27 坂
冊子を開く。
一年生の、梅雨が明けた頃だった。
高校は小高い丘の中腹にある。
駅から徒歩十分。緩やかな上り坂がずっと続く。
灼熱の日差しが降り注ぐ中、大通りの銀杏並木が、気休め程度に緑の木陰を作っていた。
木陰に入っても汗は引かない。俯いて、首から下げたタオルで顔を拭うが、あまり意味がない。半袖のシャツが肌に張りつく。
暑い。
熱をはらんだ大気はじとっとして動かず、歩道のアスファルトから陽炎が立ち上っている。ゆらゆらと地面と大気の境目が揺れ、溶け合っている。
暑い。
梅雨明け早々、夏本番。ウォーミングアップはない。
朝から二十八度越えの容赦ない日差しに炙られる。勘弁してくれと思う。弓道場へ着く前に干上がってしまう。
顔を上げ、前を見る。
連々と銀杏並木が続いている。緩やかな上り坂に、暴力的な日差しに、足が重くなる。
暑い。
土曜日の部活前は、朝練よりも時間がある。
早く弓道場に行って準備をすれば、たくさん射込める。
最近、ようやく矢が的に中り始めたから楽しい。弓を引けば引くほど中るようになるから嬉しい。
滴る汗をタオルで拭う。木陰など無視した太陽に、じりじりと焼かれる。
だらだら歩きながら、不意に気がついた。
高校まで、徒歩十分。
何故か辿り着かない。
目の前には、銀杏並木が続いている。
そろそろ正門が見えてくるはずだが、そんな気配はない。ずっと銀杏並木だ。ずっと坂だ。
嫌な予感に立ち止まる。
そういえば、車道を車が一台も通らない。
後ろを振り向く。歩行者は誰もいない。いくら土曜日の朝でも、まったく人気がないのはおかしい。
ぶわ、と暑さのせいではない汗が噴き出した。
腕時計で時間を確認する。七時十三分。
よし、と気合を入れて早足で坂を上る。十分歩いて、それでも高校に辿り着かなければ、只事ではない。
暑さはとうに吹き飛んでいた。茹だっていた頭の中が、にわかに混乱し始めている。ちらちらと腕時計を見ながら、歩く。七時十六分、七時十八分、七時二十一分……。
七時二十三分。
前方の風景は、何も変わっていなかった。
銀杏並木が整然と続いている。重い疲労感と、困惑にため息が漏れた。
「……どうなってんだよ」
熱せられたアスファルト。
ゆらゆらと、地面と大気の境が揺れている。
揺れて、揺れて、ぐにゃりと歪んだ。
その歪みから、黒い嘴の、白い大犬が飛び出して来た。
クケケケケケッ。
笑いながら俺の横を走り去る。ぶわり、と生臭い風が顔へ吹きつける。
後ろを振り返って、その風変わりなモノを確かめたりはしない。
「……うん」
きっと幻覚を見たのだろう。
そうだろう。
そうに違いない。
そうであってくれ。
クケケケケケッ。
鳴き声は、気のせいだと思う。
遠く小さく消えていく、のではなく、何故か段々と近づいて来る。近づいて来る。マジか。
クケケケケケッ。
振り返ってはならない。
そう直感が訴えていた。
かしっ、かしっ、と爪がアスファルトを叩く音が間近で聞こえる。
嘴犬が戻って来る。
戻って来ている。
すぐ後ろまで。
クケケケ――ギャンッ。
べちん、と壁にぶち当たったような音に、思わず振り返った。
嘴犬が宙を舞い、地面に転がった。黒い嘴が縮み、白い体毛が茶色く変化する。うずくまり、震えている。何だか痛そうだ。
「……大丈夫か」
声を掛ければ、びくりと茶色い毛玉が震えた。
一瞬にして、何処かへ走り去る。
「鳴海」
名を呼ばれ振り向けば、正門の前に榊先輩が立っていた。
「ぼうっとして、どうした」
「えっ、いや……。おはようございます?」
「何で疑問形なのさ」
彼女が呆れたように言う。もっともだと思う。
そうして、気づく。
いつの間にか、正門に辿り着いていた。
慌てて後ろを振り返る。銀杏並木が続き、アスファルトの歩道へ陰を落としている。
「……榊先輩」
「ん?」
「何か、見ましたか」
「何かって何だ」
「ええと、黒い嘴がある、白くて大きな犬……で、す」
自分で説明しながら、わけがわからなくなってきた。
「すみません。何でも、ないです」
「ふぅん?」
確かめるように榊先輩が俺を眺める。何だか、居心地が悪い。
榊先輩がひとつ頷いた。
「あぁ、成程」
何に納得したのだろうか。
「弾かれたな」
飛躍した文脈。意味がわからない。
「お守りを持っているだろう」
そう言われて、思い出す。
制服のズボンのポケットを探れば、古びたお守り。ばあちゃんから貰った。
小指ほどの大きさで、普通のお守り袋のようだが、触ると硬くて薄い金属のようなものが入っている。確実にバチが当たりそうなので、開けて中を確認したことはない。
「あぁ。さすがだな」
うんうん、と満足そうに頷く榊先輩へ、疑問をひとつ投げてみる。
「どうして、わかったんですか」
「そんなの、勘だよ」
「勘……ですか」
榊先輩の勘は、何故かよく当たる。
「よし、魔除けの呪文を教えてやろう。今度、化かされたら唱えるといい」
「化かされたら?」
そう、と彼女が首肯する。
「何にですか」
「さぁねぇ」
にやりと榊先輩が嗤った。その意味深な笑みに気圧され、何も言えなくなる。
榊先輩が呪文を唱える。
般若心経並みに聞き取りづらかった。
「……も、もう一回お願いします」
「英語じゃないのに、ヒアリング下手くそだな」
一学年上の先輩様に言われては、後輩は頭を下げるしかない。
「すみません」
「冗談だよ。一度で覚えられるわけ、ないんだから。気にするな」
真面目だなぁ、と榊先輩がしみじみと言う。だったら、人を煙に巻く話し方はやめてほしいなぁと思うが、相手は先輩なので黙っておく。
「からかって面白がっているだけだから、気にするな」
「はぁ……? んっ」
違和感。
いつから声に出していたのだろうか。
「そんなの、勘だよ」
榊先輩の勘は、恐ろしくよく当たる。
弓道部に入部して二、三カ月経つが、榊先輩については、未だに底が知れない。
「ぞるとわか――」
榊先輩がゆっくりと呪文を唱え始めた。慌てて聞き取る。三句の短い言葉だったが、意味あるものだとは思えない。
「覚えたか?」
「ええ、はい。たぶん」
「よし」
俺を残して、さっさと榊先輩は歩き出す。鼻歌を唄いながら校門を抜ける。
何故か、機嫌が良かった。
――今度、化かされたら唱えるといい。
榊先輩が言っていた今度。
それは翌日だった。
「またか……」
目の前には、延々と銀杏並木が続いている。
暑さも加わり、げんなりする。
日曜日は部活がない。
のんびり気ままに自主練ができると思っていたのに。出端を挫かれた。ふつふつと怒りが湧いてくる。朝の光は容赦なく歩道のアスファルトを灼く。
歩けども歩けども、ずっと坂だ。正門に辿り着かない。
「俺が何したって言うんだ……」
怪異を引き寄せる心当たりがない。身に覚えがない。
燦々と照りつける太陽の下、一直線に銀杏並木は続いている。
足を止める。手の甲で顎を伝う汗を拭えば、大気とアスファルトの境がぐにゃりと歪んだ。
ガオオォォッ!
雷鳴のような咆哮。
体全体が金色の、額に角を持ったライオンが飛び出して来た。
車より遥かに大きく、爛々と輝く赤い眼は肉食獣のそれ。
「……マジかよ」
さすがに、びびる。
一歩、後ずされば、金のライオンが駆け出した。向かって来る。走って来る。マジか。
ガオオォォッ!
耳をつんざく雄叫び。
その勢いに、根本的な恐怖に総毛立つ。
逃げろ、と頭の中で警鐘が鳴る。
それでも、手足は動かない。
ぎらぎらとした赤い眼。口から覗く鋭い牙。
びりびりと肌を叩く咆号が、迫る。
――今度、化かされたら唱えるといい。
不意に、榊先輩の声が蘇った。
慌てて、教えてもらった呪文を唱える。
金のライオンが、目前に迫る。
「ぞるとわか、とんさおと、きぬた」
きゃんっ、と妙に愛らしい声が聞こえた。
一瞬にして、金のライオンの姿が消える。
「んっ?」
金のライオンではなく、代わりに茶色い小さな毛玉が逃げて行く。校門を曲った。
「……おいこら、待て!」
逃げられれば、追いかけたくなる。
走ってその後を追う。
校舎とテニスコートに挟まれた小道を、茶色い動物が走り抜ける。四本の短い脚だけが黒い。犬のようだが、耳が小さいし尻尾の形が違う。
茶色い動物は庭園へ逃げ込んだ。
あっという間に、草叢の中へ姿が消えた。
生徒の憩いの場。小さな公園のような、それでもちゃんと整備された庭園。手前に池があり、水面が陽の光を眩しく反射していた。
ざわざわと、庭園の奥に存在する〈紫苑の森〉の木々が揺れている。風は無い。
「逃げられた」
走ったせいで汗が噴き出す。暑い。じっとりとシャツが肌に張り付く。
じりじりと日光が肌を焼く。暑い。
草叢を睨みつけても、何も起こらない。
しばらくそうしていたが、息を吐いて庭園を後にした。
何が何だか、もやもやするが、それ以上に暑い。早く男子部室に行って、扇風機の前に座り込みたい。
急な斜面に、石を無理矢理埋め込んで作られた階段を下る。〈紫苑の森〉の端に建てられた弓道場は、何故か校舎や他の建物より低い土地にあった。
石階段を下りながら、遠く垜小屋を見れば、的が二つ出ていた。弓道場の玄関が開け放たれている。誰か先客がいる。
「おはようございます」
玄関の三和土で声を掛ければ、弓道着姿の彼女が振り返った。ひとつに束ねた黒髪が尾のように揺れる。
「おはよう、鳴海」
榊先輩が俺を見て、軽く目を見張った。
「朝から災難だったようだな」
「……どうして、わかるんですか」
「そんなの勘だよ」
あっさり当てる榊先輩も、怪異の続きなんじゃないかと思う。
未だに底が知れない。
「知りたいか?」
壁に立て掛けてあった弓を、榊先輩が手に取る。伸寸――普通のものより長い弓――は彼女の弓。
「何を、ですか」
「あれの正体」
昨日は、黒い嘴の白い大犬。
今日は、角を持つ金色のライオン。
あれは何か。
「狸だよ」
当然の如く言い切った榊先輩に、一瞬だけ理解のタイムラグが生じる。
「……狸、ですか」
それはよく聞く話だが、ちょっと待ってほしい。
本当に狸に化かされるのか。
「本当だよ。何なら当事者を呼び出してやろうか?」
榊先輩が弓で〈紫苑の森〉を示す。垜小屋の向こう、木が生い茂る空間が、ざわりと揺れた。
「いやっ、いいです、大丈夫です、遠慮します」
教わった呪文で難を逃れたから、もう穏便に済ませたい。いろいろ理解の範疇を越えている。
ビン、と榊先輩が弦を弾いた。凛とした音が弓道場内に響く。
「とりあえず無事で何より。良い経験になったな、鳴海」
「えぇ、まぁ、はい」
怪異の良い経験をしても、ちっとも嬉しくないが。
「……ところで、あの呪文。どんな意味があるんですか」
「そのままだと意味はない」
「は?」
効果があったのに。
般若心経並みに聞き取りづらい音だったのに。
意味がないなんて。
「どういう、ことですか?」
榊先輩と目が合う。
彼女が、にやりと嗤った。
「逆さ」
『坂』




