36 花の宴(二)
花の宴(一)より続き
部室で弓道着に着替えた榊先輩が、弓道場に戻って来る。
黒いジャージの上着を羽織っていた。
オーバーサイズで、身丈が余っている。まるで黒い羽織を纏っているように見える。
弓道場には上がらず、雪駄を履いたまま、矢道に接する弓道場の縁に腰掛けた。正座した俺の前に、中身の詰まった透明な一升瓶をどんと置く。ラベルは貼られていない。
「まさか、酒じゃないですよね?」
「うん。本当なら酒を用意しなきゃならないが、さすがに人の世の法を破るつもりはない」
水だよ、と榊先輩は言う。
ほっと胸を撫で下ろせば、きらりと彼女の目が輝く。
「ところが、どっこい。何を隠そうこの一升瓶。水は水でも、ただの水ではないんだなぁ、これが」
ふふふん、と自慢げに榊先輩が鼻を鳴らす。
「何だと思う?」
「何ですか」
榊先輩が一升瓶の蓋を開ける。蓋は何故かワインのコルクだった。きゅぽん、と空気が鳴る。
「においを嗅いでみろ」
瓶口に鼻を近づければ、甘い花の、季節外れの秋の匂いがした。
「菊ですか?」
「ご明察。聞いて驚け、見て学べ。これぞ名高い、慈童の菊水である」
どうだ、と誇られても首を捻るしかない。
「……すみません。知らないので価値がわかりません」
「だろうな。だから学べと言った」
榊先輩が床に一升瓶とコルクを置く。
「鳴海。鳩缶を持ってこい」
「はい」
壁際の棚の下、鳩の絵が描かれた黄色い大きな缶を持ち出す。榊先輩の傍らに置けば、彼女がひとつ頷いた。
「中に、何が入っていると思う?」
「やけに軽かったですが……」
普段だったら、黄色い缶の中には書記係が使う墨や、小筆や、硯や、紙片などに加え、榊先輩の雑多なコレクションである紅弦、白い羽根、団扇、鈴、手鏡、鉱物、ドングリ、何かの牙、何処かの鍵、などなど、雑多な物がみっちり詰まっている。
「簡単だから、当ててみろ」
榊先輩の長い指が、トンッと鳩缶の蓋を叩く。
かしゃり、と何かが重なる音がした。
「……ひとつ、じゃないですね」
「そう」
真っ直ぐな漆黒と目が合う。
「簡単ですか?」
「簡単だとも。何の捻りもない」
思わず、ため息が出た。
「何で……こんなものが入っているんですか」
にやり、と当代書記係が嗤う。
「無論勿論。必要だからさ」
「朱塗りの盃が二つ――、必要になる場面が想像できません」
ご明察、と言って、榊先輩が鳩缶の蓋を開けた。
夢でも幻でもなんでもなく、確かに小さな朱塗りの盃が二つ、上下に重なって入っていた。他には何もない。
榊先輩の指が上の盃を摘まむ。そのまま俺へと差し出す。両の手で包むように受け取った。羽根のように軽いが、盃の存在感がずしりと手に伝わる。
とくとくと、榊先輩が菊水を注ぐ。盃の朱色が鮮やかに光り、菊の甘い香りが漂う。
「味見してみな」
恐る恐る、朱塗りの盃に口を付ける。
口に含めば、ささやかな甘さが舌に広がった。
砂糖や甘味料の甘さではなく、さらりとした軽い味。ほどよい冷たさが喉を通れば、恐ろしいまでに華やかな菊の香りが鼻腔を抜けていく。するっと盃を乾せば。
ほう、と息が零れた。
「美味いだろう」
「美味い、です」
ほろほろと、春の陽が、矢道の野草の上に降っている。
心地の良い、酩酊感。
身の内の何かが、するすると解けていく。思考がぼうっと滲むが、それでも頭の片隅がひどく冴えていくのがわかる。
手酌で盃に菊水を注ごうとした榊先輩を遮り、一升瓶を受け取る。彼女が唇の端を吊り上げた。差し出された彼女の盃を、ゆっくりと満たす。
榊先輩が朱塗りの盃を口に運ぶ。僅かに顔を仰向かせる。こくり、とその白い喉が動く。
ふう、と榊先輩が息をついた。
「美味いなぁ。気を付けないと、味見が味見じゃなくなってしまう」
そう言って、榊先輩は一升瓶に蓋をした。
「本当に、酒じゃないんですよね」
「本当に、酒じゃないよ」
残念ながらな、と榊先輩は盃を振って水気を切る。ふ、と彼女が息を吹きかければ、あっという間に乾いた。それに倣う。
「百薬の長より、霊験あらたか」
朱塗りの盃を鳩缶に仕舞い、榊先輩がパン、と柏手を打つ。
鳩缶が消えた。
「んっ?」
気配に振り向けば、壁際の棚の下に、ちゃんと鳩缶が収まっている。
「……どういうことですか」
「そういうことだよ」
ふふふん、と榊先輩が嗤う。
意味がわからない。
が、まだまだ当代書記係に敵わないことはわかった。
「さてと。寿命も延びたことだし、そろそろ行こうか」
「寿命が延びた?」
訊き返せば、榊先輩は事無げに頷いた。
「慈童の菊水だから。大陸の酈県山から流れる白河の、その岸辺に咲く菊の、夜露を集めた霊水。飲めば、命長らえる」
寿命が延びても、頭痛はなくならないらしい。
「……どうして、そんなものがあるんですか」
というか、どれぐらい寿命が延びたのか。一年、二年か。十年、二十年ということはあるまい。
「うーん。さぁねぇ」
面白がるように、榊先輩が目を細めた。
途端に、頭の中で警鐘が鳴る。
「待ってください。どっちの疑問に対しての『さぁねぇ』なんですか!」
思考を読むのはお手のもの。同時に二つの疑問を抱いた俺も悪いが、はぐらしかたが性悪だ。
「性悪だから、教えてやらない」
「……すみませんでした」
床に手をつき、きっちりと土下座をする。さらりと思考を読まれた。
「勉強になったな、鳴海」
榊先輩がべしべしと俺の頭を叩く。怒ってはいないらしい。気が済んだのか、弓道場の縁から腰を上げる。
「罰として、後で余興をしてもらう」
「はい……」
顔を上げれば、仕上げとばかりに額を手で叩かれた。ぺちん、と音が響く。当然のことながら、痛くはない。
「雪駄と矢を持って来い」
言われた通りにする。矢箱から自分の矢を一本取り、靴箱から取った雪駄を履いて矢道に立つ。一升瓶も持って、榊先輩の後に続く。
垜小屋の向こう、〈紫苑の森〉が風に枝葉を揺らしていた。
※注.酒及びアルコール類ではなく、水です。
花の宴(三)へ続く




