24 忘れ路(わすれじ)三
ーー忘れ路 二から続き。
床へ飛んだはずの血が消えていた。
足袋で擦ったか、と足の裏を見るが、赫いシミはない。
何となく気になるので、この辺りと思う範囲を水拭きした。湿った床板が、仄かに甘い木の匂いを発する。床板の節目が黒々てらりと光る。
外の水場でぞうきんを洗う。ついでに、水差しへ水を汲む。
道場に戻って、文机を引っ張り出し、その上に置く。あとは小筆と、硯と、墨と、冊子。
ことり、と鳩缶が音を立てる。
しゃがみ込んで蓋を開ければ、小筆と硯と使いさしの墨が缶の底にあった。それらを文机へ並べる。棚から冊子を取り出す。
「えーと」
頁を捲り、真新しい場所を探す。探すのに手間取っていたら、小筆が白虎の姿に転じた。
俺を一瞥して、駆け出す。
「……ちょっと待て、白珠!」
捕まえようと伸ばした腕を、するりとかわす。ひゃっほう、と声が聞こえてきそうなほど機嫌良く、矢道を駆ける。半ば辺りで立ち止まり、こちらを振り返った。先端だけ黒い尾を、ゆらゆらと揺らす。
「よし、わかった。其処を動くなよ」
がう、と白珠が返事をした。俺を見ている。
急いで靴箱から雪駄を取り、弓道場の縁に立つ。日の当たる大後の場所に、いつの間にやら黒虎が丸くなっていた。
文机の上にあった硯がない。
「黒満。お前もか」
なうん、と黒満が鳴く。眠そうに、面倒くさそうに、銀色の眼を細めた。黒満はいい。基本、動かない。ごろごろしているだけだ。
問題は白珠だ。
雪駄を履いて矢道に立てば、だっと白珠が逃げ出した。
「お前、其処に居ろって言っただろ!」
「がうっ」
どうして毎回、脱走するのか。小筆の付喪神は、走る走る。その後を追う。硯の黒満のように、大人しくしてくれない。筆が走る、と言うからか。そうなのか。勘弁してくれ。
白珠は垜小屋の裏へ回ると、あっという間に〈紫苑の森〉へ駆け込んだ。
「おい……」
本当に勘弁してくれ。今日は〈紫苑の森〉で追いかけっこはできない。
だからと言って、逃げ出した白珠を放置するのは気が引ける。勝手に満足すれば帰ってくるだろうが、悪戯好きの白珠のことだ。何をしでかすか、わからない。
「うーん」
熟考、六十秒。
――榊先輩に気づかれない内に戻ってくれば、いいか。
ぽん、と頭の中で解が浮かぶ。
書記係の小筆を逃がしたことのほうが、まずい気がする。そんな気がする。
そう結論付けて、足を一歩踏み出せば。
「お待ちください」
茶色い髪を引っ詰めた、細目の男が現れた。相変わらず、ぼろぼろの着物と袴を着ている。
「野襤褸菊」
〈紫苑の森〉を背に、立ち塞がるような位置取り。案内に来たのではないことは一目でわかった。
「当代に言われたのか」
「はい」
野草生い茂る垜小屋の裏、手前といえども〈紫苑の森〉の領域。迂闊に人の名を呼べない。何かが聞いているかもしれないから、だそうだ。何かって何だ、と問い質したいが、それはまた別の話。
「来てほしくないなら、入口を閉じればいいだろ」
「それでも矢の君なら、開けてしまわれます」
「いや、無理だろ」
まだまだ、榊先輩には敵わない。
野襤褸菊が首を横に振った。
「この森より強い〈結び〉があるのです」
そんなものがあるのか。だから榊先輩は、入るなと言ったのか。
ふと、妙案を思いつく。
「じゃあ、俺の代わりに白珠を捕まえてくれ」
途端に野襤褸菊の口がへの字になった。
「いいだろ。それなら俺が〈紫苑の森〉に入る必要はなくなる」
なっ、と笑顔で駄目押ししてやる。
「……無理難題を仰らないでくださいませ」
「何だ、嫌なのか?」
「そういう、わけでは……」
歯切れの悪い野襤褸菊の心情は、実はわかる。
白珠は、ひとに飛び掛かるのが好きだ。
遊んでいるつもりだろうが、飛び掛かられたほうは、立派な虎を受け止められるはずもなく地面へダイブ。べしゃり、と無残に押し倒される。俺も野襤褸菊も幾度となく経験済みだ。
踏圧に耐性がある野草といえども、野襤褸菊も白珠に押し潰されるのは、御免こうむりたいだろう。
「悪い。冗談だ」
あからさまに、野襤褸菊がほっとした表情を浮かべた。そんなに嫌か。
「なら、白珠の元へ、当代には気付かれないように案内してくれ。白珠を捕まえたら、さっさと戻る。どうだろう?」
両手を合わせ、拝むように頼むと、野襤褸菊の細目が大きくなった。
「矢の君は……いつも頼みますね」
ひとに頼み事をするのは、よくあることだろう。俺が頼み過ぎということか。
「いえ、新鮮で」
「どういう意味だ?」
「命じないのですか」
頬を叩かれた気がした。
命じる。
それは強制的なもの。
「……必要なときには、もしかしたら、するかもしれない。でも、それは、好きじゃない」
じっと野襤褸菊が見つめている。
「俺とお前と。どちらが上か、ということはないだろ。俺は、対等でいたい」
人も、野草も、動物も、道具も、怪異も。
それぞれの中で、上下関係はあるだろう。けれど、あるとしたら、その種族の輪の中でだ。余所の領域にまで、輪の中のルールを押しつけるのは、気分が良くない。
野襤褸菊が、ひっそりと微笑んだ。
「……矢の君らしいですね」
「そうか?」
甘ったれてんじゃない、と誰かには言われそうだが。
野襤褸菊が片足を引いた。〈紫苑の森〉へ体を向ける。
「参りましょう」
「……良いのか」
自分で頼んでおいて気が引けるが、野襤褸菊は頷いた。
「白珠は藤袴の原にいます。其処までなら、案内できます」
「わかった。よろしく頼む」
野襤褸菊が腕を横に振る。古びた濃緑の着物の袖が風を呼ぶ。
垜小屋の裏の野草たちが、一斉に葉を裏返した。
ーー忘れ路 四へ続く。




