26 忘れ路(わすれじ)五
ーー忘れ路 四から続き。
白珠と一緒に野襤褸菊の繁みを抜ければ、拓けた場所に出た。
離れた場所に、気配が二つ。
慌てて隠れる。
梛の大木の影から覗き見る。
榊先輩ともう一人。
話し声が聞こえた。榊先輩にしては珍しい。目上の人へ敬語を使っていない。それほど親しい関係なのか。
向かい合う相手は、黒地の着物に黒線の縞袴を合わせ、白足袋に雪駄を履いていた。一見すれば、大社の弓道場にでも居そうな男だったが、顔を白い垂れ布で隠している。
あっさりと、その人が気づいた。
「よう」
聞き慣れた、それでいて違和感のある低い声。
垂れ布を透かして、視線がぶつかった。
身体の中を何かが電流のように走り抜ける。くらりと視界が揺れる。
榊先輩が振り返り、俺を見て舌打ちした。珍しくて、とても怖い。
「来るなと言ったぞ」
おい野襤褸菊、と榊先輩が呼べば、俺の足元で咲いていた黄色い花がぶるりと震えた。深々と頭を垂れる。野襤褸菊のせいではない。
「……すみません。白珠を逃がしました」
榊先輩が呆れたように目を眇めた。睨まれた白珠は、素知らぬ顔で彼女の足へ顔を擦りつけ、ごろごろと喉を鳴らす。
「相変わらずだなぁ」
その様子を見て、その人は朗らかに笑った。榊先輩が白珠の頭をぺしんと叩く。白珠は喜んでいる。
白珠が、急にその人へ飛びかかった。
「危ない!」
思わず叫ぶ。
「――よっと」
その人は飛びかかって来た白珠を、両腕で抱き止めた。一瞬で標準的な猫サイズになった白珠が、きょとんと金色の眼を瞬かせる。
「虎の姿で押しつぶそうたって、そうはいかないぞ」
にゃあ、と悔しそうに白珠が鳴いた。
戻れ、とその人が命じると、白珠は元の小筆に変化した。
「ほら」
元の姿になった白珠の小筆を、俺へと差し出す。
「あ、ありがとうございます」
小筆を受け取ると、その人の袖から香気がふわりと立ち上った。ほのかに甘くありつつも、肉桂のようにすっと鼻に抜ける香り。桜餅を思い起こさせる。
榊先輩がため息をつく。
「何だ、粋がって。……藤袴か」
仕方ないでしょう、とその人が肩をすくめる。
「気配を消したり、場を繋げたりするのに必要なんですから」
「そんなものに頼らずとも――」
何か思い当ったように、榊先輩が言葉を飲み込んだ。ものすごく微妙な顔をする。
「趣味が悪い」
「お蔭さまで」
嫌そうな榊先輩とは正反対に、その人は垂れ布の下で笑っている。
「何を〈ためらって〉いるんだ」
「あぁ、そっちの意味で取るんですね」
ふん、とつまらなそうに榊先輩が鼻を鳴らす。
「藤袴の花言葉はたくさんあるだろ」
「それなのに、的確に引いてくれるのは流石です」
「かわいくないぞ」
年上の男の人に、かわいくないは無いんじゃないかと思う。
「双方うるさい」
思考を読んだ榊先輩の声が尖る。
「そんなんじゃ、くれてやらんぞ」
いつの間にか、榊先輩の手に紫苑色のお守り袋があった。神弓の影を封じたものだ。
「――それは、困ります」
低く、はっきりとした声が大気を叩く。
榊先輩が纏う気配が変わる。
ぴりっと空気が張り詰める。
「繰り返し言うが。私はこれを渡したくない」
「それでも、必要なんです」
動じることなく、その人は榊先輩と正面から対峙する。
「使えるものは、使えるとしたら使う主義なんで」
は、と榊先輩が唇を歪めた。
「大層な主義だな。自分が扱えると思っているのか」
「はい」
悠然と、泰然と。怯えることなく、その人は彼女を見返す。
「今の俺なら。だから此処へ来ました」
榊先輩が唇を噛む。眉根を寄せる。
どう見ても、その表情は、泣きそうだ。
「大丈夫です」
力強く、その人が言う。
「大丈夫です」
「……何がだ。根拠のない自信なら、虎にでも喰われてしまえ」
ひどい、とその人が苦笑する。
「信じてくれないんですか」
「どうだかな」
「――何とかなりますよ」
その人は俺を見た。
白い垂れ布越しでも、はっきりと感じる強かな目。
「繰り返し言いますが。何とかなります。何とかします」
そうして、その人は朗らかに笑う。
「ちゃんと思い出したんですから」
裏表ない笑顔に胸が透く。
白い垂れ布で顔が見えなくても、わかる。
無条件に信じてしまいたくなる笑顔。
榊先輩が深く、長く、息を吐いた。
「……馬鹿者め」
そう詰る言葉とは裏腹に、浮かぶ表情は静かだ。
榊先輩が腕を伸ばす。その右手には紫苑色のお守り袋がある。
礼を言って、その人は大事そうに受け取った。柏手を打つように、両手を合わせると、紫苑色のお守り袋は何処かに消えた。
「それで。何を対価にする?」
榊先輩が胸の前で腕を組んだ。
「先払いは、しましたよ」
「全然足りない」
その人は困ったように、手で頭を掻いた。
「そう言うと思いました」
「なら、さっさと出せ」
「わかりました」
その人が胸の前でもう一度手を合わせ、柏手を打つ。びりびりと大気が震える。
合わせた右手を、鞘から刀を抜くように横へ払う。その手に二本の矢が握られていた。凛とした鷹の羽根の、竹の矢。
「何だ、四矢じゃないのか」
「がめついこと言わないでください。そう何本も作れません」
むくれたようにその人が言うと、榊先輩がけらけら笑った。
「まだまだだなぁ」
「精進します」
榊先輩が受け取った二本の矢の羽根を軽く撫で、振り向いた。
「持っていろ」
「俺がですが?」
「そう」
榊先輩の雪駄が、俺の影を踏み付けた。
矢の板付を下にして、地面に突き刺すように影の中へ沈めていく。矢が纏う鋭気のせいで、体の芯がぴりっと痺れる。動けない。
「……人を矢筒代わりにしないでください」
とぷん、と矢が完全に沈んだ。榊先輩が俺の影から足を退かす。小さな痺れは消えず、身の内にある。
「仕方ないだろ。『名にし負う』だ。親和性が高いのが悪い」
それは名付けた、じいちゃんに言ってほしい。俺は悪くない。
「お前が持っていたほうが、後々役に立つと思うぞ」
その人の声音に含まれる、謎のにやにや笑い。嫌な予感がする。
「何の予言ですか」
「さぁな」
はぐらかされた。
あぁそうだ、とその人が思い出す。
「鳩缶を使うコツだけどな。アレは、正確に物を思い描かなくても大丈夫だぞ。『これこれこういう感じのものを探しています。ありませんか』って謙虚に尋ねれば、それっぽいものを幾つか出してくれる」
「そうなんですか!」
知らなかった。
そのコツを黙っていたらしい当代書記係が肩をすくめる。
「数射れば中る精神、良くない」
「それはそれ、これはこれですよ。貴女のように、最初から鳩缶を使いこなせる人は稀少なんです」
ふん、と榊先輩が鼻を鳴らす。
「私に敵わない宣言か」
「はい」
榊先輩の挑発をさらりと流す。これが大人の余裕というやつか。
「だから、こうやって〈相談〉に来ているんです」
むう、と榊先輩が唸った。
「来れるようにまで、なったくせに」
「それは、まあ、仰せの通りに。でも……俺じゃ、これっきりでしょう」
その人は左手を見つめ、指を軽く握る。
「死ぬなよ」
その人も俺も驚いた。
榊先輩の強い口調、隠さないその真っ直ぐな言葉は、危険と紙一重。
〈紫苑の森〉は現と異なる領域。だから言葉――言霊には、ことさら神経を使っているはずなのに。榊先輩は堂々と口にした。
「必ず帰って来い。戻って来い。忘れるな。私は、お前を死なせるために力を貸したわけじゃない」
忘れるな。
そう繰り返す、榊先輩の漆黒の瞳に凛とした光が宿っている。
「――はい」
その人は、大きく頷いた。
「約束します」
目に見えない何かが、結ばれた気がした。
ざあっと突風が吹く。
「名残惜しいですが……」
野草たちが打ち震え、葉を裏返す。〈紫苑の森〉の樹々がざわめく。藤袴の匂いが一瞬だけ濃くなる。何処かで、何処かが繋がった。
「いくのか」
「はい」
榊先輩が何かを言いかけ、けれども口を噤んだ。俯いて、沈黙を選んだ。風が鳴る。草葉が揺れる。
囁くように、その人が言う。
「……逢えて、良かったです」
「そうか。……そうだな」
ゆっくりと、榊先輩が瞬きをする。漆黒の、冴えた眼差し。
その人が頭を下げた。ぴんと伸びた背筋、見事な直角に腰を折る、最敬礼。
その姿が、不意に立ち消えた。
ばさりと風を生む羽音が鼓膜を震わせる。
一羽の鷹が、天へと翔けていく。
榊先輩が踵を返した。
「戻るぞ」
野襤褸菊、と榊先輩が呟けば、黄色い花が二列に並び、小道となる。さっさと歩き出す彼女の背中に続く。一つに結った黒髪が、尻尾のようにひょこひょこ揺れている。
「あの……」
「やだ」
前を見たまま、榊先輩が拒絶した。
「言い付けを守らなかったから、教えてやらない」
その通りだが、まだ何も言ってない。
「聞かなくてもわかる」
――あの人は誰か。
「教えてやらない」
榊先輩の声は静かだ。
「藤袴を使うやつに、誰が言うものか」
唐突に話が飛躍する。
「……ちょっと待ってください。何のことですか」
「高い香気は気配を隠す。藤袴なんて、うってつけだろ」
ちら、と榊先輩が俺を見た。そう言われれば。
弓道着の袖を顔に近づけて嗅ぐ。甘みのある清涼香が染みついている。
「白珠に、藤袴の原で押し潰されました」
榊先輩の目が丸くなった。
「ああ……それでか。そうか、白珠め」
がうー、と白珠が勝手に小筆から転じた。機嫌良く走っていく。
「お前、次代に甘すぎるぞ」
ぺしんと榊先輩が白珠の頭を叩く。ごろごろと喉を鳴らし、白珠は榊先輩の袴に顔を擦りつける。
「まったくもって、甘やかされている気はしませんが」
むしろ、懐きまくっているのは榊先輩のほうだ。
「それはそれ。これはこれ」
榊先輩が言う。意趣返しだ。
やっぱり、まだまだ敵わない。
〈紫苑の森〉を抜けて、垜小屋の裏に出た。
白珠が一直線に駆け出す。弓道場の縁でまどろんでいた黒満が頭を上げた。白珠と顔を擦り合わせる。
小筆と硯の付喪神の頭を撫で、榊先輩が縁から弓道場へ上がる。本当はいけない距離の短縮。
流石にもう決まり事を破る気力は無いので、彼女の雪駄を拾い、玄関まで回る。自分の脱いだ雪駄と一緒に靴箱に仕舞う。
「真面目―」
射位に立つ榊先輩の、からかうような軽い声。その一方で、彼女の目も表情も笑ってはいない。機嫌は悪くないが、思うところがあるらしい。
「……すみませんでした」
頭を下げれば、榊先輩の纏う気配が変わる。ぴんと道場内の空気が張り詰める。
「何故、謝る」
「いや、えっと、言い付けを守らなかったから、です」
「それだけか」
それだけ?
意味がわからず、顔を上げる。
植物図鑑を投げつけられた。
新書サイズの図鑑は肩に当たり、ばさりと床へ落ちる。その音に驚いたのか、白珠と黒満の姿が消えた。床の上で中途半端に開かれた頁は――藤袴。
花言葉は〈ためらい〉、〈遅れ〉、〈優しい思い出〉、〈あの日のことを思い出す〉。
榊先輩の暴挙と、肩と連動する胸の痛みと、その言葉たちに息ができない。
「忘れろよ、鳴海」
凛と、冷めた声が鼓膜を打つ。
「今日、見聞きしたもの、すべて。忘れろ」
「どうしてですか」
「どうしてもだ」
一方的に榊先輩が命じる。忘れろ、と。
「繰り返すごとに、確実になっていく。変えられなくなっていく。嫌なんだ」
意味がわからない。
「何を繰り返すんですか」
「お前は知らなくていい」
意味がわからない。
今までの中で、最も理不尽だ。ふつふつと反抗心が湧き起こる。
「嫌だって言ったら――」
「駄目だ」
「それなら、ちゃんと理由を教えてください」
「できない」
「何でですか!」
「理が一つ、崩れる」
反論に詰まった。
理。
それは無数にあるもの。
一つぐらい崩してしまっても――衝動的にそう思うが。
榊先輩の目を見たら、何も言えなくなった。
「頼む」
漆黒の冴えた眼差し。俺を透して、遠く、かなしそうに、何かを視ている。
「そうじゃないと――」
藤袴の香りが蘇った気がした。
「わかりました」
忘れようと決めた。榊先輩を悲しませたくはない。
ごめん、と謝る彼女へ首を振ってみせる。忘れることが、俺にとっても最善なのだろう。
「でも……」
記憶を沈める前に、最後になぞる。
「格好良い人でしたね」
一瞬の沈黙。
ぶは、と榊先輩が噴き出した。
目尻に涙を溜めて、肩を震わせている。腹を抱え、盛大に笑っている。
「何ですか」
笑われるほうとしては、面白くない。
「いやっ……鳴海はやっぱり、鳴海だな」
意味がわからない。
『忘れ路』




