29 和邇(わに)二
ーー和邇 一 より続き。
部活は、矢道の掃除から始まった。
一日かけて乾された木の葉の海は、それでも熊手を入れると最下層は湿ったままだった。早くも腐葉土の匂いがする。矢道で醸されても困る。
部員たちが熊手やスコップや竹箒で木の葉を動かす度に、むわっと森の匂いが立ち上る。新緑とは違う、重く濃い緑の気配。
「思った以上に重労働だなー。手が痛くなってきた」
弓道着ではなくジャージ姿の田村が、木の葉の山にスコップを突き刺して、自分の手を見ていた。手の平が赤くなっている。
「角スコじゃないから、やりづらいだろ。なかったのか?」
熊手で葉を掻き集めながら訊くと、田村は首を傾げた。
「角スコ? 何だそれ」
「長方形のスコップだよ。土とかをすくって運ぶやつ。田村が使っているのは剣スコ。先が尖ってるだろ? 地面を掘る時には良いけどな」
へー、と田村が声を漏らした。
「何でそんなこと知ってるんだ?」
「何でって……何でだろうな」
改めて訊ねられると困ってしまう。
そういうものがある、と誰かに教わった気もするが、定かではない。
強いて言えば。
「そういうものだから?」
それ以外に言いようがない。
その言葉を口にすると、変な感覚がじわじわと胸の中に広がった。
「そんなもんかねー」
特に気にした様子もなく、田村は作業に戻る。
俺が掻き集めた木の葉を、せっせと見学路の草叢へ運ぶ。こんもりと緑の小山ができている。
「あっ、おい鳴海。お前、怪我してるぞ」
「ん、どこだ?」
痛みはまったくない。田村が指差す。
「足んとこ。何かで切ったのか?」
右の足首の辺りを見る。
靴下共々、真一文字に三センチ程すぱりと切れていた。じわりと血が滲んでいる。
「枝で引っ掛けた……かもな」
そう呟いてみるが、覚えがない。でも、たぶんそうだろう。
木の葉と一緒に、枝も多く転がっている。薪になりそうな程太いものはなかったが、それでも華道の枝物として壷にでも活けられそうなものは落ちていた。
田村に熊手を渡し、片足立ちになって傷の具合を確かめる。傷は浅く、出血は止まっている。
「消毒してこいよ。部室に救急箱あっただろ」
「悪い。ちょっと行ってくる」
田村の言葉に頷いて、男子部室に向かう。
ドアを開けて戸口に座る。
腕を伸ばして近くの棚から救急箱を取り出した。
本当は傷口を水で洗うべきだが、土や砂が着いていなかったので省略する。右だけ靴と靴下を脱ぐ。
床に転がっていたティッシュ箱を引き寄せる。数枚取ってから、消毒液を傷口にかけた。つん、と鼻にくる消毒アルコールの刺激臭。
少し沁みて痛かったが、垂れる消毒液をティッシュで拭き取る。絆創膏を貼って終了。
切れていて格好は悪いが、靴下はそのまま履く。
素足にスニーカーのほうが嫌だ。どうせ矢道の掃除が一段落したら、弓道着に着替え足袋に履き換えるし。
救急箱を仕舞い、矢道へ戻った。田村が熊手を使って木の葉を集めている。俺を見ると、剣スコを寄越した。
「交換」
悪びれもせず田村が言う。
「あのなぁ」
「手が痛い。腕が痛い」
「腕の力だけで使うからだ」
「鳴海のほうが体力ありそうだし。適材適所」
そう満面の笑顔で言われたら、田村から剣スコを受け取るしかない。
「まぁ、あと少しだからいいけど」
「よっ男前!」
「褒めても何も出ないぞ」
田村が大きく頷いた。
「知ってる」
矢道を人海戦術で片付けて、ようやく弓道着に着替える。二十分遅れで立ちが回る。
名前を呼ばれ、四矢を持って控える。
時間が押しているので、いつもの五人立ちではなく、六的すべてを使い、三人立ちを二組同時。立射、会で打起しはいつも通り。
だが、何故か調子が悪い。
一射目は六時、二射目は十時の方向に外した。
矢所が纏まらない。的枠にも掠らない。
集中できていないのかもしれない。
ゆっくりと息を吐いて、甲矢を番える。ぱちん、と気持ち良く筈が中仕掛けへはまる。緩みはない。
弦調べをして、物見。
集中集中、と内心で呟きながら物見を返す。取懸け。
前の副島先輩が会に入った。物見をする。打起し、大三。引分けで、弦がきりきりと鳴る。
会。
的へ狙いを付ける――弓に巻かれた藤蔓を透かした半月。
会は止まっているようで、動いている。
上下天地へ伸び合っている。その時が来るまで、身の内にある水面は波一つ立たない――はずだった。
ぱしゃん、と何かが跳ねた。
張り詰めていた気が途切れる。
え、と思った瞬間には、もう離れていた。
矢は呆気なく飛んでいき、当然のように垜へささった。三時の方向。
呆然としたまま残心。正確には放心かもしれない。慌てて弓倒しをする。とっとっと、心臓が走り出す。
確かに、何かが、何処かで跳ねた気がした。
矢を持ち直し、番える。
ぱちん、と良い音がする。緩みはない。
速くなっている鼓動を抑えるために深呼吸する。ざらっとした違和感はあるが、それが何なのか、わからない。
落ち着け、と頭の中で呟く。
今は何も考えないようにする。物見をして気を逸らす。
空が青い。矢道が広い。的が遠い。
湿り気のある風が渡る。
ざあっと木の葉擦れの音。響く弦音、それに続く的中の音。よし、という掛け声。意図的に感覚を閉じて、身を取り巻くすべてから距離を置く。
前に立つ、副島先輩が打起こした。
取懸けをする。丁寧に、ひとつひとつの動作を確かめる。気を引き締める。立て直す。
俺よりも背の高い副島先輩は、それでも安定した胴造りで会に入った。呼吸に合わせて物見を入れる。二十八メートル先、的を見据える。打起し。大三。
タァンと高らかに、副島先輩の矢が的へ命中した。
その流れに乗る。
引分け、会。
的へ、後ろへ、天地へ伸びていく感覚。
身の内が鎮まっていく。ぴん、と糸のように気が張り詰める。
すぅ、とすべてが無音になった。
澄んだ弦音。
的の中白へ矢が飛んでいく。
よし、と道場内に響く掛け声。
残心の状態で、あぁ中ったんだと初めて思った。弓倒し。物見を返す。残念――四射とも外れは回避できた。ほっと息をついて射位から出る。神棚へ頭を下げる。
記録の黒板を見る。気の早い記録係、田村が俺の名前の下へチョークで印を描く。
「……矢取り、行ってきます」
看的は回避できなかった。
「調子悪そうだなー」
外の巻藁で射形を確認していたら、田村がやって来た。
「珍しくバツばっかり」
俺の無残な記録を見たのだろう。にやー、と田村の目尻が下がっている。面白がっている。
「うるさい。冷やかしならどっか行け」
「おー、怖っ」
当然のように、田村が隣りの巻藁に入った。
巻藁の中心へ弓の末弭を向け、距離を確かめる。足踏みで矢束程に足を開く。
田村を眺めつつ、矢を番える。矢羽根のない巻藁矢を使っているので、何となく物足りない。手元が寂しい感じがする。椎の実に似た形の板付が陽光を受けて、滑らかな光沢を放つ。
「鳴海も普通なんだな」
「は?」
思わず弦調べから顔を上げた。
意味がわからない。
「いや、ほらさ。一年なのに、ばんばん皆中出すだろ」
「そうか?」
週に四、五回ぐらいだと思うが。
「あっという間に、立ち順も早くなっちゃってさー」
中断してしまった弦調べをやり直し、物見をする。さすがに、田村も物見をしている時は喋らない。
物見を返す。
「なんか安心した」
「何が」
取懸けをしながら訊き返した。
「鳴海でも、中らない時もある。何だオレと変わらないじゃんって。だからオレもがんばろーって思った」
涼風が吹き抜ける。胸がすく。
「……お前、俺を何だと思ってたんだ?」
「真面目、真面目、真面目、エース」
へらへら笑いながら田村が言った。
「貶してるのか?」
「まっさかー。褒めてる」
本当かよ、という言葉は飲み込んだ。おどけているが、たぶん、本心だろう。何だかんだ言って、田村は嘘や誤魔化しをしない。
「田村に褒められたら、こりゃ雨が降るな」
「ひーどーいー。空、青天じゃん。オレ雨男でもないし。雨男は武藤先生だし」
「だな」
弓道部の七不思議のひとつ。
顧問の武藤先生が部活に来ると、何故か雨が降る。
ひとしきり笑い、同時に会話を切り上げる。
田村が集中するのがわかった。物見。申し合わせた訳でもないのに、同じタイミングで打起しをする。大三、引分け、会。流れるように動作は繋がっていく。
離れは田村のほうが早い。弦音と共に、とんっと巻藁に矢がささった音がした。
ふつりと自分の会が途切れる瞬間、ぱしゃんと何かが跳ねた。
でぃん、と弦音が濁る。
弦が切れた。
途端に、気持ちの悪い振動が弓を伝う。
頭の中が真っ白になる。
「おおっと!」
切れた弦が飛び、田村の目の前に着地した。
「大丈夫か、鳴海」
田村が弓倒しをして、振り向く。
「すごく……気持ち悪い」
ぞわわわわ、と腕の肌が粟立っている。
弦が切れた時の射は独特だ。力が正しく逃げなかったためか、身の内の納まりが悪い。濡れた手で神経を直接撫でられた感じ。
弦が切れても、行射を蔑ろにしてはいけない。ちゃんと弓倒しをして、足踏みを閉じる。
矢は無事に巻藁にささっていた。屈んでいる田村の背中に左腕を擦り付ける。
「ちょい、何だよ。うわ、鳥肌立ってんじゃん」
ご愁傷様、と言う田村から切れた弦の半分を受け取る。残りの半分は、草叢に落ちていた。
「まぐすねにすんの? 煮弦にすんの?」
「あー、どうするかな」
まぐすねは、弦を擦って整えるための道具だが、わらじのように編まないといけないので、如何せん作るのが面倒くさい。
煮弦は、矢を番える中仕掛けを作るための材料だが、如何せん煮るのが面倒くさい。
うだうだ考えながら、草叢から弦を拾い上げれば。
中仕掛けがスパッと切れていた。
――何故。
弦が切れる時は摩耗のせいだから、切り口はぼさぼさになるはず。刃物で切ったように綺麗な断面にはならないのに。おかしい。
ぱしゃん、と何かが跳ねる気配がした。
ーー和邇 三 へ続く。




