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31 和邇(わに)四


 ーー和邇わに三 より続き。




「ありがとうございました」

 部員一同、神棚へ頭を下げる。


 部活の終わり。弓道場内の緊張感が緩む。部員たちが、だらだらと部室へと戻って行く。部活前の矢道掃除で疲れている。


「なんだ鳴海。今日も残っていくのか」

 弓を手にした俺を見て、呆れたように田村が言った。


「たくさんは射込(いこ)まない。明日は部活がないし、調子崩したままだと嫌だからな」

 いろいろ面倒なので適当に答える。

「あんまり根詰めるなよー」

「おう」

 お先、と田村が玄関を出て行く。


 人気がなくなった道場内がしんと静まり返った。

 薄暗くなった窓の外、部室から話し声が遠く聞こえる。野外灯が照らす矢道の草陰で虫が鳴いている。チリリリリ、チリリリリ、りーん、りーん。何という虫かは知らない。

 薄闇色の、静かな冷たさが胸の中に広がる。


「秋だなぁ」

 畳の上、壁に背を預けて座る榊先輩が呟いた。

「森も、季節も流されて。あっという間に冬が来るぞ」

「……冬は寒いから苦手です」

「同感だ」

 昼はまだ夏の気配を残していたが、夜になれば秋の匂いがする。凛と冷やされた空気が肺に満ちる。


 一手(ひとて)を持って射位(しゃい)に入る。

 矢所(やどころ)が纏まらず、あらゆる方向に散らばるため、一射一射を丁寧に引く。自分の射形を確かめる。矢数は多くしない。

 それでも気がつけば、いつの間にか十本以上、射込んでいた。


「いい加減、そろそろ矢取りに行くか」

 榊先輩が矢箱から矢を一本引き抜こうとして、途中で手を離した。誰が使ってもいい共有の矢は矢束(やづか)――シャフトの長さが短かったらしい。カシャン、と矢箱の中で擦れる。俺も榊先輩も、自分の矢はすべて使い切っていた。


「俺が行きます」

 (ゆがけ)を外して、手ぬぐいを持つ。玄関から外に出れば、部室はしんと静まり返っていた。


 野外灯が煌々と垜小屋(あづちごや)を照らす。

 見学路から射場(しゃじょう)を覗けば、榊先輩は的中記録簿を付けていた。立ったまま器用に左手で鉛筆を持つ。右手(めて)に弽を着けたままの横着。


「通ってもいいですか?」

「ん。よろしく」

 うっかり射殺されたら笑えないので、しっかり声掛けをする。

 本当はいけないのだが、矢道を歩いて(あづち)へと向かう。時間と距離の短縮。


 繁茂している野草を踏めば、鳴いていた虫たちが沈黙した。何匹かは、(かす)かな羽音を立て逃げていく。


 足元に野外灯の光が描く黒い影。

 弓道場の大前(おおまえ)大後(おち)の軒下、二方向から届く光で影は幾重にもなる。


 明りの灯る垜小屋。

 的を照らす剥き出しの蛍光灯に、小さな蛾が舞っていた。かつん、かつん、と蛍光灯へ体当たりをしている。


 腰を屈め、大後の的から矢取りしようとすれば。


 ぱしゃん、と跳ねる水音がした。

 振り返る。

 煌々と照らされる矢道に、当然のことながら水溜りはない。木の葉の海なら、部活前に人海戦術で片付けたはずだ。


 ぱしゃん。


 ざわ、と総毛立った。

 垜小屋の裏手、闇に沈む〈紫苑の森〉が震えた。葉擦れの音、枝が鳴る音。それらに別の音が混じる。


 ぱしゃん。


 頭の中で警鐘が鳴り響く。

 ――これは、やばい。


 大後、大後前(おちまえ)二つの矢取りを即急に終わらせる。板付(いたつき)を拭った手ぬぐいを振って、着いた土を払う。そうして、早足で垜を後にした。


 本当に危険なので、矢を持ったまま走りはしない。けれども、怖いものは怖い。やばい、やばい、と頭の中で呟き続ける。


 ぱしゃん。

 得体の知れないものが、いる。


「鳴海」

 凛とした声に顔を上げれば、弽を着けたままの榊先輩が弓道場の縁に立っていた。

「自分の矢を一本取って、残りを渡せ」


 差し出されたその弓手に戸惑うが、早くしろと怒られた。手に持った束の中から、急いで自分の矢を見つける。榊先輩は矢の束と手ぬぐいを受け取ると、板張りの床の上に置いた。


「お前の影に矢を突き立てろ、鳴海」

「……どうしてですか」

「いいから早く。喰われるぞ」


 不穏な言葉に反論する気が失せた。

 シャフトが曲りませんようにと願いながら、草生える地面に矢を差す。弓道場の明りで描かれた影が、矢で縫い止められる。


「これでいいんですか?」

 そう訊ねて、二つの違和感。


 何故か、足が動かない。


 雪駄の足元を見ても、何の変わりもない。草や蔓が絡んでもいないし、ましてや誰かが手で掴んでいるわけでもない。

 それなのに、一歩も動けない。


 違和感その二は、榊先輩が黒い竹弓を手にしていること。


 いつの間に弓を持って来たのか。うちの弓道部に竹弓なんてあったのか。どうして握りも藤蔓(ふじづる)も弦も黒いのか。意味がわからない。

 ちら、と榊先輩が俺を見た。


「そこにいろよ」

 黒い竹弓を持つ弓手を、矢道へ向けて真っ直ぐに伸ばす。弽をした右手(めて)で弦を胸元まで引く。


 離す。


 ビンッ、と弦が鳴いた。

 反動で弓返(ゆがえ)り――弦が手の甲の側へ回りそうになるのを、弓手を強く握ることで榊先輩は強制的に止めた。普段なら絶対にしない動作。


 ばしゃ、ばしゃ、ばしゃん。


 水音が近づいて来る。黒い竹弓の弦音に打たれて、何かが浮かび上がる。

 ぴたりと虫が鳴き止んだ。

 一切の音が消える。

 野外灯に照らされた矢道に満ちる、沈黙。


「来た」

 榊先輩の呟きに、巨大な影が飛び跳ねた。


 的の前辺りの地面から、流線形の黒い影が体を捻りながらジャンプした。クジラのブチーチングのように、水飛沫ではなく土くれを飛ばしながら、魚に似た影は背面から矢道に沈む。


 土と砂と千切れた草が振り注ぐ。

 腕で顔を(かば)えば、跳ねた黒い影を見失った。


「なん、ですかっ! あれ!」

 みっともなく声が裏返ったが、今はそんなこと気にしてはいられない。

 シャープな輪郭。魚に似ているが、特徴ある背びれ。

 何よりも、びびったのは大きさ。目測だが三、四メートルはある。


「うん。和邇(わに)

「いやいやいや、違いますよね。どう見てもクロコダイルじゃないですよね!」

「落ちつけよ、鳴海。和邇(わに)は鮫の古名(ふるな)さ」

「なおさら、落ち着いてられますか!」


 逃げ出そうにも、足はぴくりとも動かない。理由は絶対、自分の影に突き差した矢だろうけれど。


「矢を抜いたら、一瞬にして喰われるぞ」

 榊先輩の言葉に、矢へ伸ばした手を引っ込める。


 和邇(わに)が飛び跳ねた。

 がぱ、と大きな口を開ける。

 黒い影のくせに、ずらりと並んだ歯の鋭さがわかる。嫌でも想像できてしまう。和邇(わに)は三メートル手前で地面に潜った。びしばしと土くれが飛んで来る。痛い。怖い。


「……さすがに、今のは近いな」

 榊先輩が、弦を引き絞った会の状態を解いた。弓を頭上に掲げるように持つ。矢を番えていないのに――。


「射る気ですか!」

「射る気だよ」

 当然、と榊先輩が頷く。


空打(からう)ちは弓を傷めます!」

 それ以前に無謀だ。

「私の弓だから問題ない。矢は借りる」

 意味がわからない。


「というか、自分のことより弓の心配をするのか」

 呆れたように、榊先輩が眉を寄せた。


「……矢を引き抜かなければ、とりあえず大丈夫なんですよね。喰われないですよね?」

「しばらくは」

 ずっとは無理、と榊先輩が零す。


「でも、まぁ。あっちが痺れを切らしたかな」

 ぬぅ、と和邇(わに)が姿を現した。


 大きな背びれを見せつけて土の中を泳いでいたが、こっちへ向かってくる。ギチギチと歯を打ち鳴らして向かってくる。マジか。


 榊先輩が弓を構えた。

 黒い竹弓が、立ち上る煙のように掲げられる――打起(うちおこ)し。軽く弓を引き、弽を着けた右手の拳が額の位置にくる、大三(だいさん)。弓を弓手の親指付け根で押し、胸を開きつつ引分け。


 会。

 動じることのない、揺るがない静寂。弓手と右手(めて)が上下、天地に伸び合う。傍で見ていても力の動きがわかる。目が離せない。圧倒的に美しい榊先輩の射形。


 和邇(わに)が迫る。

 力の伸び合いが頂点に達した。

 離れ。

 カンッ、と夜闇を切り裂く鋭い鳴弦。


 放たれた高音は、瞬く間に漆黒の矢に変わった。矢羽根も(はず)もシャフトも、すべてが黒い。

 直線を描いて、黒の矢が和邇(わに)の脳天に的中する。


 ――耳をつんざく悲鳴。


 和邇(わに)が飛び跳ね、暴れ狂う。土くれと砂が容赦なく襲ってくる。のたうつ和邇の鳴き声が肌に突き刺さる。痛い。怖い。


 残心(ざんしん)――矢が離れた後の姿勢を()いた榊先輩が、黒い竹弓の本弭(もとはず)を床に打ち付けた。弓の下部の先端が床板を鈍く鳴らす。


 ぼろり、と和邇の輪郭が崩れる。


 崩壊が始まれば、後はあっという間で。

 鮫の形をした黒い影は、一瞬にして掻き消えた。

 しん、と夜が静まる。


 あれだけ和邇(わに)が飛び跳ねたのに、地面には大穴ひとつ空いていない。

 何事もなかったかのような矢道に、だんだんと虫の声が響き始めた。チリリリリ、りーん、りーん。垜小屋の向こう、〈紫苑の森〉のざわめき。風が渡り、葉が擦れる音、枝がぶつかる音が聞こえる。


「終わった。もう矢を抜いてもいいぞ、鳴海」

 榊先輩の声に、我に返った。

 振り向けば、彼女は胸の前で腕を組んでいる。黒い竹弓は持っていない。


「……何だったんですか、あれ」

「だから、和邇(わに)。朝に教えただろ? 台風で〈紫苑の森〉の森気(しんき)が巻き上げられたって。何を呼ぶかわからないって」

 それは、言われた気がする。


「鳴海の影の中に、潜っていたんだよ」

 息を吸い損ねて、喉がひくりと鳴った。

 潜んでいた?

 あれが?


「そう。和邇(わに)が」

 榊先輩の声に、さぁっと血の気が引く。


「何処で、あんな大物を取り込んだんだか」

「それは俺が聞きたいです」

 そうして弓道場から見下ろす彼女の目に、思わず肩が跳ねた。

 冴えた光を宿す、漆黒の目差し。


「鳴海。お前……影が深いな」

「意味深で怖いこと、言わないでください」

 彼女が僅かに笑った。すぐに真剣な表情となる。


「あまり、溜め込み過ぎるなよ」

「何をですか」

「さぁな。その内わかるさ」

 知っているのに、はぐらかす。榊先輩の悪い癖。


「言ったら言ったで、気にしまくるだろ?」

「秘密にされるほうが、気になりますよ!」

 さらりと思考を読まれた。筒抜けならば、生殺しの気持ちだってわかるだろう。


「うーん、どうかな」

 榊先輩が指で右耳の裏を掻く。


「確かに、寸止めちっくで申し訳ないとは思うけど。全く知らないのは危険だし、だからといって、説明したその言葉に縛られても良くないし」

「説明するのが、面倒なだけなんじゃないですか」

「それもある」

 あるのか。やっぱり、あるのか。


「まぁ追々(おいおい)、解るさ」

 苦手なフレーズに顔をしかめれば、榊先輩がけらけらと笑った。


「そう不貞腐れるなよ。鳴海ならいつか、きっと、解る」

「それは今じゃないんですか?」

「それは今じゃないな」


 知りたいものは、今すぐにでも知りたいが。ふふん、と鼻を鳴らす榊先輩は教えてくれないだろう。


「……じゃあ、別のことを聞いてもいいですか」

「ん? 何さ」

 漆黒の瞳が不思議そうに瞬く。


「さっきまで持っていた竹弓は、どうしたんですか?」


 榊先輩の手にも、壁際の弓立てにも。何処にも黒い竹弓はない。

 彼女が嗤った。

 ひらりと弓手を振る。


「無論勿論。片付けた」

 弓道場の明りの下で、床に榊先輩の影が黒々と伸びていた。


和邇(わに)






 お読みいただき、ありがとうございます。

「和邇」は完結しますが、連載は続きます。

 次話もお付き合いくだされば、幸いです。



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