20 寒緋桜(かんひざくら)
冊子を開く。
一年生の、睦月の頃だった。
「おっ、あんなところに」
田村が声を上げた。
「見ろよ、鳴海。冬なのに桜が咲いてる」
〈紫苑の森〉の入り口に整備された小さな庭園。
東屋のさらに奥まった場所に、ひっそりと桜の樹があった。
若木なのか、ほっそりとしている。
それでも、細い枝に釣鐘状の紅色を咲かせている。基部で花弁がくっついた一重五花弁。葉はまだ無い。
「狂い咲きってやつ?」
ざくざくと地面に落ちる小枝と、溶けない霜柱を踏みながら、田村は桜に近づいて行く。俺もその後を追う。吐く息が白い。
「いや、これは寒緋桜。早咲きの、そういう品種」
「早咲きと言ったら、山桜じゃないのか」
きょろきょろと田村が樹の辺りを探すが、お決まりの樹木名を記したプレートは見つからない。
「山桜は花と葉が同時につく。この桜は違うだろ」
「へぇ。よく知ってんな」
田村に感心されたが、何のことは無い。
「山向こうだと、ちょうど咲いているんだよ。寒緋桜も山桜も」
三方を山に囲まれ、南側を海に面した地元。
海があるせいか暖かく、山があるせいか暖気が逃げない。そのため、他の街より春が早く来る。
「こっちにも寒緋桜ってあったんだな」
見慣れた濃い紅色が、凛と澄んだ空によく映える。木の根元には五花弁のまま、ばらけることなく落ちた寒緋桜の花が二つ三つ転がっていた。
「……ちょっと不気味だな」
田村が眉根を下げる。
「何が」
「花の色が、普通の桜より濃いだろ。なんか、それが血みたいで、怖い。一本だけで咲いているのも不気味だろ。ほら、よく言うじゃん。『桜の下には死体が埋まっている』って。色の濃い花を咲かせるのは、死体の血を吸い取ったからだって」
「そうか? その濃い紅色が綺麗だろ」
ソメイヨシノは色がぼやけている気がして、なんだか落ち着かない。数を揃えたソメイヨシノも圧巻だが、どちらかと言えば一本だけ、静かに見たい。
そう言うと、田村が盛大にため息をついた。
「鳴海の女の趣味がよくわかった」
「おい待て。何の話だ」
そうかそうか、と腕組みをして田村が勝手に頷く。面白そうに、にやにやと笑っている。俺は面白くない。
面白くないので、田村を残してさっさと戻る。
「置いて行くなよー」
「知るか」
庭園の池の辺りで田村が追いついた。まだ、にやついている。蹴り飛ばして氷が張る池に沈めてやろうかと思ったが、予鈴が鳴った。昼休みが終わる。
「やべ、次移動じゃん」
田村の言葉に時間割を思い出す。英語のリーディングだ。いつもなら教室だが、今日は何故か違う。
「視聴覚室だっけか」
呟いて、ふと嫌な予感がする。
中途半端にある五階の突当たり。一階の教室に寄り、教科書を取ってから五階に上がる――本鈴までに間に合うのか。
田村と顔を見合わせた。
同時に走り出す。
部活の前、着替えていた時だった。
「あ」
はらり、と小さいものが落ちた。
脱いだ制服の上着を壁のハンガーへ掛け、部室の床に屈み込む。濃い紅色した花弁を指で摘まむ。微かな違和感を覚えて、まじまじと見る。
「指でも切ったのか鳴海? 血が出ているぞ」
「違う、田村。寒緋桜の花弁だ」
見誤った田村へ、寒緋桜の花弁を手の平に乗せて示す。
「なんだ。びっくりさせるなよ」
「勝手に驚いたんだろ」
立ち上がって部室の窓を細く開ける。隙間から花弁を外へ放した。寒風に乗ってひらりと消えた。
「さーむーいー」
田村が口を尖らせる。
「悪い」
窓の隙間から、意地の悪い寒風がするりと入ってきてしまった。慌てて窓を閉めるも、嘲笑うかのように部室の気温を下げる。
ぶるり、と体が震え鳥肌が立つ。
部活が始まったのに榊先輩の姿が見えないな、と思ったら、黒板の名前のところにバツが付いていた。連絡調整の文字がなく、首を傾げる。今日は委員会もないはず。
「榊先輩はどうしたんですか?」
一立目に入る前に、外で素引きをしていた部長の北原先輩に訊ねた。北原先輩が忌々しげに呟く。
「……補講。英語だ」
今にも舌打ちが聞こえてきそうな北原先輩に、何も言えなくなる。榊先輩は英語が不得手、ということは知っていたが、まさか補講に引っ掛かるほどとは。
「常連だぞ」
ぼそりと付け加えられた情報に思わず天を仰ぐ。マジか。
「年明けの試験が良くなくてな。あれほど見てやったのに」
今度は本当に舌打ち。びくりと体が慄く。
滅多にしないが、北原先輩の舌打ちは本当に怖い。がたがたと足が震える。きっと寒さのせいではない。
「鳴海は試験、大丈夫だったんだろうな?」
眼鏡の奥、濃い茶色の目が光る。
「えっ、あっ、はい!」
心臓が縮み上がった。補講には引っ掛からなかったが、世界史が平均点以下です、なんて言えない。
「新人戦も近いが、勉強も疎かにするなよ」
文武両道の北原先輩の言葉が重い。
文系特進クラスで、弓道部部長で、生徒会長。弓道とはまた違った道を突き進む榊先輩の首根っこを掴み、勉強まで見ている。
田村曰く、やっぱりそれなりにモテる。でも彼女はいない。どうやら作らないらしい。そこが謎だと、田村は言う。
一立目のメンバーを呼ぶ声が聞こえた。北原先輩の名前のいくつか後に、俺も呼ばれる。
「行くぞ」
「はい」
北原先輩の後に続いて、道場の敷居を跨ぐ。
部活を終えて、電車に乗って、家へと帰る。
晩飯と風呂を済ませた今、このまま眠ることができたらどんなに幸せか。ベッドの誘惑に頭を振り、カバンから数学の教科書とノートを取り出す。椅子に座り、机に向かう。
せめて、明日の授業で当たりそうな場所だけは予習はしておこう。後は田村と力を合わせて何とかしよう。最終手段、進みが早い隣のクラスの松永を巻き込めばいい。そう心に決めて、ノートを開いた。
寒緋桜の花弁が一枚、挟まっていた。
――これは、どういうことだ。
ため息をついて、椅子の背もたれに寄り掛かる。
いつ、挟まったのか。まったく見当がつかない。外で数学のノートを開いた記憶は無い。
濃い紅色を指で摘まむ。血のように紅い。
鮮やかな色だが、ふと疑問に思う。寒緋桜ってこんな色だったか? 胸がどきりとする、艶やかな緋紅。何か、違和感がある。
――不気味だな。
不意に田村の言葉が脳裏に甦った。桜の下には死体が……そんなわけがない。
ごみ箱へ捨てるのは忍びないので、腕を伸ばして窓を開ける。指を離すと、寒緋桜の花弁はすぅっと夜闇に溶けていった。
「迂闊だぞ、鳴海」
朝練で顔を合わせるなり、榊先輩が言った。
「何のことですか」
「気づかないのか。鈍いやつめ」
鈍いも何も、意味がわからない。
珍しく榊先輩のほうが早く道場に来ていて、準備が整っていた。垜に的が二つ掛かっている。弓道着に黒いジャージの上着を羽織った榊先輩は、神棚の下で腕組みをして立っていた。玄関の三和土に居る俺を見下ろす。
「寒緋桜がお前に惚れているぞ」
耳を疑う。
「……マジですか」
マジマジ、と榊先輩が大きく頷く。
「意味が、わかりません」
「そういうことだ」
「いやいや、待ってください。勘弁してください。どういうことですか」
「物分かりの悪いやつだな。そういうことだよ」
ふん、と榊先輩が鼻を鳴らした。
「ええー……」
寒緋桜に、樹木に惚れられても困る。
「どうして俺なんですか」
「知るか。私に聞くな」
榊先輩にしては珍しく正論。だけど、今は突き離さないでほしい。
「大方、お前が何か言ったか、したんだろう」
記憶をたどる。そういえば、田村と寒緋桜を見つけた時に。
「言ったかもしれません……」
綺麗だ、と。
「でも、俺は何もしていませんよ」
「花弁に付き纏われたりは?」
榊先輩の勘の鋭さは恐ろしい。
「……されています」
「その花弁を燃やしたりしたか?」
「してないです。外へ返しましたけど」
馬鹿かお前、と榊先輩が目を眇める。
「おかしいとは思わなかったのか。寒緋桜は散る時、花ごと落ちるぞ」
はっとした。違和感の正体。
寒緋桜は花の基部で繋がっているため、花弁が散らない。五花弁のまま、地に落ちる。
榊先輩が告げる。
「寒緋桜が陽気を一人占めにして、〈紫苑の森〉が困っている。何とかして来い」
「何とかするって、どうすればいいんですか」
全く見当もつかない。
「この唐変木、鈍ちん、間抜け、馬鹿者、大真面目者」
榊先輩の悪口を甘んじて受ける。最後のは、耳慣れない貶し言葉だ。榊先輩の創作かもしれない。
「寒緋桜の好意を受け入れるつもりがあるのか」
「いや、ちょっと、それは」
情けなくて泣きそうになる。恋愛方面は苦手だ。どうしたらいいのか、わからない。
「なあなあの態度が一番悪いぞ」
「……ごもっとも」
じゃあ今すぐ行ってこい、と榊先輩が命じた。気のせいか、声音が厳しい。何だか、怒っている。
カバンを道場の框に置き制服のまま、来た道を戻る。斜面に埋め込まれただけの石階段を昇る。
ふと左右に植えられた白梅と蠟梅が目に入った。
来る時は気づかなかったが、白梅と蠟梅の花の色が何やらくすんで見えた。目の錯覚かと思って瞬きをするが、白梅の雪のような白さ、蠟梅の蕩けるような黄色は、今は無い。冬の冷気に凛と漂う香りも弱々しい。陽気が足りていないのだ。
石階段を昇り切り、庭園へと向かう。
風は無く、しんと静まり返っている。地面に落ちている枝と、霜柱をざくざくと踏みながら、池の傍を通り抜け、東屋の更に奥を目指す。入口といえども〈紫苑の森〉の領域。段々と大気が澄み、密度が濃くなっていくのが肌でわかる。
庭園の奥、空気が違った。一か所だけ目を惹くほど陽気が集まり、零れていた。
寒緋桜が佇んでいる。
俺が立ち止まると、寒緋桜は目を伏せたまま頭を下げた。同じぐらいの年頃の少女。緋紅の振り袖に、一重五花弁の桜が描かれていた。よくよく見れば、描かれた桜が動いている。風もないのに振り袖の中を舞っている。
思わず見惚れてしまう。
綺麗で、不思議なもの。
そうして困った。
綺麗なものを見ると、言葉が出ない。何か言わなければ、という気持ちだけ上滑りして、結局何も言えない。
寒緋桜は静かに佇んでいる。
「……その、気持ちは嬉しいけど」
寒緋桜は静かに佇んでいる。
「あの、軽い気持ちで言葉にした、俺も悪かったというか……」
寒緋桜は静かに佇んでいる。
「えっと、そんな意味はなかったというか……」
寒緋桜は静かに佇んでいる。
ビィン、ビィン、ビィン、と高く澄んだ弦音が響いた。
榊先輩だ。まさか祓う気か。寒緋桜が肩を震わせ、袖で顔を隠した。怯えている。
「待ってください!」
弓道場まで声が届くかわからないが、きっと榊先輩なら聞こえているはずだ。
「ちゃんと、伝えますから!」
寒緋桜がそろそろと袖から顔を覗かせた。黒の大きな瞳がじっと見つめている。助けを求める小動物のような円らな瞳。
居たたまれないとは、こういう気持ちか。
罪悪感が胸を重くする。気まずい。恋愛方面は本当に苦手なので、叶うことなら逃げ出したい。残念ながら逃げられない。
息を深く吸う。丹田に力を込める。
寒緋桜が見つめている。
「ごめん。気持ちは嬉しいけれど、応えられない」
大きな瞳が揺れた。
「でも」
これだけは、伝えたい。
「不気味に思ったりしない。怖くもない。君は綺麗だ」
ちりちりと、申し訳ない気持ちが胸を焼く。
寒緋桜が俯いた。
泣くのか。
ひやりとする。女子のちゃんとした慰め方なんて知らない。
姉ちゃんの場合なら、適当に話を聞いて適当に相槌を打っていれば勝手に立ち直るのに。頭の中が恐慌をきたす。マジか。どうしよう。泣きたくなってきた。
ゆっくりと寒緋桜が顔を上げた。大きな瞳と、目が合う。
ふんわりと、花が綻ぶように寒緋桜が微笑んだ。
息が止まる。
寒緋桜が頭を下げると、その姿が次第に薄れ、やがて静かに消えた。
弓道場へ戻れば、榊先輩が畳の上で文机を前に座っていた。道場内の冷たい空気がぴんと張り詰めている。靴を脱いで道場に上がる。神棚に挨拶し、名札をひっくり返す。
「行ってきました」
「お帰り」
声だけで榊先輩が労う。視線は手元に注がれている。
珍しく正座で、文机の上に植物図鑑を広げていた。
榊先輩の脇で、一台だけある電気スト―ブが点いており、その年期に相応しい頼りない橙色で冷気に対抗していた。天井が高い弓道場、さらに雨戸も開けられている。突き刺さるような朝の冷気が満ちている。
――違う。
頭の中で警鐘が鳴る。
肌を引き攣らせるような空気は、寒さのせいだけではない。ざわざわと項が粟立つ。
「榊先輩」
「何」
「どうしてそんなに、怒っているんですか……」
漆黒の鋭い目に睨まれた。
「怒っている? 私が?」
「……そんな気がします」
無意識なのか。
俺を見る榊先輩の表情は険しい。その威圧に空気がぴりぴりと張り詰めている。いつもと様子が違う。怖い。
つ、と榊先輩が視線を逸らした。
神棚の下、壁に掛る紫苑色の横断幕を見る。
平常心。
白抜きの文字が、冷気の中で凛と浮かび上がる。何かを辿っているような、思案しているような、榊先輩の横顔。
沈黙が長い。
「……怒ってなんかない」
深く、細く、榊先輩が息をついた。張り詰めていた空気が解ける。
「ちょっと考え過ぎていた。……悪かったな」
「いえ。すみません、生意気言いました」
榊先輩が小さく笑う。
「鳴海が寒緋桜と一緒に行ってしまうのは、やだなと思っていた」
「俺は何処にも行きませんよ」
いつもの榊先輩に戻って油断していた。時間差で、耳に届いた言葉の処理が完了する。
とんでもないことを言われた気がする。
「ちょ、ちょっと待っていください。俺が、寒緋桜と何処に行くんですか」
「〈紫苑の森〉へ。寒緋桜の好意を受け入れたら、なんやかんや引き摺りこまれ、人でなくなる。〈向こう〉側の存在になる」
さあっと血の気が引いた。
「最初に止めてくださいよ!」
「しょうがないだろ。恋色沙汰には不干渉なんだから。基本的には成立しない話だけど、まぁ鳴海なら……本気出せば、何とかなるかもしれないし」
「何とかなりませんよ……」
脱力して、しゃがみ込んだ。床板に黒い節目を見つける。憂さ晴らしに指で擦る。
「人でないものと想いを遂げるは容易じゃない。覚悟がないなら、やめておけ」
榊先輩の静かな声。
ゆるゆると顔を上げると、文机の上の植物図鑑が目に入った。寒緋桜のページが開かれている。
花言葉は〈あなたに微笑む〉。
『寒緋桜』




