34 雨傘
冊子を開く。
一年生の、急な豪雨の日だった。
「さて。大雨洪水警報のお蔭で授業が打ち切りになった、嬉しいお前たちに悲しいお知らせがある」
担任の武藤先生が、立ったまま教卓に両手を着く。
「電車が止まった」
しん、と教室内が静まり返る。
次の瞬間には、驚きの大声が廊下まで響いた。隣のクラスからも同様な声が聞こえる。たぶん、上の階も同じ。
「残念ながら、上りは駄目だった」
マジか。
早すぎる。まだ昼前だぞ。
「山も川もあるし、そりゃそうだろ。下り方面は、かろうじて動いているらしい。……というわけで、上り電車組。健闘を祈る」
祈られても困る。
「生きて帰れよ」
どうやって。
先生が車で送ってくれないんですかー、と女子の誰かが訊く。
「先生は定時までお仕事だ。お前らの出来の悪い小テストの採点があるんだ」
ひどーい、とブーイングが吹き荒れた。
「うっさい、うっさい。代わりに制服じゃなくて、ジャージで下校することを許す。濡れるからな。風邪を引くなよ」
おら早く帰れ、と武藤先生がしっしと手を振る。
「あと、間違っても増水した川には近づくなよ。絶対にな」
はーい、とクラスメイトたちの声が揃った。
「……鳴海、お前どうすんだ」
前の席の田村が振り返る。
「上り電車組だろ」
「ばあちゃんの家に行くから大丈夫。連雀町で近いし……この大雨の中、ばあちゃん一人だと心配だし」
ほっとしたように、田村が息をついた。
帰り支度を済ませ、隣りのクラスの松永と合流して昇降口に向かう。だらだらと喋っていたら、突然田村が声を上げた。
「やっべ! 傘、部室に置きっぱなしだった」
「取りに行って来いよ。昇降口で待ってるぞ」
悪い、と松永が会話を遮る。
「オレは先に帰らせてもらう。弟たちを迎えに行く」
松永の家は、家族経営の花屋だ。そして小学生、中学生の兄弟が多い。店で手が離せない親の代わりに、兄弟の世話をしていることは知っていた。
俺も田村も頷く。
「気を付けてな」
「あぁ」
傘を差した松永の背中を見送る。
「田村、荷物見ててやるよ。早く行け」
「サンキュ、鳴海!」
カバンを下ろし、靴を持った田村が廊下を戻る。
体育館経由で、建物の軒先伝いに行けば、途中まで濡れることなく行ける。体育館の端から武道場、その入り口から靴に履き替えて外に出る必要があるが、まあ十分以内に戻ってくるだろう。
廊下は生徒でごった返していたが、三分もすればあっという間に混雑は引いた。みんな早く帰りたいのだろう。今は遅れて来た生徒が二、三人だけいる。
「えっ嘘」
泣き出しそうな女子の声が聞こえた。
「どうしたの、五十鈴?」
「どうしよう、風花。わたしの傘、誰かが間違えて持って行っちゃたみたい……」
隣のクラスの下駄箱を見れば、女子生徒がふたり立っていた。髪をゆるく一纏めにした、今にも泣きそうな方には見覚えがある。
「えーと、伊勢宮?」
声を掛ければ、びくりと肩を震わせて、彼女が振り返った。伊勢宮五十鈴。記憶違いでなかったことに、ひとまずほっとする。
「悪い、驚かせた。同じ図書委員の一年の鳴海。わかる?」
こくこくと伊勢宮が頷いた。委員会で顔を合わせる以外で接点はなかったが、顔を覚えていてくれたらしい。
「良かったら、これ使って」
自分の傘を差し出せば、伊勢宮の隣りにいた女子が声を上げた。
「ええっ、何! あんた良いやつじゃん! 想像と違う!」
「想像って……君とは初対面だろ」
風花と伊勢宮に呼ばれていた彼女が首を横に振る。ボーイッシュな短い黒髪がぱさぱさ揺れる。
「そうだけど。ウチのクラスの白須賀が毛嫌いしているみたいだったから。どんな嫌なやつかなーって思ってた」
よく知ったその名が胸を引っ掻く。
「風花!」
たしなめるように、伊勢宮が彼女の袖を引っ張る。
「……あいつにとって、嫌なやつには間違いないよ」
傘を渡せば、伊勢宮は目を瞬かせた。
「か、傘。嬉しいけど、鳴海くんは」
「俺なら平気。部室に折り畳みあるし。気にせず使って」
「あ、りがとう……」
俯く伊勢宮の耳が赤い。もしや風邪を引いているのかと思い、顔を覗き込めば、ばっちり目が合った。薄茶の、大きな瞳。
「この天然タラシ!」
鳩尾に強烈な一撃が入った。息が詰まる。
「……暴力は、よくないぞ、風花」
膝をつきそうになるが、なんとか堪える。
「うるさい。正当防衛だ。あと、気易く下の名前で呼ぶな」
「名字、何だっけ」
「船橋。覚えとけ」
鳩尾の痛みと共に忘れないだろう。
「じゃあな、鳴海。お前は良いやつだった」
「勝手に過去形にするな」
にししし、と笑って船橋が手を振る。ぺこり、とお辞儀をした伊勢宮と一緒に、雨の中へ消えて行った。
部室に置いてある折り畳みを、持って来てもらおう。
田村へ電話を掛ける前に、くせっ毛で長身の男子生徒が歩いて来た。変人の古谷先輩だ。
「どうも」
「そんなに警戒するなよ、鳴海」
にたりにたり嗤いながら、俺の前に立つ。百八十センチオーバーの長身。自然と見上げるかたちになるので腹が立つ。
「何用ですか」
「これこれ」
古谷先輩は持っていた傘の柄を俺に握らせた。黒い雨傘。
「……何ですか」
「うん? 恩の押し売り」
「いりません」
受け取った傘を押し返そうとしたが、軽やかにかわされてしまった。距離を取って、にたにた嗤う。
「いいのか、鳴海。風邪を引いてしまったら、弓道ができなくなるぞ」
「そんなに柔じゃありません」
「足元に邪鬼が居るんだが」
慌てて自分の足を見る。何もいない。
「馬鹿が見るー」
合羽のフードを被った古屋先輩が雨の中へ消える。弓さえあれば今この距離でも射殺してやるのに。残念だ。
「お? 鳴海か」
「榊先輩」
災難を軽やかに回避する弓道部の当代書記係。とっくに帰ったと思っていた。
「日直だったんだよ」
さらりと考えを読まれた。鋭い勘と、諸々のろくでもない術の併せ技と彼女は言う。
「鳴海。それ」
榊先輩が黒い雨傘を指差す。
「古谷先輩に押し付けられました」
品定めをするように、榊先輩が傘を眺めている。じっと見つめる、揺るがない漆黒の瞳。
「何ですか?」
「古谷か。なるほど……まぁ、いいか」
どうにも放り投げられた気がする。
「何がですか」
「鳴海なら、それで大丈夫だろう」
うんうん、と榊先輩が勝手に納得して頷く。
「何がですか」
「むしろ、有り難いと思え」
「何でですか」
「お守りは持っているか?」
榊先輩の話が飛躍するのは、いつものことで。
「はい。ありますよ」
制服のズボンのポケットを探れば、小指ほどの小さなお守りが指先に当たった。ばあちゃんから貰った、大切なもの。
榊先輩がひとつ頷いた。
「川に呼ばれるなよ」
危ないからな、と先輩らしく注意してくれる。
が。
「……どういうことですか?」
「そういうことだよ」
「意味がわかりません」
危険があるなら、具体的に教えてもらいたい。
「前を見て歩けば大丈夫。うっかり道を見失うなよ」
じゃあ雷が鳴る前に帰る、と榊先輩がそそくさと立ち去った。
雨はざあざあと降っている。
「悪い、鳴海! 待たせた」
バタバタと田村が廊下を走って来る。
「おう。待たされた」
カバンを渡せば、田村が大きく息をついた。
「あー、帰るのも嫌になる雨だけど、明日の朝も憂鬱だよなぁ」
「ああ、そうか。自転車、置いて行くもんな」
この豪雨の中、傘を差しながら自転車を押すのは無謀だろう。
「そう。バスの時間に合わせて、起きなきゃいけないのが面倒でー」
「起こしてくれる、優しい彼女を早く見つけるんだな」
「ほんと、それ」
傘を広げて、雨の中に出る。
布地を大粒の雨が容赦なく叩く。古谷先輩から押し付けられた黒い傘は、本当に普通の傘だった。雨漏りもしない。ほっとする。
昼前なのに、夜のように暗い。切れ目のない冷雨が視界を白く塗りつぶす。
「やべぇな、この雨。道のどこ歩いても、川じゃん」
隣を歩く田村の声が、雨音にかき消される。
バケツをひっくり返したような、では済まされない雨量。足元は、あっという間に靴下まで浸水した。歩く度に冷たく、靴の中でびちゃびちゃと水が動いて気持ちが悪い。
正門を出れば、坂道はウォータースライダーのようだった。
「浮き輪があれば、一瞬で駅まで流れ着きそうだなー」
田村が冗談を言う。
「そうだ。気を付けろよ、鳴海。連雀町へ行くんだろ」
「ん、何かあるのか」
「この辺りは川が多いから、もしかしたら歩道が冠水しているかも。水が溢れて、道なんだか川なんだかわからなくなって、うっかり流された人も多いって聞く。あと、雨の日は橋が消える」
「橋が消える?」
橋が流されるのではないのか。
訊ね返せば、田村が首肯した。
「壊れて流されたじゃなくて、最初から無かったように、きれいさっぱり消える。んで、翌日には何事もなかったように現れる」
「何でだ」
「さぁ? 橋だって、流されたくないから避難するんじゃないか」
雨はごうごうと降っている。
駅前からバスに乗る田村と別れて、ばあちゃんちへ向かう。
小さな公園を通り抜ける。
柵が設けられた川沿いの道を歩く。普段は穏やかで、川面まで降りることのできる市民憩いの場は、今は茶色く濁った水が流れていた。ごおおう、ごおおうと流れる水の恐ろしい速さに、ぞくりと背筋が凍る。本能が警鐘を鳴らす。
豹変してしまった川を見ないように、傘を傾ければ、足が見えた。
「んっ?」
顔を上げる。誰もいない。
背筋を言いようのない悪寒が這い上がる。
傘を傾けると、人の足が見える。
驚いて顔を上げるが、誰もいない。
見間違いと思い、再び俯けば、足がある。
泥に汚れた革靴の踵、ぐっしょり濡れたスラックス。
顔を上げる。誰もいない。
傘を傾けて歩けば、ずぶ濡れの足も前へ進む。
顔を上げる。誰もいない。
傘を傾ける。足が見える。
「……どうなってんだ」
声に出しても、答えは見つからない。
泥に汚れた革靴の足。
傘を叩く雨音がうるさい。
別に襲い掛かって来るわけでもない。どうにでもなれ、と半ばやけくそに思った。
ずぶ濡れの足が前を歩いている。
足が水たまりを通っても、水は飛び跳ねない。この世のものでない見事な証拠だ。俺が通れば、ばしゃんと音を立てて水面は乱れる。すでに靴下まで濡れきっているので気にしない。
ざんざ、ざんざと雨が降っている。
雨の音が、思考を閉じ込める。
ずっと川沿いの道を歩く。歩く。歩く。
傾けた傘の向こう。俺の前を、泥に汚れた革靴が歩いている。
ざざざざざ、ざざざざざ、と雨が傘に打ちつける。
雨、雨、雨。
雨の音が、思考を閉じ込める。
ずっと川沿いの道を歩く。歩く。歩く。
傾けた傘の向こう。俺の前を、泥に汚れた革靴が歩いている。
だだだだだ、だだだだだ、と雨が傘に打ちつける。
雨、雨、雨。
雨の音が、思考を閉じ込める。
ずっと川沿いの道を歩く。歩く。歩く。
傾けた傘の向こう。泥に汚れた革靴が歩いている。
どどどどど、どどどどど、と雨が傘に打ちつける。
雨、雨、雨。
ふいに、キンッと鋭い耳鳴りがした。
「――いって」
頭痛を伴う高音に、思わず足が止まる。
次の瞬間、心臓が飛び跳ねた。
革靴の爪先が、俺の方を向いている。立ち止まっている。
慌てて顔を上げ、はっとした。
ごうごうと唸る濁流が歩道を水没させていた。
何処までが道で、何処から川なのか、わからない。下手したら、川へ転落していたかもしれない。
傘を上げ、辺りを見回す。叩きつける雨の弾幕に白く煙っている。
誰もいない。
それでも視線を感じた。
「……遠回りする」
傘を傾け、来た道を戻る。泥に汚れた皮靴の踵が見えた。少し先を歩く。
傘には感謝する。貸してくれた変人にはお礼参りをする。そう決めた。
ざあざあと、雨が降っている。
『雨傘』




