25 忘れ路(わすれじ)四
ーー忘れ路 三より続き。
枝葉を茂らせた樹々の下、細かい淡紫色が風に揺れている。
藤袴だ。
一メートルぐらいの草丈の藤袴が、見渡す限り群生していた。よくよく見れば、小さな頭花が扇形に束なって咲いている。花の香りはしない。
「名前は知っていたけど、見るのは初めてだ……」
「左様ですか?」
前に立つ野襤褸菊が振り返った。
「源氏物語か、万葉集か。古典か何かで、やった気がする」
秋の七草のひとつ。曖昧な記憶を捲る。
「……『萩の花 尾花 葛花 なでしこの花 をみなへし 又藤袴 あさがほの花』」
そう呟けば、藤袴の中に、先が黒の、白い尾がひょこりと現れた。
「白珠!」
がう、と白珠が顔を覗かせる。藤袴の中に伏せて隠れていたらしい。
わさわさっと藤袴をかき分け、駆け寄って来る。素直に走って来る。一直線に駆けて来る。全力疾走。ちょっと待て。
野襤褸菊が顔を引き攣らせたのを見た。その姿が一瞬にして消える。
白珠が野襤褸菊の黄色い花の手前で踏み切った。兎の如く見事な跳躍。
逃げる暇は、なかった。
「ぐえっ」
逞しい前脚に胸を圧迫され、潰れた蛙のような声が漏れる。踏ん張れず、背中を地面に打ち付けた。息が詰まる。
藤袴の群生へ倒れ込んだせいか、背中の痛みはいつもより軽かった。が、痛いものは痛い。そして重い。
「……白珠、どけ」
視界が白珠の顔で埋め尽くされている。白い虎を至近距離で見ると、流石にちょっと命の危険を感じる。俺の胸を押さえる前脚が、何故か爪を立てているせいもある。
「……重いぞ」
手で白珠の頭を押し退けようとしたが、動かない。
「……何だよ」
金色の眼がじー、と観察している。重い。
「……太ったか?」
白珠の頭突きを喰らった。
額の鈍い痛みに体をよじれば、胸の重圧がなくなった。白珠が通り過ぎる。
「……て、おい。待て!」
慌てて身を起こす。ぴんと伸びた白珠の尻尾が、藤袴の海へと消えていく。立ち上がり見渡しても、白珠の姿はない。
ただ、遠くでわさわさと、藤袴が動いている。
「白珠!」
名を呼んでも、止まりはしない。
「……捕まえたら、説教してやる」
藤袴の群生をかき分けて、後を追う。
弓道着から微かな甘み、桜餅のような匂いがする。
「やっぱり、来たのか」
「はい」
「来るなと言ったぞ」
「言いましたね。……それ、此処にも掛るんですか。遠いですよ」
「知るか。諸々の理を、すっ飛ばしやがったヤツが言うな」
「しょうがないでしょう、切羽詰まっているんですから」
「そうならないように出来なかったのか」
「そうならないように出来ませんでした。一応、努力したんですけど」
「未熟者め」
「まだまだです」
「反論しないのか」
「正論なので」
「何だ、つまらん」
「臍を曲げられると困るから、ご機嫌取りです」
「何でそれ、黙っていられなかった?」
「黙っていても読むけどな、ですか」
「…………。それで、何用だ」
「え、読まないんですか」
「読むまでもない」
「あぁ、そうですか。……そうですよね」
「このまま、叩き還してもいいんだぞ」
「すみませんごめんなさいやめてください。弓をいただくまでは、還れません」
「嫌だ。渡したくない」
「言うと思いました。でも、いただかないと。困ります」
「勝手に困ってろ」
「ひどい」
白珠を見失った。
藤袴の草叢は動かない。辺りを見渡せば、随分と〈紫苑の森〉の奥まで来たようだ。
普段なら、グランドほどの広さ。けれども、本当の〈紫苑の森〉は果てしない。まだ遭遇してはいないが、聞くところによると、鬼神まで居るらしい。個人的には、あまり奥へと入りたくない。今は何処かに榊先輩も居るし。
「野襤褸菊」
「はい」
名を呼べば、野襤褸菊が姿を現した。
「白珠は、何処に居る?」
「この上です」
指差す樹を見上げると、太い枝の上に白虎が居た。きらりと光る、猛獣の眼。
やばい、と思った瞬間には、白珠が跳んだ。
べしゃり、と憐れ野襤褸菊が押し倒される。姿が消え、代わりに黄色い花が宙に舞った。
「がうっ」
「どうしてお前はそんなに満足そうな顔をするんだ!」
腕を伸ばすが、紙一重で逃げられた。
二メートル先で白珠の尻尾が揺れている。ふん、と白珠が鼻を鳴らした。
俺も白珠も走り出す。
お待ちください、と声が聞こえた気がしたが。
「それは白珠に言え!」
走る、走る、走る。
藤袴を通り抜け、樹々を避け、岩を飛び越え、蔦を潜る。
〈紫苑の森〉は広い。果てがない。
いい加減、息が上がり始めた。白珠は足を止めない。この野郎。いつまでも、追いかけっこはしていられない。
走りながら丹田に気を溜め、命じる。
「止まれ!」
びたりと白珠の体が硬直した。その縛めに胸が冷える。が、勢い余って白珠へぶつかった。
「……痛って」
ぐるる、と白珠が唸る。不満げだ。すまなかった。
「捕まえたぞ。戻るぞ」
首の毛を手で掴んでやると、白珠が顔を顰める。袴を噛んで、ぐいぐいと引っ張る。
「何だよ。何かあるのか」
白珠は蓬の繁みに入っていく。キン、と耳鳴りがした。立ち止まれば、耳鳴りはすぐに治まる。白珠が鳴き、先へと促す。
引っ張られる。
白珠ではなく、何かに引っ張られる。見えないものに引っ張られる。
見えないが、確かにある。
蓬の繁みの向こう。
近くて遠い。
細くて強い。
何か。
白珠が走り出した。
その後を追う。
唐突に、野襤褸菊の繁みが現れた。
黄色い筒状花、切れ込みのある濃緑、ところどころ赤紫の葉が、立ち塞がるように生い茂っている。
――お待ちください。
思わず足を止めたが、白珠は容赦なく突っ込んだ。
前脚で野襤褸菊を押し倒していく。抗議するように、野襤褸菊が白珠の顔を分厚い葉で叩くが、白珠は鼻を鳴らすだけだった。痛くもかゆくもないらしい。
「待て、白珠」
声を掛ければ、立ち止まった白珠が振り返る。がう、と鳴く。早くしろ、と言う。
「この先に、何が在るっていうんだ」
引っ張られる感覚は消えない。それが何なのか、わからない。
でも、たぶん。きっと。
榊先輩が〈紫苑の森〉に入ることを禁じた、その理由である気がする。
白珠がじっと見つめている。俺が動かないでいると、金色の眼を細めて、歩き出してしまった。
その背中を、追えない。
本当は知りたい。
感覚の先、何が在るかを。
本当は知りたい。
何故、来るなと言ったのかを。
知りたい。
足元で、野襤褸菊が咲いている。
知りたい。
すうっと静かな風が吹いた。
弓道着から甘く、それでいて涼やかな香りが立つ。押し潰した藤袴の匂いが、一瞬だけ細い糸となる。
ぴんと張られた白い糸は、野襤褸菊の繁みへと続いていた。白珠がその先へと歩いていく。
瞬きをすると、糸は消えた。白珠は躊躇うことなく進む。
白珠を捕まえないと。
そう思えば、一歩、足が前に出た。
――来るな。
耳元で榊先輩の声が蘇る。足が止まる。
白珠の姿が小さくなっていく。捕まえないと。
知りたい。
往きたい。
彼女が何故、遠ざけたいのかは知らない。たぶん、きっと、ちゃんと理由がある。
でもそれは、俺の理由にはならない。
胸に微かな痛み。罪悪感を覚えるが、それさえも強烈に塗り潰す、知りたいという飢餓感。
白珠が振り返った。がう、と鳴く。
その背中を――追った。
ーー忘れ路 五〈了〉へ続く。




