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22 忘れ路(わすれじ)一


 冊子を開く。

 二年生の、藤袴(ふじばかま)が咲く頃だった。



 清澄な風が弓道場に吹き込む。

 土曜日の昼下がり。〈紫苑の森〉は静かだ。


 神棚を見やれば、神弓に付けられた紙垂(かみしで)がさやさやと鳴り、揺れている。視界の端には雲のない空。その青を切り裂くように、鳥影が走った。一羽の鷹が天高く舞う。


 畳の上、壁に背を預けて座ったまま、空を眺める。

 まだ日差しは眩しいが、それでも暑さは通り過ぎた。秋らしい涼やかな風が吹く。


 耳を澄ませば、砂利を踏む雪駄の足音が近づいて来る。数秒後に、弓道場の玄関の引き戸が開く。

 二人分の矢と矢拭き用の手ぬぐいを持ち、榊先輩が戻ってきた。


「矢取り、ありがとうございました」

 立ち上がり、矢と手ぬぐいを受け取る。

「うん」

 仏頂面の榊先輩が頷く。

 機嫌が悪いのではない。それはなんとなく、わかる。


「榊先輩」

「何?」

 弓道場に上がり、雪駄を靴箱に入れた彼女が振り向いた。


「何か、心配事でもあるんですか?」

「……何故、そう思う」

「弓の調子は悪くなさそうなのに、今日は矢がまとまってないからです」


 高い的中数はいつも通り。あっという間に、榊先輩が入った射位の的は穴だらけになる。

 けれども、(あた)る場所がまちまちだ。普段の榊先輩なら、矢所(やどころ)――矢が中る場所は的の中白(なかじろ)から十時の辺りに集中するはず。


「よく見てるな」

 榊先輩が指で右耳の裏を掻き、ため息をついた。

 珍しい。

「何が」

 榊先輩が眉を寄せる。


「いえ、その。榊先輩が、ため息をつくのが珍しくて」

 さらりと思考を読まれるのは、日常茶飯事だからいいとして。本当はよくないが、今はひとまず置いておく。


「書記係の案件ですか?」

 弓道とは違う、摩訶不思議な事象、現象、その他諸々。弓道場が〈紫苑の森〉に囲まれているせいか、いろいろなことが起こりやすい。その怪異とも呼べるその出来事を治め、代々伝わる冊子に書き残すのが書記係の役目だという。


「いや……個人的なこと、かな。たぶん」

 歯切れの悪い榊先輩の返答に、不安が募る。


「そのほうが心配です。何やったんですか」

「おいこら鳴海。どうして、何かやったが前提なんだ」

 榊先輩に睨まれた。


「え、違うんですか? じゃあ、これから?」

「あのなぁ。私がどれだけ――」

 はっとした様子で、榊先輩は口を噤んだ。鋭い眼差しを俺に向ける。


「な、なんですか」

「鳴海のくせに、生意気だ」


 榊先輩の顔に浮かんだ表情を見て、息が詰まった。

 それが隙になる。


 ばん、と榊先輩に背中を手で叩かれた。


 痛い。ひどい。理不尽。いつものように力加減は絶妙で、痛みはすぐに消える。

 けれども。


「榊先輩」

 横を通り抜けた彼女を呼び止める。


「何?」

 見上げる漆黒の目に、言葉が続かない。

「あ、いや……なんでもないです」

 どう表現したらいいのか、わからなかった。


 感じたまま言ってしまえば、きっと彼女を傷つける。


 ――どうして、泣きそうなんですか。


 声に出してしまえば、それが現実になる。

 無かったことにできなくなる。

 言葉は言霊。力が宿るもの。

 そう教えてくれた榊先輩は、小さく唇を歪めた。


「変なやつだな」

「すみません」

 ずっと手に持っていた矢を矢箱へ入れ、手ぬぐいは壁の棚に戻す。


 ぺちん、という音に振り向くと、背を向けた榊先輩が両手を頬に当てていた。自分で自分を叩いたらしい。


「っし」

 小さく気合いを入れた榊先輩が、道場の隅から先生用のパイプ椅子を持ち出す。神棚の下に置くと、今度は壁の棚、下段に仕舞われている黄色い缶を手にした。鳩の絵が描かれている蓋を開け、中を漁る。


「何をするんですか?」

「ちょっとな」

 榊先輩は白い懐紙(かいし)を一枚取り出し、口にくわえた。

 柏手を二つ、打ち鳴らす。


 途端に道場内の空気がぴんと張り詰めた。

 どうするのかと見守る。榊先輩は神棚の前へ立つと、最敬礼をした。見事な直角に腰を折る、手本のような美しい所作(しょさ)。吸気と共に体を起こした榊先輩が、神棚を見つめる。ふるり、と風もないのに紙垂が揺れた。


 榊先輩がパイプ椅子に乗る――慌てて駆け寄り、パイプ椅子を押さえた。座る部分に立つ榊先輩と目が合った。僅かに榊先輩が目を細める。頷いて彼女に応える。

 榊先輩が、注連縄のように神棚に祀られていた神弓を手に取った。


 ゆっくりとパイプ椅子から降りる。両手で胸より高い位置に捧げ持つ。そのまま、神棚へ再び最敬礼をした。


 初めて、神弓を間近で見る。


 白木造りの古い弓。長さは並寸。

 弦は張られておらず、ところどころに紙垂が付いている。ずっと神棚にあったから埃っぽいかと思いきや、常に手入れされているかのように綺麗だった。何故か、すっとする清涼香が漂う。


 慎重な手つきで、榊先輩が神弓を縦に持ち替える。弓手(ゆんで)で握りを持ち、右手(めて)を弓手の手首に添える。


 前方へ、神弓を振った。

 ざっ、と草を薙ぐような音で紙垂が鳴る。風が生まれた。


 右へ、左へ、後方へ。

 榊先輩が神弓を振る。紙垂が鳴り、風が巻き起こる。


 最後に神弓の下の端、本弭(もとはず)を板張りの床に打ちつけた。びりびりと窓硝子が慄く。風が渦を巻き、榊先輩の結った髪がばさばさと乱れる。

 榊先輩が目を眇めた。


 ふっと日が陰る。

 道場から見える矢道が一瞬にして闇に沈む。太陽が雲に隠れたのではない。天を仰ぎ見れば、冴え冴えと輝く弓張月。圧倒的な夜気に、キンと耳鳴りがする。痛い。耐え切れず手で耳を覆う。

皮膚へと、風がバチバチぶち当たる。鋭冷な夜気が突き刺さる。


 痛い。

 体の芯から震え、歯の根が噛み合わない。


 寒い。

 痛い。

 寒い。

 怖ろしい。

 湧き起こった感情に愕然(がくぜん)となった。


 榊先輩が両手で神弓の握りを持つ。

 板張りの床に映る神弓の影が、濃くはっきりとなる。白木の弓と、その黒い影。


 再び、榊先輩が神弓で床を鳴らす。

 荒れ狂う風が彼女の足元へ凝縮していく。夜空に架かる月が凛然とした光を放ち、明暗を分ける。


 榊先輩が右手を横へ振るう。

 びりり、と大気が震えた。


 (ゆがけ)を着けないその手には、一張りの黒い弓があった。


 無造作に、榊先輩は右手を放す。黒い弓が床に転がる――かと思いきや、その場に直立した。支えもないのに、どうして倒れないのか。意味がわからない。


 白木の神弓を両手で捧げ持つと、榊先輩はパイプ椅子に足を乗せた。ぎしりと軋む音に、はっとなる。手でパイプ椅子を支える。


 神棚へ神弓を戻した榊先輩がパイプ椅子から降りる。一礼。くわえていた懐紙を手に取った。いつの間にか風は収まり、夜は去っていた。昼下がりの青い空が見える。


「榊先輩……何やったんですか」

 いつも通りに戻った道場内に、異彩を放つ黒い弓がある。


「ああ、これ? 神弓の影」

 榊先輩が弓手で影を握る。輪郭が揺れて、するすると長くなる。並寸から伸寸になった。


「便利だろ」

「便利とか以前の問題です」

 神弓の影が放つ気に、肌が引き()れる。直感で、とんでもないものだとわかる。


「どうするんですか、それ」

「ちょっとな」


 はぐらかしているのか、誤魔化しているのか。

 教えてくれないのは、いつものことだった。






ーー忘れ路 二へ続く。


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