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28 和邇(わに)一

 

 冊子を開く。

 一年生の、台風が過ぎた日だった。



 雲ひとつない青天。

 むわっと湿度を含んだ強風が、まだ幾分(いくぶん)か残っている。


 朝練へ行く道すがら、校舎とテニスコートに挟まれた小道にも、いろいろなものが落ちていた。〈紫苑の森〉から飛んできただろう、木の葉と枝が多い。雨で濡れた白いレジ袋や壊れたビニール傘は定番だ。


 小道の校舎側には、何処かから飛んで来たぞうきん、バケツが転がっている。


 びっしょりと濡れた新聞紙、スニーカーの片方、清涼飲料水のペットボトル、看板の一部、未開封の缶詰、眼鏡、鼠の死骸、潰れたアルミ缶、縄、ボールペン、蚊取り線香、水色のゴミ箱、カツラ、鮫の死骸、子どものビーチサンダル、ペンキの缶、水泳ゴーグル、赤い提灯、ワインの瓶、木製のブックスタンド、紙コップ、ブドウが一房、旅行雑誌、歯ブラシ、飲み屋のチラシ、などなど。


 その中に混ざる、細い角材、ベニヤ板の破片、瓦の一片。

 ひやり、とした。

 まさか飛ばされて、無くなっていないよな。


 築何十年、由緒正しき耐震性が怪しい木造の弓道場。

 暦年を物語る黒っぽい木板の外壁、瓦屋根。古き良き時代の建物は、台風に耐えられたのだろうか。

 早足に石階段へと向かう。


 急斜面に石を埋め込んだだけの階段――何故か弓道場は校舎や他の建物より一段低い土地にある。高校自体が丘の中腹にあるからだろうか。未だに謎だ。


 石階段の上から弓道場を見下ろす。

 屋根の瓦は一枚も飛んでいない。濡れた石階段を下りながら確認する。見える範囲では弓道場の窓も割れておらず、壁も剥がれていなかった。弓道場の無事に、ほっと胸を撫で下ろす。


 弓道場に入る前に、見学路へ行って矢道を覗いてみた。

 矢道と言っても、矢が通らない時はただの空き地。きっといろいろな物が飛んで来ていて、ごみの分別が大変なんだろうな――と思ったが、種類はたったの二種類だけだった。

 木の葉と、木の枝。


 何だ良かったと思う反面、途方に暮れた。

 その量がすさまじい。


 二十五メートルプール程の矢道一面が、木の葉の海に成っている。一歩、足を踏み入れると爪先が沈んだ。木の葉の水深約三センチ。うねる波を表現するかのように、太い枝が木の葉の上に転がっている。


 それらがすべて、雨を含んでじっとりと湿っていた。

 桜葉のような柏のような、青葉のような朽ち葉のような、むせかえるほどの森の匂いがする。


「森が流されて来たか」

「うおっ」

 気配もなく、凛とした声が背後から聞こえた。


 驚いて振り返ると、榊先輩が立っていた。

「背後を取られるとは。全然まだまだだな、鳴海」

 そう言うなら気配を消さないでほしい。

「……おはようございます。今日は、いつもより早いですね」

「〈タラス〉が来たからな。被害はどんなもんかと思って」

 聞き慣れない単語に首を傾げる。何だか美味そうだ。


「タコスじゃないぞ。台風の名だよ」

 顔に出てしまっていたのか、榊先輩にあっさりと思考を読まれる。

「台風の名? 九号だか十号じゃないんですか」

「ただの数字呼びじゃ、面白くないだろ」


 だから、勝手に名前を付けて呼んでいるのか。

 何でもかんでも面白がるのは書記係の、もしくは榊先輩の悪い癖だ。

 違う違う、と榊先輩が首を横に振る。


「各国の台風委員会が作成した名前のリストがあるんだって。台風が発生した順に、リスト通りの名前をつけていって、そうしてまた、一番目の名前に戻る……名前の使い回しだな。だいたい五年で一巡する」

「へぇ」

 知らなかった。リストには、花や動物や星座や地名があるという。


「〈タラス〉って、どういう意味ですか?」

「フィリピンで〈鋭さ〉って意味」

 榊先輩が地面に落ちていた枝を蹴った。


「木の葉の海。見事だな。厄介だな」

「そうですね。掃除が大変そうです」

 あーあ、と榊先輩が気だるそうに呟いた。


「〈結び〉が吹き飛ばされた。直さなきゃならん」

 さらりと言われた言葉に、思考が一瞬停止する。

「……〈結び〉?」

 矢道から道場の玄関へ向かう榊先輩の背中に問い掛ける。

 そう、と彼女が頷く。


「だから、〈紫苑の森〉が流されて来た」

 過程をすっ飛ばした結果のみ。

「いや、意味がわかりません」

〈結び〉とは何だろう。結界のようなものか。

「乱暴に言うとそんな感じ」


 榊先輩が道場の玄関に掛ったダイヤル鍵を外し、がらがらと引戸を開けた。

 雨戸を閉め切った道場内は薄暗く、しんとしている。玄関口から湿った残り風が吹き込み、がたたたっと雨戸と壁を揺らした。神棚の紙垂(かみしで)がふるりと身じろぐ。


「うん。雨漏りはしていないようだな」

 先に道場へ上がった榊先輩がぐるっと見渡した。

 神棚へ一礼し、壁に掛った名札を在部の朱文字へ裏返す。俺もその後に(なら)う。


「ここの道場って、雨漏りしたことあるんですか?」

 ガタガタと建てつけの悪い雨戸を開け、戸袋へと仕舞う。

 朝の光が勢い良く飛び込んできた。板張りの床が白く灼ける。

「そうならないように、いろいろしてあるけど……何せ古いからなぁ」


 自分の弓と俺の弓を弓袋から出して、榊先輩は天井を見上げた。高い天井には雨漏りのシミはない。築何十年にしてはきれいだ。

「ばあちゃんが弓道部だった時から変わってない、って聞きました」

 へぇっ、と榊先輩が目を瞬かせた。


「大先輩か。お幾つになる」

「もう七十越えました」

「名札、手元にあるかな」

 榊先輩が雨戸とは反対の壁を見上げた。窓のさらに上、古びた名札が並んでいる。歴代の先輩たちの名札。


 ――(かえ)ってきたんだよ。

 いつだったか、ばあちゃんが古い名札を見せてくれた。

 合掌するように、皺だらけの両手で名札を包み込こみ、ほっこりと笑っていた。


「大事にしてます」

「……そうか」

「最上段の名札を、持ち主に返す習わしが毎年あるって聞きましたが――」

 ばあちゃんも昔、大昔の先輩の名札を返した。そして、ばあちゃん自身の名札も返って来た。


「ちゃんと続けているよ。昔からの、そういう約束だ」

 榊先輩は自分の弓に弦を張ると、三回鳴らした。ビィン、ビィン、ビィン、と高く澄んだ弦音が生まれ、壁を伝い天井へと吸い込まれる。弦音で清められているから築年数の割にきれいなのだと悟った。


「鳴海、(あづち)を頼めるか」

 雨戸を仕舞い終えた俺へ、榊先輩が弓を差し出す。自分の弓は、基本的には自分で張る決まり。


「的の数はどうします?」

 弓を受け取り、柱の窪みを使って弦を張る。

「二つでいい。あと、矢道はそのままで。部活の時に人海戦術で片付けるだろ」

「わかりました」

 弦を弾く。ビィン、と高い弦音が鳴り渡る。



 男子部室で弓道着に着替え、(あづち)へ向かう。

 今日は大人しく矢取り道を行く。迫る崖は暴風雨でも崩れなかったが、木の根が這う足元はぬかるんでいた。

 踏み固められた地面でも、ところどころに小さな水溜りがあり、雲ひとつない空の青を映している。湿った残り風が渡ると鏡面に細波(さざなみ)が立つ。揺れる青を雪駄で(また)ぐ。


 ざっと垜小屋(あづちごや)を見回す。雨樋(あまどい)や柱の根元に木の葉や枝が引っ掛かっていたが、破損はない。

 念のため裏手へ回ってみた。日の当たらない陰は何処かひんやりとしている。雲が風に流されたのか、涙の滴のような形の影が通る。足元まで来ると、するりと消えた。


 顔に吹き付ける、むっとした風は濃い青草の匂いがする。葉擦れの音に〈紫苑の森〉を見遣ると、いつもより森が大きく、近い気がした。ぶわっと総毛立つ。


「鳴海」

「はいっ」

 反射的に返事をすると、垜小屋を挟んで西側から榊先輩が現れた。

「大丈夫か」

「え? あぁ、はい」


 何が大丈夫なのか自分でもわからなかったが、それでも榊先輩が何か気遣ってくれたことはわかった。大きく頷いてみせる。


「区切っていた〈結び〉が吹き飛ばされて、境界が曖昧になっている。〈紫苑の森〉がこっち側に浸み出しているから、呑まれるなよ」

「……はい」


 粟立った腕をさすりながら、垜小屋(あづちごや)の裏から撤退した。

 日向に出ても、体の芯に寒けが残っている。悪寒を振り払うために、急いで垜の準備に取り掛かった。

 (あづち)に被せていた葦簀(よしず)を取り、看的小屋の中へ運ぶ。竹箒を出して(あづち)の砂を掃き上げる。紛れ込んだ木の葉を一枚一枚手で拾う。


 水を撒くために水道へ行くと、榊先輩が細いロープを榊の幹へ結んでいた。

 何をするのかと眺めていたら、榊先輩はロープの端を持って垜小屋(あづちごや)の裏へ消えた。その背中を追ってみる。

 榊先輩は垜小屋(あづちごや)の裏を通り抜け、東側に生えている楓にロープの端を結びつけた。ぴん、と一直線に張られたロープで〈紫苑の森〉と垜小屋が区切られる。

 ロープの真ん中辺りに、榊先輩が折り畳んだ紙片を結ぶ。神社でおみくじを結んでいるみたいだ。


「とりあえずは応急処置」

 俺の方を見ないで榊先輩が言った。


「〈結び〉を直さないままだと、何が起こるんですか?」

 戻って来た榊先輩に訊ねる。しかし、榊先輩は首を傾げた。

「さあ?」

「さあって……」

「私にもわからんよ。知らないことは知らないさ。ただ、大方は良くないことってだけは、わかる」

「良くないこと……例えば、何ですか」


 榊先輩が水撒き用のホースを持った。ずるずると引き摺って(あづち)の前に立つ。水を撒くぞ、という彼女の言葉を待ってから水道の蛇口を捻る。


「例えば、そうだなぁ。物が壊れたり、無くなったりするとか。最悪、部員へ危害が及ぶ」

 ホースの口を指で潰し、水を見事な扇形に変えながら榊先輩が水を撒く。砂は湿り気を帯びていたので、榊先輩は天辺へ撒くだけで済ませた。


「気を付けろよ、鳴海。台風で森気(しんき)が巻き上げられた。大気と混ざって、何を呼ぶかわからん」

「何って……何ですか」

「さぁな。できれば小物だといいけど」

 榊先輩が振り返った。

 矢道には、木の葉の海が広がっている。


 水道の蛇口を閉めて、榊先輩からホースを受け取る。俺がホースを撒いている間も、榊先輩はじっと木の葉の海を見つめていた。

「……もう、来てるかもしれない」

「冗談、ですよね」


 じっとりと湿った風が吹き上がる。蒼穹へ木の葉が吸い込まれていく。

 ホースを片付け、手についた砂を払う。ざらっとした砂の感覚と同じような、何か違和感を覚えた。


「さぁな。そんな気がするだけだ」

 榊先輩が大気の匂いを嗅ぐ。

 朝の光と濃い森の気配。雲ひとつない青い空。

「勘ですか?」

「勘だ」

 ――榊先輩の勘は良く当たる。

 朝の陽光は刻々と増していく。

 それなのに、ぞくりと背筋が凍った。






 ーー和邇 二 へ続く。



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