35 花の宴(一)
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いつかの、花咲き乱るる春の日だった。
麗らかな陽が、弓道場の縁を白く温めている。
寒さは日に日に遠退いていく。
早朝だけ、キンと冷えた大気が居座るが、それでも昼中は間違えようもない春だ。
真新しい光がほろほろと、矢道に繁茂する野草たちの上に降っている。
大前の辺り。
縁に差す陽の中に立てば、床板の温もりが足袋越しに伝わってくる。黒の袴が陽射しを吸収し、自分の弓道着の白が目にしみる。
微風が吹く。
矢道と垜小屋の向こう、〈紫苑の森〉の木々が枝葉を揺らす。大気に、青青しい緑の香りが滲んでいる。
ふるり、ふるりと、春光が降る。
絶え間なく注がれる陽気に、タンポポが新しい蕾を開かせた。それに負けじと、シロツメクサが花を揺らす。控えめに、それでも目に留まる蒼を、オオイヌノフグリが咲かせる。
春は、矢道が賑やかだ。
矢道に芝を張る他の弓道場と違い、ここでは野草たちが栄華を誇っている。その中には入らず、野襤褸菊は垜小屋の近くに咲いていた。無論、声を掛ければ、矢道にも現れる。
「矢道の外に追いやられているのか?」
「そういうわけでは、ありません」
弓道場の軒下に、茶色い髪を後ろで引っ詰めた、目の細い男が立っている。相変わらず、ボロボロの濃い緑色した着物と、ボロボロの暗赤色の袴を履いている。はっきり言って趣味が悪い。
「垜小屋の辺りが落ち着くのです」
そう言って、野襤褸菊が垜小屋に顔を向ける。雀の尻尾のような、束ねた短い茶髪の毛先だけが黄色い。
「矢の君も、そこが、居心地良いのではありませんか」
糸のような目を更に細めて、野襤褸菊が微笑む。
「バレたか」
大前の、本座より的へ近い場所。弓道場の縁。大きな姿見――鏡の隣りに、太い木の柱がある。
「立順だと、大後が一番しっくりくるんだけどなぁ」
滑らかな柱の木肌を撫でて、その場に胡坐をかいた。軒下に立つ野襤褸菊より、目線が低くなる。
何故か、野襤褸菊が慌てた様子で地面に膝を着いた。
「えっ。どうした?」
「次代様を見下ろすなぞ、不敬です」
ご容赦を、と頭を下げる野襤褸菊に、何とも言えない冷たさが胸の内に広がった。
「なぁ。その、神様に対するような態度はやめてくれないか」
「こればかりは、矢の君のお言葉であろうとも、従うつもりはございません」
「俺はただの弓道部員だぞ」
ちょっと変わった係に就いているが。それ以外は、単なる高校生だ。
「書記係の次代様であらせられます」
失礼、と呟いた野襤褸菊が顔を上げた。その糸目が厳しく光る。
「礼を欠く謂われはございません」
「……真面目というか、頑固というか」
同類じゃないか。と、けらけら笑う当代書記係の姿が容易に思い出される。
「まぁ、いいや。好きにしてくれ」
野草はいろいろと剛い。曲げない。へこたれない。
ふっと野襤褸菊が目元を緩めた。相変わらずの糸目だったが、笑ったらしい。
そうして、弓道場の東側の壁を見透かして、遠くへと視線を投げる。
「当代様がいらっしゃいました」
斜面に石を埋め込んだだけの、朴素な階段を駆け降りる音がする。
軽やかなその足音がすぐ途切れたのは、いくつかの石段をジャンプで飛ばしたからだろう。ざざざ、と走り幅跳びのような、見事に地面へ着地した音が聞こえた。
「北原先輩が見たら、危ないって怒るんだろうな」
そう呟けば、野襤褸菊が苦笑した。
「当今様のご不在を、承知しているからこそでしょう」
「俺が北原先輩に言い付けないことも織り込み済みか」
胡坐を正座に直したのと同時に、玄関の引戸が開けられた。
「よう、鳴海」
こんにちは、と身に叩きこまれた挨拶がすべり出る。
「石階段を飛ばすのは、危ないですよ」
「会って早々、小言とは。真面目すぎるもの、つまらないぞ」
なぁ野襤褸菊、と制服姿の彼女が同意を求めれば、彼は困ったように眉根を下げた。
榊先輩が靴を脱ぎながら言う。
「自主練だから、別に胡坐でいても良かったのに。私は気にしないぞ、鳴海」
見ていないのに、しっかりバレている。
「さすがに先輩が来れば、居住まい正しますよ」
「真面目―」
神棚へ頭を下げた榊先輩が、壁に掛った名札をひっくり返す。朱色の名前が表となり、在部を示す。
「よし。そんな真面目な鳴海へ、無礼講を教えてやろう」
にやりと嗤う榊先輩――当代書記係に、嫌な予感しかしない。
「遠慮します」
「却下。先輩の言うことはもちろんだが、師匠の言うことは?」
絶対だ。
自分の弓を張りながら、榊先輩が野襤褸菊へ訊ねる。
「こんなに良い陽気だ。花の宴をやっているだろう?」
「はい」
野襤褸菊が頷く。よしよし、と楽しそうに榊先輩が笑うので、聞いてみた。
「はなのえんって、何ですか」
「行けばわかるさ」
ビン、と榊先輩が弦を鳴らした。涼やかな弦音が大気を震わせ、場を清める。
「行くって、何処に」
「〈紫苑の森〉に」
やっぱり、そうか。
「野襤褸菊を案内に立てるから大丈夫。行きは良い良い、帰りも平気」
本当なのだろうか。
野草や鳥獣や怪異や鬼や神様などと、対等もしくはそれ以上に渡りあう榊先輩のことだ。彼女が良くても、書記係見習いに過ぎない自分が行って、対処できるのだろうか。
「心配なら、〈紫苑の森〉の入り口に矢を立てておけ。鳴海なら、何があっても、それで戻って来れる」
榊先輩は会話を続ける。
が。
断じて、俺は声に出してはいない。
「勝手に読まないでください」
「まだまだだなぁ」
鋭い勘と、諸々のろくでもない術の併せ技で、榊先輩はいとも容易く思考を読みとる。彼女自体が、怪異か鬼か神様なんじゃないかと思う。
「鳴海もちゃんと、できるようになるぞ」
「なりませんよ。無理ですよ」
「さぁねぇ。どうかな」
弓立てに弓を置いた榊先輩が首を傾げた。唇を三日月のように吊り上げる。
「これについては、勘じゃなくて、予言なんだがなぁ」
不穏なその言葉に、背筋が凍った。
「……ちょっと待ってください」
「ん、いくらでも待ってやろう」
歪みなき上から目線。一学年上の先輩様で、師匠なのだから、圧倒的目上で偉いのは当然なのだが。
額に右手を当てれば、気のせいか頭痛がする。
「……どういうことですか」
俯いて訊ねれば、あっさりと応えが返ってくる。
「そういうことだよ」
「意味がわかりませんっ」
予言。
それは未来を言い表すもの。
一介の人の身が、そんなことできるのか。
地面に跪く野襤褸菊へ視線を投げれば、頷かれた。マジか。
「だから、書記係なんだよ」
その接続詞はどこに掛かるのか。
「私は元々だけど、鳴海もなかなかだぞ」
「何がですか! 何でですか!」
顔を上げれば、凛と冴えた漆黒の眼差しに射抜かれた。
「そういうものだからさ」
刃のような鋭さは一瞬だけで。
すぐさま、面白がるような目に変わった。
「楽しみだな、鳴海」
全然、まったく、楽しみではない。むしろ恐ろしい。
野襤褸菊に助けを求めれば、お力になれず申し訳ありません、というように首を横に振られた。
「そうなると定められているのなら、そうなるのでしょう」
マジか。
「そもそも、自分のような野草の精と話せる方が、只人であるはずがございません」
正論すぎて反論できなかった。
花の宴(二)へ続く。




