19 金魚
冊子を開く。
二年生の、暑さが残る夕方だった。
ヒグラシが鳴いている。
自主練の片付けに弓道場の外へ出れば、むわっとする熱気が体を包む。
立秋を過ぎて、処暑を過ぎて、白露も過ぎているのに、一向に涼しくなる気配がない。少しでも陽があるうちは、夏がしつこく残っている。
それでも、熱を帯びた大気を縫うように、時折すっと涼風が吹き抜けることがある。頭上に覆い被さる、枝葉の隙間から見える空は薄青で、刷毛で掃いた雲が高く棚引く。
巻雲だ。
雲の基本形のひとつ、筋雲は俗称。上空では風が強いようで、薄く長く広がっている。傾き始めた太陽に照らされて、オレンジ色に染まり始めていた。
夕方の空を見つつ、矢道を歩く。ふらふら立ち入っても、今は射殺される心配はない。榊先輩が箒で弓道場の床を掃く音が聞こえる。
榊先輩も暇があれば空を見上げている。彼女曰く、人を読むのには、まず天を読めなければいけないらしい。よくわからないが、当代書記係の言うことなら、その弟子としては真似するしかない。
上ばかり見ていたら、地面の窪みに足を取られた。
「わっ、と、とぉ」
二、三歩変なステップを踏んでしまう。妙な声が出て恥ずかしい。恐る恐る、後ろを振り返る。ばっちり榊先輩と目が合った。にやにやと笑っている。
「何だ、鳴海。猫が空でも飛んでいたのか」
「何でもないですっ」
恥ずかしさに反射的に答える。数秒後、ふと正気に戻った。
「……猫って、空を飛びませんよね」
「個体による」
そんなわけがない。
「飛べるヤツもいるぞ。シャーッて唸りながら、会議に向かうヤツ見たことないか」
「見たことも聞いたこともないです。会議って何ですか」
「猫会議。なかなか面白い」
参加したことがあるのだろうか。
「たまに、そこを会場として貸している。勿論、ゴミは残さずお持ち帰り」
榊先輩が箒の先で俺がいる矢道を示した。
「マジですか」
「マジマジ。北原も知っているぞ」
弓道部部長が許可済みとは。
「単に貸さない理由がないから、ですか」
「そう。落しものがなければ別にいいって」
そういえば〈紫苑の森〉の端、緑溢れる弓道場は、野生動物が棲んでいるわりに糞害がない。
「そういうものですか」
「そういうものだよ」
世の中には、見えない境界線がうまく引かれているようだ。
カナカナカナカナ……と、ヒグラシが鳴いている。
垜小屋に辿り着き、使った二つの的を取り外す。的紙の穴あき具合からして、そろそろ二つとも張り替え時だ。的を看的小屋に片付け、竹箒を手にする。垜の端から土を掃き上げ、矢が刺さった穴を埋める。
すいっと、目の前を金魚が横切った。
軽やかに泳ぐ、魚らしい形の魚。
和金だ。
小指ほどの大きさの一匹が、大後から大前の方へ泳いでいく。竹箒を持つ手を止めて、その尾を見送る。
「嘘だよな」
そう呟いてみたが、西側の水道の辺りにも朱色のが三、四匹泳いでいた。嘘ではない。現実だ。現実だけれども。
何がどうなったら、金魚が宙を泳ぐのか。
意味がわからない。
ヒグラシが鳴いている。
雪駄の足元をひやりとする冷風が走り抜けた。
そのまま吹き上がり、看的小屋の横に立つ楓の青葉を鳴らす。さやさやとした幽き葉音に、ヒグラシの声が重なる。金魚は泳いでいる。
空を仰げば、茜色に照り映える巻雲。
思えば、そろそろ黄昏時だ。こっちとあっちの境が曖昧になる時間帯。待ち望んでいたかのように、垜小屋の裏にある〈紫苑の森〉がざわめく気配がする。
中断していた竹箒の手を動かす。とりあえず、金魚は危険な感じがしない。すいすい宙を泳ぎ回っているだけだ。しばらく放置することに決めた。
垜の穴埋めを終えて、竹箒を仕舞う。水道に近づくと、五、六匹の金魚がぱっと逃げた。巻かれていたホースを伸ばす。
「水を撒くぞ」
予告してから蛇口を捻る。駆け足で垜の前に行き、水を撒く。垜のてっぺんから地面までまんべんなく湿らせる。暗茶色になった表面から土の匂いが立つ。
水を止め、ホースを巻き、七、八匹の金魚に避けられながら看的小屋へ向かう。コテのような木製の土抑えで表面を均す。大社の弓道場みたいに、ぴしっとした土壁の如く仕上げてみたいが、思うだけで実行には移せない。そんな左官のような技術はない。
ここの弓道は変わっていると榊先輩は言うが、他の高校の弓道部はどのように整備しているのだろうか。つらつら考えながら、葦簀を掛けて終わる。
弓道場に戻ると、榊先輩が蚊取り線香を折っていた。
大後と大前に置いてあった二つの平皿の中で、折られて短くなった蚊取り線香が香る。榊先輩が折ると、何故かきっかり五分後に燃え尽きる。
「おー、お帰り」
縁に胡坐をかいて座った榊先輩が労う。弓道着で胡坐。女子なのだからせめて横座りにしてほしいと言っているが、見事なまでに聞き流される。
「別にいいだろ。部活中じゃないし」
思わず遠い目になってしまう。
雨戸は仕舞わずに開け放したままで、矢道に生えるオオバコやエノコログサ、オヒシバ、カゼクサが風に揺れているのが見えた。ヒグラシが鳴いている。
「垜小屋の辺りで金魚が泳いでいたんですが。心当たりありますか」
縁に立って、座っている榊先輩を見下ろす。漆黒の目が瞬き、垜小屋へと視線を投げた。
「あー、そうか。もうそんな時期か」
思い当る節があるのか。榊先輩は頷き、勝手にひとりで納得している。
「何か、やったんですか」
「私が?」
きょとんとした顔で、榊先輩が首を横に振った。
「何もやってないよ」
本当だろうか。
「本当だよ。失礼なやつだな」
榊先輩が口を尖らせる。
「私だって何でもかんでもこんでも、できるわけじゃないんだぞ」
「説得力がありません」
あれも、それも、これもと指を折って数えると、榊先輩が苦虫を潰したように顔を顰めた。
「細かい。細かい男は嫌われるぞ、鳴海」
「記憶力は書記係の武器だって言ってたじゃないですか」
「忘れた」
嘘だ。
その証拠にふん、と鼻を鳴らしている。
「時に、鳴海よ」
「……何ですか」
「知っているか。金魚の鱗は透明なんだぞ」
「は?」
どう見ても朱色だろう。
意味がわからない。
「鱗じゃなくて、実は皮膚に色が付いているんだ。それで、鱗に光を反射する虹色素細胞があって、これが光を反射して艶のある朱色、金魚の色になる」
榊先輩は歴とした理系だが、どこから知識を得ているのだろう。絶対に授業では教わらないし、教科書や資料集にも載っていない。好奇心旺盛で、ジャンルが幅広い。雲の種類を教えてくれたのも榊先輩だ。
そうして、困った癖がある。
「だからな、皮膚の色を消して、ぺりっと鱗を剥がせば、白い金魚ができる」
榊先輩が仄暗い笑みを浮かべた。
「やめてください」
ぞわっと首筋の肌が粟立つ。
「部分的にカミソリで鱗を剥いで、雪みたいに白くする天然記念物の金魚だっているんだぞ。……スッと走らせた刃に鱗を切られ、金魚は痛みに身悶えするが、人間は容赦なく鱗をはぎ取っていく。痛い。けれども、体を押さえつける指からは逃れられない。痛い。そうしてまた一枚、また一枚、鱗が剥がされていく……」
「やめてください」
何の怪談話だ。言葉の暴力だ。容易に想像できてしまうのが辛い。手で耳を塞ぐと、榊先輩が唇を吊り上げた。チェシャ猫に似た嗤い。面白がっている。何でもかんでも面白がる悪い癖だ。
「俺をからかって楽しいですか」
「楽しい。愉しい。面白い」
榊先輩には敵わない。現実逃避で垜小屋へ意識を飛ばす。遠目でも、金魚が十匹以上の群れになっていた。さっきより増えている。
ヒグラシが鳴く。黄昏が濃くなる。
「……それで、あの金魚のことですが」
あぁうん、と呟いて榊先輩が片膝を立てた。その上に肘を置き、頬杖をつく。
「たぶん、夏祭りですくわれなかった金魚だろうな」
線香で火傷したような、ちりっとした小さな痛みが胸に走る。
「すくわれなかった、の字面は何ですか」
掬われなかった、なのか。
救われなかった、なのか。
後者だとしたら居たたまれない。
「さぁな」
言葉選びに関しては執拗に細かい榊先輩が、はぐらかした。
「何だろうと、こうして在るんだ。どちらだろうと、然したる違いはない」
金魚は数を増し、垜小屋周辺だけでなく矢道にまで泳いでいる。十や二十ではない。下手したら百はいるかもしれない。手を伸ばせば届きそうな距離で、朱金の尾がひらめく。
不意に、ヒグラシが鳴き止んだ。
ふっと空が暗くなる。ギャアギャアと騒がしい鳴き声がする。
鴉だ。
七、八羽ほどの鴉が矢道の上を旋回していた。その内の一羽が、直線の軌道で急降下し、金魚の群れへ飛び込んだ。
金魚が驚き、狂ったように泳ぎ回る。逃げる小さな朱金を黒が襲う。鴉は鋭い嘴で一匹の金魚を捉え、ごくりと嚥下した。
喰われている。
他の鴉たちも次々に金魚の群れへと飛び込み、嘴で小さな朱金を捕まえる。
喰われている。
思わず弓立てへ走り、片付けていなかった自分の弓を手に取った。
「手を出すなよ」
榊先輩の声に体が静止する。
「手を出すなよ」
繰り返す。
「……でも、かわいそうじゃないですか」
黒に喰われる朱金。一方的な捕食に、どうしても見てはいられない。
ふん、と榊先輩が鼻を鳴らした。
「的外れな答えだな」
榊先輩の冷ややかな目に射られ、腹の底が縮み上がった。
「捕食される金魚がかわいそうなら、腹が減っている鴉はかわいそうじゃないのか」
「それは」
榊先輩の言葉は厳しくも、正しい。
「見ていることしかできない。そういうものだ」
淡々と彼女は言う。
その達観した声に、むくりと反抗心が首をもたげた。
「在るものが、在るように在るだけ――ですか」
「そう」
榊先輩は頷く。立てた片膝に頬杖をついたまま、逃げ惑う金魚の群れと、襲い掛かる鴉たちを眺める。その顔に一切の表情は浮かんでいない。
「……残酷ですね」
無意識に言葉が零れた。
「まあな」
揺らぐことのない榊先輩の声音。
――急に榊先輩の存在が遠く思えた。
これが経験の差なのだろうか。拳を握り締めて堪える。油断すれば悔しさに、突きつけられた無力さに、心が揺らぐ。
「鳴海」
「はい」
「お前は優しいやつだな」
不意打ちで面食らった。
「私はもう見慣れたよ。美しいものも、おぞましいものも、たくさんな。そういうものなのだと、容易く受け入れられる。……実際、そういうものなのだからな。自分が嬉しかろうが、悲しかろうが、それらは在るだけだ。いちいち心を掛けても、目の前のものは変わらない」
泳ぐ朱金と飛ぶ烏羽色から目を離さずに、榊先輩は続ける。
「此方と彼方。その境。世の間に立っていると、自分がどちらに属しているのか、わからなくなる。どちらにも属していないんだと、わかる」
どちらにも属していないなんて。
「そんなこと」
「ないか? 本当に?」
榊先輩の漆黒の瞳は、淡々と、鋭く、それでいて透明な光を湛えていた。
「勘違いするな。別に諦めているわけじゃない。嘆いてもいない」
小さく、榊先輩が唇を歪めた。
「私はいつだって傍観者だ。ただ、そう在るだけさ」
言葉が風となり、胸の内を吹き抜ける。
いつでも変わらない、冴えた眼差し。
「お前は違うみたいだな」
「え」
榊先輩がおもむろに立ち上がり、俺がいる弓立てのところへ来た。弓を手にする。ビィン、ビィン、ビィン、と三回弦を弾く。矢を射る前の彼女の癖。
打起しもせず、榊先輩は矢道に向けて弓を構えた。真っ直ぐに伸ばした弓手はぴくりとも動かない。凛とした姿勢、揺らがぬ視線。弽を着けずに、右手で弦を胸元まで引く。
放つ。
ビンッ、と甲高い弦音が大気を叩く。
その弦音に打たれたように、鴉たちが慌てふためいた。ギャアギャアと喧しく喚きながら逃げ去る。
「さっき、手を出すなって言っていませんでしたか」
榊先輩はつまらなそうに鼻を鳴らした。
「これで平等に残酷だ」
一瞬、頭の中が真っ白になった。
「どういう、意味ですか」
「助けもせず傍観していた。金魚にとって残酷だ。一方的に鳴弦で追い払った。鴉にとって残酷だ。これで等しく、双方から恨まれる」
どうして、何でもないようにそう言えるのか。
「祟られたりしませんか」
「さぁねぇ。売られた喧嘩は買う主義だけど」
物騒だ。
ビィン、と榊先輩が弦を爪引いた。
「鳴海。お前は、どう在りたい?」
「どう、って」
「――『一段深く考える者は、どう判断しようとも、どう行動しようとも、常に過つことを知っている』そうだ。悩みは尽きないな」
榊先輩の有り難い引用癖。有り難くて身にしみる。
「出典は何ですか」
「ニーチェの、何だったかな」
知っているのに、はぐらかす。気になるなら調べろということか。
「榊先輩は何でもわかっていそうですね」
「解らんよ。だから、こうして足掻いている」
ふっと榊先輩が微笑んだ。
「悩めよ、次代の書記係」
ばんっ、と容赦なく俺の背中を片手で叩く。
「痛っ。何するんですか」
「へぇ……これでぶれないとは。ちゃんと胴造りができるようになったんだな」
「お蔭さまで」
腕を回し、思い切り叩かれた背中を手でさする。飾らない榊先輩のじゃれ合いは嫌いではないが。
「でも、力はよくないですよ」
「心配無用。境界線上をふらふらするのは得意だから」
あくまでもスキンシップということか。
榊先輩の力の加減が絶妙で、痛みはすぐに消える。赤くなったり、跡が残ることもない。甘噛みの範囲を熟知している狡猾な狼のようだ。優しいのか、恐ろしいのか、わからない。
ヒグラシが鳴いている。黄昏時が絶頂を迎える。
空も、雲も、大気も、すべてが朱金色に染まった。
榊先輩が空を見る。すっと指を差す。
「そら、泳いでいくぞ」
群れた金魚が天へと還っていく。
朱金の奔流。
群れ自体が、ひとつの意志を持った、美しい金魚のようだった。
『金魚』




