18 天気
冊子を開く。
二年生の、翠緑滴る初夏の頃だった。
屋根より高い鯉のぼりが、気持ち良さそうに風の中を泳いでいる。
高校へ続く坂の途中でも、二、三カ所、鯉のぼりを揚げている家が見えた。五色の吹き流しが空に流れ、その下で親子の鯉が戯れている。
――帰りに、すず屋で柏餅を買って帰るかな。
端午の節句には早いが、油断していると旬はあっという間に過ぎていく。旬は十日なのだと、知識を授けてくれた榊先輩が、ちょうど坂道を下って来た。
「柏餅は白も良いが、草餅の方が好きだな」
「おごりませんよ」
さらりと思考を読まれた。榊先輩の勘の鋭さは天下一品だが、ただの勘で片づけられないことがある。
「見ればわかるだろ」
「いや、普通わかりませんって」
鍛錬が足りないなぁ、と榊先輩がぼやく。
「天の気を読め」
「……意味がわかりません」
格好良いその結論に辿り着くまでの、過程を教えてほしい。
「私が通った道を辿っても、つまらないだろ」
校門を抜け、ソメイヨシノから落ちてくる毛虫を避け、先に榊先輩が小道へ踏み入れる。校舎とテニスコートに挟まれた、日当たりのよい通路。この時期になると少し暑い。衣替えをし、半袖にして良かったと思いながら通る。
「つまるつまらないじゃなくて、言葉をすっ飛ばさないで教えてください」
「すっ飛んでいくほど、言の葉の活きが良いんだよ」
「誤魔化さないでください」
えー、と不満げに声を漏らすが、榊先輩は笑っている。とても機嫌が良い。
「天の気が良いからな」
榊先輩が鼻歌を歌う。聴き慣れたメロディー。『星に願いを』だ。
「――青い中に星を見るか」
唐突に、榊先輩が言葉を放った。
「星に願いを掛けるなら」
するりと声が滑り出た。お、と榊先輩の目が瞬く。
「上手いな」
「……いや、何だか、思い浮かびました。合ってます?」
褒められてしまったが、意図した言葉ではない。頷く榊先輩を見て、ほっと胸を撫で下ろす。
「知らないうちに、蓄積されていたものかもしれん。引出しは多いほうが楽しいぞ」
「何処に何を仕舞ったか、忘れてしまいそうです」
「なぁに、其れも楽しからず乎」
「榊先輩は無駄に引出し多そうですね」
にやっと榊先輩が笑う。
「薬味箪笥並みには」
薬も毒も揃っていそうだ。
渡る風が光り、何処も彼処も緑が香る。
こんもりとした〈紫苑の森〉は、目に沁みるような翠緑に溢れていた。
弓道場へ続く石階段の脇、紅梅と蠟梅も青々と枝葉を茂らせていた。鼻歌を歌いながら、榊先輩が行く。石階段を一段飛ばしで下っていく。衣替えして、制服の半袖から覗く腕が眩しい。ひとつに結った黒髪が尾のように揺れる。やはり機嫌が良い。
榊先輩が弓道場の玄関を開ける。
彼女の後に続いて、俺も弓道場へ入る。鞄を框に置く。雨戸を開けていないので暗い。ひんやりとした薄闇が広がっている。
神棚へ一礼をし、壁に掛った名札をひっくり返した榊先輩は、さっさと自分の弓を弓袋から取り出した。
「鳴海。暗い」
「はいはい」
単語をぶん投げないでほしいが、悲しいかな慣れてしまった。 神棚への挨拶を済ませて名札を返し、雨戸へと向かう。留め金を外して、雨戸を戸袋へと仕舞う。
「あっ、ちょっと待て!」
榊先輩が慌てたように声を上げた。
――ギャンッ
耳をつんざく悲鳴。
戸袋の中、雨戸に何かが当たった感触。
ざざざっ、と道場内に強風が吹いた。窓硝子が激しく震える。壁の横断幕が翻る。一陣の風は、開け放してあった玄関から逃げていった。
「痛って」
気づけば、左腕の手首から肘まで、すぱりと切れていた。
「鎌鼬だ。悪いことしたなぁ」
玄関先へ視線を投げた榊先輩が、ばつが悪そうに耳の裏を指で掻く。
「……鎌鼬、ですか。今の」
「そう」
「どうして、戸袋の中にいるんですか?」
「さぁ……? うっかり紛れこんだのかもしれん。傷、大丈夫か」
「しっかり痛いです」
赤い直線から、じわりと滴が滲み始めた。
ふと、違和感を覚える。
「鎌鼬の傷って、痛みも出血もないはずじゃ?」
「あぁ、うん。それはな」
榊先輩が弓へ弦を張った。ビィン、ビィン、ビィン、と三回弾く。邪気を払うその音が、するりと腕の傷を撫でた。痛みが軽くなる。
「伝承だと、鎌鼬は三匹一組なんだ。一匹目が人を転ばせ、二匹目が切りつけ、三匹目が薬を塗る。だから鎌鼬の傷は、痛まないし出血もない――のが普通だが、さっき出ていったのは、二匹目の鎌鼬だった」
「マジですか」
「マジマジ」
榊先輩が弓を弓立てに置く。両手を合わせて、俺へ頭を下げた。
「すまん。私の不注意だ」
「いやっ、榊先輩が謝らなくてもいいですよ。こんなところに居るって思わないですし。ちょっと外で洗って来ます」
靴を履き、玄関から外の水場へ回る。ひとつしかない水道の蛇口を捻り、流れ出る水で傷を洗う。ぴりっと沁みる。じわりと滲んだ赤が、透明に流されていく。飛び散る水滴が陽を白く弾き、濡れた弓道場の壁が木の香りを放つ。
ぱん、と手を打ち鳴らす音がした。
途端に大気が張り詰める。何かを鎮めるような、それでいて奮い起すような緊張感ある音。
柏手だ。
タオルの存在をすっかり忘れていたので、適当に腕を振って水気を飛ばす。矢取り道から弓道場の射位を覗く。
雨戸をひとつ開け、道場の縁に立った榊先輩が、矢道へ向けて柏手を打つ。
手を鳴らす度に、世界が鮮やかになっていく。矢道に生い茂るタンポポやオオバコなど草々の緑が、地面に落ちる草木の葉陰が、頭上に伸びた樹木の若葉が、空の高い青さと走る雲の白さが、天から差す光を受けて凛と浮かび上がる。
榊先輩が深く息を吸った。
彼女の口から旋律が紡がれる。細く、高く、緩やかな曲。聴き慣れたメロディー。
『星に願いを』だ。
だが、歌詞がわからない。不思議な響きを持った言語で歌っている。英語でもない。それは荒涼とした平原を渡る風のようで、どうしてか懐かしい。
ざあっと樹木の枝が揺れた。
迅風が矢道を駆け抜ける。ぱっと草葉の先が飛ぶ。一瞬、濃い青草の匂いが鼻をつく。最後の歌声と共に、風は空へと消えた。
こつん、と頭に何か当たった。
足元に落ちたのは、大ぶりのドングリだ。当たったところが痛い。はたして本当にドングリなのだろうか。そのサイズは枇杷の実ほどで、大きい。拾って見ると、笠と実が草で結んである。
「鎌鼬の薬だ」
ことなげに榊先輩が言った。
「三匹目のですか?」
「そう。開けてみろ」
草の結び目を解き、蓋である笠を取ると、ドングリの実の中には白い軟膏が入っていた。干し草のような、薬草のような、素朴な匂いがする。
「傷に塗っておけ。跡も残らず早く治る」
「頭が地味に痛いんですが。効きますか?」
「それは知らん」
残念。切り傷専用か。
とりあえず、指でひとすくい軟膏を取って腕の傷へと塗る。元通りにドングリの笠を草紐で結ぶ。
榊先輩が両腕を天に突き上げ体を伸ばす。欠伸をしている。
「ありがとうございます」
榊先輩へ頭を下げる。
「うん?」
欠伸で滲んだ涙を指で拭いつつ、榊先輩は首を傾げた。
「いや、鎌鼬から薬をもらってくれたんですよね」
「まぁ」
「ありがとうございます」
「そんな、律儀に恩義を感じるなよ。私の落とし前だし」
榊先輩が指で耳の裏を掻く。後ろめたい時の彼女の癖だ。
「でも、歌と引き換えにしたんですよね」
ほぅ、と榊先輩の目が大きくなった。
「さすがに、わかったか」
「なんとなく、ですけれど。あれって何語ですか?」
「スウェーデン語」
嘘だ。
「嘘じゃないぞ。失礼な奴だな」
「だけど、榊先輩は英語もできな――げふん。苦手じゃないですか」
言い直すなよ、と榊先輩が呆れたように呟いた。
「まるまる全部覚えたから歌えるんだ。話すことはできないよ」
苦手な英語も、そうやって覚えたらどうだろう。
「やだ。それとこれとは話が別」
「……勝手に読まないでください」
さらりと思考を読まれた。いい加減、勘のレベルを飛び越えている。
「鳴海もその内、できるようになるぞ」
いやいやいや、何の冗談だ。
「俺にはできませんよ。榊先輩じゃないんですから」
「できるさ。天の気を読めればな」
風が空へ木の葉を運んでいく。青い空に緑がひらひらと舞う。
道場の縁から、降り注ぐその天緑を仰ぎ見つつ、榊先輩は目を細めた。
『天気』




