40 闇間(やみま)
古びた冊子が開かれている。
月は、灰色の雲の向こうにあった。
ぼんやりと薄い雲に隠されて、光は地上まで届かない。
風に草がそよぐ音も、夏虫が鳴く声も、聴こえない。
梅雨の合間の、静かな朧月夜。
自分を囲むように咲く紫陽花が、ぼうっと、滲み光っていた。
水気の匂いがする。
しっとりと、湿り気を含んだ大気が揺蕩っていた。闇夜に、細かい水の粒子が溶けている。肌寒いような、生温いような気温が身を包む。
紫陽花の向こう。
拓けた草地に、古びた建物があった。
その雨戸が、すべて開け放たれている。神棚の紙垂の白と、壁に掛けられた紫苑色が、僅かに闇の中で霞んで見えた。板張りの床は、とっぷりと闇に沈んでいる。
壁際の木の柱には、弦の張った弓が立て掛けてある。
その柱の元に、人影があった。
片膝を立て、柱に背を預けて座っている。手に、古びた冊子を持っている。
節張った指が、ぱらりと頁をめくった。
指が頁をめくるたびに、僅かに、闇がふるりと身動ぐ。
ぱらり、ふるり。
明かりもないのに、その人は、冊子が読めているようだった。
ぱらり、ふるり。
短く切り揃えられた爪、武骨な関節。それでいて、なめらかな肌をした長い指が、古びた紙をめくる。
ぱらり。
微かに起こった風が、満ちる闇を揺らす。
ふるり。
音は無く、光も無い。
ぱらり。
ふるり。
ぱらり。
ふるり。
時が、止まっているかのようだった。
ぱらり。
ふるり。
ぱらり。
ふるり。
ふる、ふるり。
やがて、闇が独りでに動く。
ぽつ、と二つの緑が草地に灯る。それが、ふるふると頭を振った。
しなやかな脚が、草を踏む。
黒く、長い尾が揺れる。ひくひくと、髭を動かす。
拓けた草地のただ中に、真っ黒な豹が姿を現した。
草を踏み分け、近づいて来る。
ぱたん、と人影が冊子を閉じた。よくよく目を凝らせば、白い道着に黒の袴、黒い上着を肩に掛けている。短い髪に、形の良い眉。
彼の人が首を巡らす。どんぐり眼が、黒い豹を捉えた。
闇に、黒豹の眼が光っている。さくりさくり、草を踏み分け、近づいて来る。
その緑の眼を、彼の人が怯まずに見返せば。
黒豹の歩みが止まった。
ひくひくと髭を動かして、様子を窺っている。黒く長い尾が、蛇のようにしなる。
ふっと、人影が笑みを零した。
――今は、その姿か。
親しげに声を掛ける。黒豹の緑の眼が、ゆっくりと瞬く。
――何。どんな形だろうとも、構わないさ。そういうものだから、な。
ぐるるる、と黒豹が小さく唸った。彼の人は微笑んでいる。
冊子を床の上に置き、立ち上がった。しゅるり、と微かな衣擦れの音が闇に溶ける。木の柱に立て掛けてあった弓を手にする。
ビン、と弦を弾いた。
黒豹が身を震わせた。緑の眼がきらりと光る。
ビン、と弦音が響く。
彼の人が弓を鳴らす。ビン、と澄んだ音が生まれる。
ぐるるる、と黒豹が応えた。彼の人が頷く。
息を吸った。
ぬばたまの 夜のふけゆく くさかげに……
朗々とした声が、闇夜を渡る。ゆっくりと、唄うように、その人は言葉を唱える。初めて耳にするが、何処かで聴いた気もする。
黒豹が小さく唸る。
鳴弦が響く。
そうして、黒豹の輪郭が、ほろほろと崩れ始めた。
鳴弦が響く。
しなやかに動いていた長い尾が、ほろりと、闇に溶ける。草を踏む黒豹の脚が、先から消えていく。
ぐるるる、と黒豹が鳴き、緑の眼を細めた。
鳴弦が響く。
ほろほろと、黒豹が闇に還っていく。
ビン、と弦が鳴り、彼の人が唄い終えれば、何処にも黒豹の姿はなかった。
――さぁて。
弓を手にしたまま、彼の人が、こちらを見た。
どんぐり眼と、目が合う。
――よう。
声を掛けられた。
――いつから、そこに居た?
いつから。
最初からだ。
――何処から、ここに来た?
何処から。
何処……何処?
投げ掛けられた疑問に、疑問が湧く。
――ん?
その人が、何かに気づく。
紫陽花が揺れる。
――あぁ、そうか。狭間が繋がったのか。
独りでに納得して、彼は頷いた。
――野襤褸菊。
そう呼べば、髪を後ろで引っ詰めた、細目の男が草地に立ち現れた。ボロボロの着物を身に纏っている。
――迷い込んで来たみたいだ。案内を頼む。
――承知いたしました。
細目の男が、恭しく頭を下げる。うん、とひとつ頷き、その人がこちらを見た。
――ぼんやりしていると、こうやって、ひかれることもある。気をしっかり持ってな。
そう言って、にかりと笑った。胸が透く、朗らかな笑顔。
ビン、と弦を鳴らす。
野襤褸菊が袖を振った。
ざあ、と風が巻き起こる。草たちが一斉に葉を裏返す。
声を出そうとして、口を開く。
が、言葉にならない。ぱくぱくと、口だけが動く。
彼の人が、目を細めた。
――何、そういうものさ。
囲んで咲く紫陽花が、ぶるぶると震えた。大気の水の匂いが濃くなる。拓けた草地と、そこに建つ建物が、視界から遠退いていく。
ぐにゃり、と闇が歪んだ。
『――危険ですから、黄色い点字ブロックの内側にお下がりください――』
電車のアナウンスに、はっとなる。スマホの画面から顔を上げる。
気がつけば、駅のホームに立っていた。
『――下り電車の――行き、十五両編成です。乗車位置は――』
見慣れた風景、使い慣れた駅。飛び交うアナウンスと、人々のざわめき。
律儀に、黄色い点字ブロックの内側、いつもの乗車位置に立っていた。
周囲を見渡せば、拓けた草地も、古びた建物も、囲んでいた紫陽花もない。
空を見上げれば、当然のことながら、夜ではない。からりと乾いた風が、肌を撫でていく。
なんだったのだろう。
匂い立つ、水気を含んだ朧月夜。
あれは何処だったのか。夢だったのか。
ぽつりぽつりと、疑問が浮かんでくる。
警笛が鳴り、銀色の車体がホームへ滑り込んで来た。風が巻き起こる。
ふと、線路を見れば。
線路と砂利の狭間で、蕾に似た、小さな黄色の花が揺れていた。
『闇間』
たまには変わり種を。実験的なもの。




