30 和邇(わに)三
ーー和邇 二 より続き。
記録される二立ちは済んでいたので、立ちに入らない旨を記録係に伝えた。黒板の自分の名前の上にバツ印が付く。
道場内で替え弦に張り直し、外に出る。
巻藁に向かう途中で、軽やかに石階段を下って来る榊先輩に会った。ひとつに結った髪が尾のように揺れる。
こんにちは、と叩き込まれた挨拶が滑り出た。
「よう、鳴海。今、何立ち目?」
最後の一段を飛ばして、榊先輩が危なげなく着地する。
「四立ち目の前半です」
「なら、間に合うな」
榊先輩が女子部室のドアを開けた。入る前に、ちらっと俺を見る。
「足の甲に血が滲んでいるぞ。どうした?」
「えっ」
左足の甲、足袋がすぱりと切れていた。気づかなかった。
「……お前、立ちは?」
「ええっと、さっき弦を切ったので、バツ付けてあります」
「そうか。ならいい」
榊先輩が地面を睨んでいる。
俺の足元に何かあるのだろうか?
足を上げ、左右の雪駄の裏を見たが何もない。地面にも何も落ちていない。自分の影が在るだけだった。
「齧られている」
榊先輩の呟きが怖い。背筋が凍る。
「……何にですか」
「さぁな。とりあえず、傷は手当しておけ」
「実は……準備の時も、足に傷ができていました」
「ほう」
漆黒の目が眇められた。冴えた光が宿る。
「厄介だな」
朝練でもその言葉を聞いた気がする。
「鳴海。今日は残れるか? ちょっと遅くなるかも」
「ええ、大丈夫です。こっちの、ばあちゃんの家に泊まるつもりだったので」
明日は部活のない土曜日だから、ばあちゃんの家の台風の片づけをする予定。ひとり暮らしのばあちゃんを気遣った親の厳命だ。
「よし。今日中に、けりをつけよう」
そう言って、榊先輩は女子部室のドアを閉めた。
男子部室の戸口に座り、本日二度目の救急箱にお世話になる。
傷の痛みは無いが、それ以上に足袋が駄目になったのが痛い。懐に痛い。左足の甲へ絆創膏を貼って、予備の足袋に履き替える。今日は良いことがない。
「……そういう日もあるかー」
ぼそりと呟いてみる。
見上げると、木の葉を透かした空は青天。
遅い夏の色を残している。日が傾き始めているが、それでもすぐには暗くならない。
じとりと湿った風が、石階段の脇に生える萩の葉を揺らす。さわさわと草木がさざめく。消毒液の匂いが漂う。
――何だか、余計に虚しくなった。
救急箱を棚へ片付ける。立ち上がって大きく伸びをした。丹田を意識して、深く呼吸をする。
これといって理由が見付からない。何をやってもうまくいかない。
思考はどうしても後ろ向きになる。
不意に、突風が吹いた。
ごうと唸る風に、脳裏で紫苑色の横断幕が翻る。白抜きの文字を思い出す。
――平常心。
これといって理由が見付からない。何をやってもうまくいかない。
もやもやとした気持ち。自分だけ、世界から弾かれた感じがするとしても。
そんな日が、在ってもいいのだろう。
「……絶対、立て直してやる」
見上げれば、木の葉の隙間から青い空。渡る風に、萩が揺れている。
ーー和邇 四〈了〉 へ続く。




