表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
28/72

24 忘れ路(わすれじ)三


ーー忘れ路 二から続き。


 

 床へ飛んだはずの血が消えていた。


 足袋で()ったか、と足の裏を見るが、(あか)いシミはない。

 何となく気になるので、この辺りと思う範囲を水拭きした。湿った床板が、(ほの)かに甘い木の匂いを発する。床板の節目が黒々てらりと光る。


 外の水場でぞうきんを洗う。ついでに、水差しへ水を汲む。

 道場に戻って、文机を引っ張り出し、その上に置く。あとは小筆と、(すずり)と、墨と、冊子。

 ことり、と鳩缶が音を立てる。


 しゃがみ込んで蓋を開ければ、小筆と硯と使いさしの墨が缶の底にあった。それらを文机へ並べる。棚から冊子を取り出す。


「えーと」

 頁を(めく)り、真新しい場所を探す。探すのに手間取っていたら、小筆が白虎の姿に転じた。

 俺を一瞥(いちべつ)して、駆け出す。


「……ちょっと待て、白珠(しらたま)!」


 捕まえようと伸ばした腕を、するりとかわす。ひゃっほう、と声が聞こえてきそうなほど機嫌良く、矢道を駆ける。半ば辺りで立ち止まり、こちらを振り返った。先端だけ黒い尾を、ゆらゆらと揺らす。


「よし、わかった。其処を動くなよ」

 がう、と白珠が返事をした。俺を見ている。


 急いで靴箱から雪駄を取り、弓道場の縁に立つ。日の当たる大後(おち)の場所に、いつの間にやら黒虎が丸くなっていた。

 文机の上にあった硯がない。


黒満(くろみつ)。お前もか」

 なうん、と黒満が鳴く。眠そうに、面倒くさそうに、銀色の眼を細めた。黒満はいい。基本、動かない。ごろごろしているだけだ。

 問題は白珠だ。


 雪駄を履いて矢道に立てば、だっと白珠が逃げ出した。

「お前、其処に居ろって言っただろ!」

「がうっ」

 どうして毎回、脱走するのか。小筆の付喪神(つくもがみ)は、走る走る。その後を追う。硯の黒満のように、大人しくしてくれない。筆が走る、と言うからか。そうなのか。勘弁してくれ。


 白珠は垜小屋(あづちごや)の裏へ回ると、あっという間に〈紫苑の森〉へ駆け込んだ。

「おい……」

 本当に勘弁してくれ。今日は〈紫苑の森〉で追いかけっこはできない。


 だからと言って、逃げ出した白珠を放置するのは気が引ける。勝手に満足すれば帰ってくるだろうが、悪戯好きの白珠のことだ。何をしでかすか、わからない。


「うーん」

 熟考、六十秒。

 ――榊先輩に気づかれない内に戻ってくれば、いいか。

 ぽん、と頭の中で(かい)が浮かぶ。

 書記係の小筆を逃がしたことのほうが、まずい気がする。そんな気がする。

 そう結論付けて、足を一歩踏み出せば。


「お待ちください」

 茶色い髪を引っ詰めた、細目の男が現れた。相変わらず、ぼろぼろの着物と袴を着ている。


野襤褸菊(のぼろぎく)

 〈紫苑の森〉を背に、立ち塞がるような位置取り。案内に来たのではないことは一目でわかった。


「当代に言われたのか」

「はい」


 野草生い茂る垜小屋の裏、手前といえども〈紫苑の森〉の領域。迂闊(うかつ)に人の名を呼べない。何かが聞いているかもしれないから、だそうだ。何かって何だ、と問い(ただ)したいが、それはまた別の話。


「来てほしくないなら、入口を閉じればいいだろ」

「それでも矢の君なら、開けてしまわれます」

「いや、無理だろ」

 まだまだ、榊先輩には敵わない。

 野襤褸菊が首を横に振った。


「この森より強い〈結び〉があるのです」

 そんなものがあるのか。だから榊先輩は、入るなと言ったのか。

 ふと、妙案を思いつく。


「じゃあ、俺の代わりに白珠を捕まえてくれ」

 途端に野襤褸菊の口がへの字になった。

「いいだろ。それなら俺が〈紫苑の森〉に入る必要はなくなる」

 なっ、と笑顔で駄目押ししてやる。


「……無理難題を仰らないでくださいませ」

「何だ、嫌なのか?」

「そういう、わけでは……」

 歯切れの悪い野襤褸菊の心情は、実はわかる。


 白珠は、ひとに飛び掛かるのが好きだ。

 遊んでいるつもりだろうが、飛び掛かられたほうは、立派な虎を受け止められるはずもなく地面へダイブ。べしゃり、と無残に押し倒される。俺も野襤褸菊も幾度となく経験済みだ。


 踏圧に耐性がある野草といえども、野襤褸菊も白珠に押し潰されるのは、御免こうむりたいだろう。

「悪い。冗談だ」

 あからさまに、野襤褸菊がほっとした表情を浮かべた。そんなに嫌か。


「なら、白珠の元へ、当代には気付かれないように案内してくれ。白珠を捕まえたら、さっさと戻る。どうだろう?」

 両手を合わせ、拝むように頼むと、野襤褸菊の細目が大きくなった。


「矢の君は……いつも頼みますね」

 ひとに頼み事をするのは、よくあることだろう。俺が頼み過ぎということか。


「いえ、新鮮で」

「どういう意味だ?」

「命じないのですか」

 頬を叩かれた気がした。


 命じる。

 それは強制的なもの。


「……必要なときには、もしかしたら、するかもしれない。でも、それは、好きじゃない」

 じっと野襤褸菊が見つめている。

「俺とお前と。どちらが上か、ということはないだろ。俺は、対等でいたい」


 人も、野草も、動物も、道具も、怪異も。

 それぞれの中で、上下関係はあるだろう。けれど、あるとしたら、その種族の輪の中でだ。余所の領域にまで、輪の中のルールを押しつけるのは、気分が良くない。


 野襤褸菊が、ひっそりと微笑んだ。

「……矢の君らしいですね」

「そうか?」

 甘ったれてんじゃない、と誰かには言われそうだが。

 野襤褸菊が片足を引いた。〈紫苑の森〉へ体を向ける。

「参りましょう」

「……良いのか」

 自分で頼んでおいて気が引けるが、野襤褸菊は頷いた。


「白珠は藤袴の原にいます。其処までなら、案内(あない)できます」

「わかった。よろしく頼む」

 野襤褸菊が腕を横に振る。古びた濃緑の着物の袖が風を呼ぶ。

 垜小屋の裏の野草たちが、一斉に葉を裏返した。




ーー忘れ路 四へ続く。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ