32 賭け(上)
冊子を開く。
ひらりと、銀杏の葉がすべり落ちた。
「……銀杏の葉?」
どうして書記係の冊子に挟まっているのか。
床板の上に落ちた黄色い葉を拾う。何の変哲もない、銀杏の葉だ。
朝練の合間。
一休みと称して、見学路で舞い散る銀杏の葉を手でキャッチしている榊先輩を見た。
勘の良い彼女が振り向く。
「何だ、鳴海?」
「これは榊先輩の仕業ですか?」
指で摘まんだ銀杏を見せれば、あぁと榊先輩が頷いた。
「冊子の虫除けの呪い。歴代から、ずっとそうしている」
「呪い?」
「古書にはよく見られる。本当に銀杏の葉が虫除けになるかどうか、科学的根拠は薄いけど」
「効果が在るかわからないのに、やるんですか」
ひらり、と舞い落ちる銀杏の葉を、榊先輩が右手で掴み取る。
「そういうものだからな」
胸に抱えるようにして持つ彼女の左手には、十数枚の銀杏の葉が集められていた。
積み重なった風習。見えない約束。
それらを受け継ぐ、書記係。
「鳴海は、茶碗蒸し好きか?」
唐突な話の飛躍に面食らう。
「まぁ、苦手ではないです」
「今日の晩ご飯に茶碗蒸しが出るぞ」
さらりと言い切った榊先輩に、ぞくりと背筋が凍る。
「……勘ですか」
「勘だよ」
榊先輩の勘は、何故か良く当たる。
覚えておけよ、と彼女が言う。
「銀杏の実――ギンナンを食べ過ぎると嘔吐、痙攣、呼吸困難を引き起こす。神経伝達物質の生成を阻害する、有害成分メチルピリドキシンが原因といわれている」
「食べ過ぎって、どれぐらいですか」
「大人だと四十個以上らしいが、体調によっては六、七個でも発症する可能性がある。何とも言えないな……って、どうした鳴海。眉間が険しいぞ」
淀みなく説明してくれる榊先輩には申し訳ないが、何故か頭痛がする。
「いや、あの。そういう知識って、何処から仕入れてくるんですか」
絶対に授業ではやらないし、教科書や資料集にも出てこないはず。
「単純な興味関心。進学したら、植物学やってみたいし」
「へぇ」
理系クラスということは知っていたが、進路の希望は初めて聞いた。
それに、と榊先輩は続ける。
「記憶力は書記係の武器だぞ」
ぐうの音も出ない。記憶力の前に、圧倒的に知識量で負けている。
「〈紫苑の森〉に入るのも良いが、鳴海も本の森へ行ってみたらどうだ?」
「……図書室のことですか」
そう、と榊先輩が頷く。
「図書委員なんだろ? 使える立場は、使えるとしたら使って来い」
昼休み。図書当番の日ではないが、先輩で師匠である当代書記係に言われたら、図書室に行くしかない。榊先輩のことだから、何か企んでいるかもしれないが、単なる気紛れかもしれない。よくわからない。
銀杏の葉は、虫除け。
世の中には知らないことが溢れている――ではなくて、何だったか。以前、榊先輩が言っていたフレーズ。シェイクスピアのハムレット。そこまでは覚えている。
英文学の棚へ行き、ハムレットを探す。
新潮文庫があった。
薄いし小さいし、ちょうど良い。ぱらぱらとページをめくれば、見つけた。
第一幕第五場。
主人公のハムレットが、先王の幽霊に驚いたホレイショーに向けて言っている。
折角なので、弓道の技術書も借りようと思い立つ。弓道場に置いてある教本は、あらかた読み尽くしたし。
棚に表示された分類番号を見る。スポーツと体育の下の区分に、七八九・武術とあった。
「七八九……七八九……、もう少し先か」
音楽や芸術の本の前を通り過ぎた棚の一角。
剣道、弓道、柔道と関連書籍が並んでいた。目的の弓道以外の本は、なるべく視界に入れないようにする。
弓道場と同じ本が三冊、初めて見る本が五冊あった。写真やイラストが多そうなものを手に取る。一番新しそうな本のページを捲れば、発行年は三年前。
「弓道、うまくなりたいのか」
至近距離のバリトンに心臓が飛び跳ねた。
慌てて振り返れば、長身でくせっ毛の男子生徒が立っていた。見覚えがある。貸出カウンターの内側で、たまに図書委員会の手伝いをしてくれる。
確か、名前は古谷新太。
一学年上の先輩だ。
「お前、鳴海だろ」
「どうして、名前を……」
古谷先輩とは、一対一で話したことはない。
「図書委員と常連客は記憶している」
とんとん、と古谷先輩が人差し指で頭を示す。記憶力が良いアピール。嫌味なくらい様になっていた。
「ふぅん」
古谷先輩がじろじろと眺める。
見下ろすその視線に、反射的に身長を目測する。百八十センチ以上、副島先輩ぐらいか。少なくとも俺より五センチは高い。悔しい。
「ハムレットねぇ。あいつから宿題でも出されたのか」
「榊先輩を知っているんですか?」
「さーな」
バリトンの声に滲む、なぶるような気配。ざわりと胸の内が騒ぐ。何故か嫌な予感がする。
本棚の同じ段に並べてある剣道の教本、その背表紙を古谷先輩が指でなぞった。
「お前、よりによって何で弓道部なんだ?」
無遠慮な言い方にかちんときた。
「……喧嘩売っているんですか?」
おぉ怖、と古谷先輩が肩をすくめる。
「意外と短気なんだな。誰に似たんだか」
「喧嘩売ってるんですね」
にたり、と古谷先輩が唇を吊り上げる。
ぞくっと背筋が凍った。思わず間合いを取る。
「剣道はやめたのか」
一瞬にして、体の芯が熱くなった。
「そう睨むなよ。単純だな」
にたりにたり嗤いながら、こちらの胸の内に踏み込む。
「未練はなくはない。が、今もそこそこ楽しいって感じか。中途半端だな」
「……古谷先輩には関係ないでしょう」
「まぁな。お前がただの弓道部員だったらな」
「俺はただの弓道部員ですよ」
「書記係だろう」
驚きに息が詰まる。
「部員でもないのに何故知っている、って顔だな。そのどんぐり眼を落っことすなよ?」
からかわれている。
人が気にしていることをずけずけと言う。
睨み返せば、勝ち誇った笑み。圧倒的有利を自覚している。
「じゃあな、雛鳥。榊によろしく」
賭け(下)へ続く




