」
指摘通りの気がする。思えば、弦音が鈍かった。湿気のせいもあるが、離れの瞬間に、弓手の押しが緩んだのかもしれない。
しゃがみ込んだまま、反省点を反芻していたら、榊先輩に早くしろと言われた。
「……何をですか?」
「乙矢」
慌てて立ち上がる。
「いや、確かにそうですけど……。その前に、あれを何とかしてくれませんか?」
さー、と細く降る雨の中。矢取り道に白い女性が立っている。
「何でさ?」
きょとんとした表情で、榊先輩が首を傾げた。
「何で、って。気になりませんか?」
白い女性が雨に打たれている。伏し目がちに、的を見ている。
「別に、害を与えるわけでもないし。観客がひとりいると思えばいいだろ。試合だったら、もっと大勢いるんだぞ」
「大勢の人よりも、ひとりの幽霊が気になります」
「小心者」
はっ、と鼻で笑われた。びびりで結構です。
「それに。まだまだだなぁ――この未熟者」
からかうような、軽い声音とは裏腹に。
榊先輩の目は一切笑っていなかった。
漆黒の冴えた眼差しに射抜かれる。
触れれば、すぱりと切れてしまいそうな鋭利な光。喉元へ刃を突きつけられた感覚に、腹の底が冷えた。
「あれは幽霊なんかじゃない」
さー、と絶え間ない雨音に、榊先輩の声が溶ける。
「……幽霊じゃ、ない?」
矢取り道に立つ、ぼんやりとした白い影。
白い着物を纏い、雨に濡れている女性。額に白い三角の布を着けてはいないが、この上なく化けて出るに相応しい。
「天冠を着けるようになったのは、江戸時代以降。最近のことだ」
百数十年前を、最近と言わないでほしい。
「古生物学とかの感覚からすれば、百年なんて、鼻で笑う誤差だぞ」
つまらなそうに言って、榊先輩が手首のストレッチを始めた。首や肩も回し、筋肉を解す。
「……勝手に読まないでください」
断じて口には出していない。
それでも、さらりと思考を読まれた。天性の鋭い勘と、その他ろくでもない術の併せ技。
「幽霊じゃなければ、何ですか」
「そういうものだ」
榊先輩が座り直す。
正座。
ぴんと伸びた姿勢に、静かな緊張感が弓道場内に漂う。
さー、と白く細く雨が降っている。
首を僅かに巡らせて、榊先輩が白い女性を見た。女性は、伏し目のまま的を見つめている。
「そういうものだよ」
「……意味がわかりません。今まで、一度も現れなかったじゃないですか」
うん、と榊先輩が頷く。
「時期じゃなかったからな」
さー、と囁くように雨が降っている。
「どういうことですか」
「矢取りに行けば、わかるかもな」
そう言って、榊先輩は腕を伸ばした。棚から、袋に入った弽を取る。一緒に入れていた胸当てをして、手早く弽を右手へ着けていく。
「早く射込めよ、鳴海」
畳から立ち上がり、榊先輩は弓を手に取った。ビン、ビン、ビン、と張っておいた弦を三回弾く。弓を引く前の彼女の癖。満ちる雨気を震わせる。
榊先輩の鳴弦でも、白い女性は動じなかった。変わらずに、目を伏せて、的を見つめている。
突っ立っていても埒が明かないので、言われた通り、さっきの的前――大後前に立射で入る。
白い女性は気になるけれども。
平常心、平常心、平常心。
心内で呟けば、壁に掛けられた横断幕が微かに揺れた。紫苑色に染められた布地に、白抜きの文字――平常心。
常に心を平らに。心揺らさないこと、だと思っていたが、違うらしい。
「在るものが、在るように在ること」
俺の後ろ、大後に立った榊先輩が言う。
「滴が落ちる水面のように。風に降られる草葉のように。森羅万象、揺れるが常。動じない、平らな心を持ち続けるよりは、そうであると、一旦すべて受け入れてしまったほうが、面白い」
さー、と静かに。雨が降っている。
天から落ちてくる、細い雨が、的を白く霞ませていた。ぼうっと引き込まれる光景だったが、頭の何処か片隅はぴんと張り詰めている。
「――と、まぁ。いろんな解釈があるからな。各自勝手に思っていればいい」
ぱちん、と榊先輩が甲矢を弦に番えた。
「……途中で放り投げないでくださいよ」
「なぁに。ここの弓道は、余所と変わっているからな。全部を鵜呑みにするんじゃない」
「たった今、すべてを受け入れろって、言いませんでしたか?」
「それはそれ。これはこれ」
屁理屈だ。
息を深く吸って、吐き出す。
繰り返す。
腹の底、丹田の辺りがじんわりと温かくなった。乙矢を番える。
弦調べをして、物見をする。
遠く、白く霞む的。さー、と雨が降っている。仄かな水の匂いが大気に満ちている。暑くもなく、寒くもない。
物見を返して、取懸け。
弽をした右手で矢と弦を押さえる。できた拳を軽く手前に捻る。弓手、手の内をつくる。湿気があるせいで、弓の握りがしっとりしている。少し気になるが、不快な程度ではない。
物見をして、的を見る。
さー、と降る雨の音が遠ざかった。
打起し。
呼吸に合わせて、大三。
引分け。
白い雨の向こう、的に狙いを付ける。弓の矢摺籐から、的の半分を透かし見る、半月。
会。
天地、前後、左右へ伸び合う。
無音。
ただ、的に向かう。
深、と身の内は鎮まって、伸び合いだけが続く。
そうして唐突に訪れる、離れ。
二つの弦音が響き渡る。
雨の幕を切り裂いて、真っ直ぐに矢が飛翔する。
タタン、と重なる的音。
「――よし」
榊先輩が的中の掛け声を口にした。
乙矢は、的の三時の方向に刺さっていた。ほっと胸を撫で下ろす。雨の音が戻ってくる。
射位から出て、榊先輩の大後の的を見れば、中白ど真ん中に的中していた。
「気づいているとは、思うけど」
乙矢を番えながら榊先輩が言う。
「お前、甲矢というか、一射目の的中率が悪いな」
「そうです……か、……も、しれません」
榊先輩の指摘に、部活動中の記録簿を思い出す。言われてみれば、一射目が残念――外れの表示が多い気がする。
「そうだよ。三中のほとんどが、一射目外しだ」
俺のほうを見ずに、榊先輩は取懸け、手の内をつくる。
「『チキン』よりはうるさく言われないが、最初から決めろよ」
チキンとは、最後の一射を外した三中のこと。実はそれもよくやる。
「――『この一矢に定むべし』だな」
「今度は何ですか」
榊先輩の有り難い引用癖。理系クラスに在籍しているくせに、何故か古文漢文その他諸々、文献書物の言葉に精通している。
「有名どころ。兼好法師の『徒然草』、第九十二段より。『後の矢をたのみて、初めの矢に等閑の心あり』ってね」
身を抓む思い、という慣用句があるが、こういう気持ちなのか。
今も昔も、人は変わらないらしい。
「……反省します」
「ま、ほどほどに。一射懸命で、ほいほい命懸けられても困る」
さすがに、それはない。
「とは、言い切れないのが、鳴海だからなぁ」
思考を読んだ榊先輩が薄く笑う。瞬きする間に笑いを治めると、冴えた眼差しで的を見た。物見。
本座より少し下がった位置から、榊先輩の射を見守る。
煙が立ち昇るかのような、自然な打起し。ひとつひとつの動作が、無理なく呼吸と合っている。それらが滑らかに繋がる。大三、引分け。
恐ろしく美しく、静かで、正しい射型。
正射必中。
その言葉を、そのまま体現している。
ぴたり、と乱れることのない、会。空気が張り詰める。微かな威圧が肌を痺れさせる。
静寂が久遠に続く。
が。
それは、やってくる。
張り詰めた糸が切れるように、若葉が夜露を弾くように。
鋭く、自然な離れ。
カンッ、と弦が鳴く。
当然のことように、弦が弓手の外側へ返る。見事な弓返り。
放たれた矢は、吸い込まれるように中白に中った。
「よし」
俺の的中の掛け声に、榊先輩が眉をひそめた。
残心、弓倒し。神棚へ頭を下げ、射位から出る。的を振り返って、じっと見つめている。
「どうかしましたか?」
「嫌な予感がする」
中白に的中しておいて、嫌な予感?
「……何ですか?」
榊先輩が弓道場の縁に立ち、手を翳して大後の的に目を凝らす。その隣に立ってみるが、白く煙る雨のせいで、よく見えない。
細雨は降り続いている。
矢取り道には、ぼんやりと白い女性の姿がある。
「矢所がまとまり過ぎると、先に中った矢に次がぶつかって、矢を傷めるんだよ。どうにも、掠った気がする……」
中れば中れで、悩みは尽きない。
「矢取り、行ってきますよ」
弓を弓立てに置いて、弽を外す。
「いや、行くなら自分で行くから」
「矢取りに行けば、わかるんですよね?」
伏し目がちに、的を見つめている白い女性。
ゆっくりと、榊先輩が頷いた。
矢を拭う、てぬぐいを持って玄関を出る。
傘立てから自分の傘と、共有の誰のものでもないビニール傘を手に取った。
自分の傘をさして、弓道場の建物伝いに矢取り道へ向かう。降り続ける雨に、ところどころ地面がぬかるんでいた。土の匂いと、青草の匂いが、湿った大気に溶けている。
木の根がうねうねと露出している矢取り道。
踏み固められた地面に負けず、そこかしこから草が生い茂っていた。
その草叢。龍の髭に似た、長細い葉が群生している場所に、白い着物を纏った女性が、雨に打たれながら立っていた。
足はある。
が、草に隠れて足首から下は見えない。全身が、雨にしっとりと濡れている。透けてはいない。本当に幽霊ではないようだ。
幽霊ではないが、人ではない気がする。
生気というか、血の通った気配がしない。
「……あの」
白い女性は、ぴくりともしないで、的を見つめている。
「……その」
声を掛けてみるが、見事に無反応だった。
伏し目がちで、かなしそうに。寂しそうに、的だけを見ている。
さー、と静かに雨は降る。
「……もし、気が向いたら。使ってください」
ぽん、とビニール傘を開いて、彼女の足元に置く。そそくさと、その前を通り過ぎる。
垜小屋に辿り着き、射場を振り返る。
弓を置いた榊先輩が、矢取りを許可する白旗を持っていた。いちいち面倒なので、傘は開いたまま地面に転がす。てぬぐいは看的小屋の棚に置き、赤旗を出す。
射場に誰も居ないことを確認して、矢取りをする。赤旗を回収した後、看的小屋で矢をてぬぐいで拭いていたら、それに気がついた。
榊先輩の、甲矢の筈が割れていた。
「あー、これが嫌な予感か」
ご愁傷様です、と胸の中で呟きつつ、傘を拾う。
矢取り道を戻れば、白い女性の姿が消えていた。
「うん?」
辺りを見回しても、誰もいない。
開いたビニール傘が、ぽつんと草叢の中にある。
その傍に、白い花が咲いていた。
小さな花を付けた、穂のような花茎が一筋、垜小屋に向かって伸びていた。白く小さな個々の花は、俯くかのように下を向いている。
「――熨斗蘭さ」
凛とした榊先輩の声が、雨を揺らす。
「この年の、初めての花が咲く時に現れる」
白い着物を纏った、伏し目がちの女性。その面影が、熨斗蘭の花に重なった。
「幽霊じゃなかっただろ?」
弓道場の縁から、榊先輩が俺を見つめていた。手に持つ白旗で、とんとん、と自身の肩を叩く。
「幽霊じゃなかったですね」
屈み込んで、ビニール傘を手に取ろうとしたら、榊先輩に止められた。
「それは、そのままで」
「どうしてですか」
地に咲く野草ならば、傘も余計なお世話だったろう。
「いいんだよ。心を掛けてもらって、熨斗蘭も嬉しかろ」
その言葉が胸に突き刺さる。
――申し訳なく思う。
勝手に勘違いして。
勝手に怯えて。
勝手に、配慮を押しつけて。
「いいんだよ」
やわらかな声が、雨に溶ける。
「お前は、それで、いい」
細く、静かな雨が、熨斗蘭の花を濡らしていた。
『雨客』




