17 華胥(かしょ)
冊子を開く。
二年生の、ひかり長閑き春の日だった。
日曜の朝陽が、弓道場の板張りの床をゆっくりと温めている。
雨戸をすべて戸袋へ仕舞えば、風が道場内に吹き込む。開け放した玄関から抜けていく。
ふるりと神棚の紙垂が揺れた。
道場の縁に立つ。
若葉を広げ始めた草々、タンポポやハコベ、オオイヌノフグリ、ホトケノザ、ムラサキサギゴケなどなどの上に、ほろほろと光が降り注いでいる。
目をやれば、馴染んだ距離二十八メートル先に垜小屋がある。的は二つ。部活休みの日曜日だから、たぶん俺以外誰も来ないだろうが、なんとなく出しておきたかった。
両手の指を組んで、薄青の空に向けて伸びをする。吹き渡る風は少し冷たい。それでも確かに冬は遠退いた。
何処からか、鶯の鳴き損ないの声が聞こえる。
ホーホケキョではなく、ケキョ、とだけ鳴く。それも短い。ケキョ、ケキョ、ホケキョ。息が続かないのかもしれない。
縁に座る。
ふと気紛れに、胡坐をかいてみた。弓道着で胡坐なんて行儀が悪いと思っていたが、どうせ誰もいない。振り返ってみても、自分の弓が壁に立て掛けてあるだけで、窓硝子の向こう、石階段を下って来る人の気配はない。
矢道へ向き直る。
春があるだけだった。
温かな光が顔の上に降る。
瞼を閉じると、陽光が白い闇となって視界を覆い尽くした。風が吹けば、光が揺れる。
ケキョ、と鶯が鳴く。
目を開ける。
頭の中にぼんやりとした春靄が棚引いている。日差しは温かい。風は冷たい。とろとろと瞼が重くなる。誰も来ない。麗らかな誘惑。
ホーホケキョ、と鳴いた鶯が黙り込んだ。
微かな違和感に、半分になった視界で空を見れば、さっと影が差す。羽根を広げた鳥影。羽ばたかずに風を捉えている。鳶ではない。一瞬見えた尾羽根は扇形だ。
そこまでで、眠気に負けた。
瞼が完全に落ちる。
目が覚めると、体が重かった。
板張りの床に腹を着け、羽を広げて伏せっていた。いつの間に寝てしまったのか。
春の日差しが心地良い。
起き上がり、ニ度ほど羽ばたいて翼を畳む。羽根の付け根がかゆい。嘴を突っ込んで羽繕いをする。白い陽光が玉となって羽根の上を滑っていく。それを見ると気分が良い。
かさり、と木の枝が揺れた。
羽繕いを止めて顔を向ける。楡の枝に小鳥がいた。鳩ではない。雀ほどの大きさの、面の下が白い。身を縮めている。
鶯か。
ごくり、と喉が鳴った。
羽を少し広げ、体を解く。床を強く蹴る。
飛び立つ。
羽音に気づいた鶯が、慌てたように宙に飛び出した。必死で羽ばたいている。より木の葉が茂った枝へ逃げ込もうとする。
だが、遅い。
伸ばした爪が、鶯の小さな体に喰い込むのがわかった。キョッ、と微かに啼く。それから静かになった。
草叢の拓けた場所に着地する。まずは両の羽を広げて獲物を隠す。辺りを窺うが、今のところ獲物を横取りするものの姿はない。
爪で掴んだ鶯から、とくとくと音がする。徐々に弱まっていく。いちばん美味しい場所を教えてくれる音。
爪で押さえたまま、嘴を突き立てた。
鮮やかな赫が鶯の体毛を濡らす。ばたばたと鶯は羽を動かすが、心臓を啄むと動かなくなった。
美味い。
心臓は、どんな鳥でも格別な味がする。
鶯は小さい。肉はすぐに食べ終えてしまった。
嘴で羽毛をぶちぶちと抜くが、腹の足しにはならない。仕方ないので、汚れてしまった嘴を拭う。
腹が空いている。
地を蹴り、空へと飛び上がる。
羽ばたく度に空の青が近くなった。気分が良い。
一声、鳴く。
蒼穹に鳴き声が吸い込まれる。翼で風を捉えれば、何処まででも飛べる。何処まででも往ける。
体に宿った熱が、ちりちりと胸を灼く。
往かねばならない。
何処へ。
わからない。
けれども、何処か遠くへ。
地に縛られていては、いられない。
飛び立ちたい。
ずっと、遠くへ。
ぐっと翼に力を込め、風を打つ。空の青が迫る。
さぁ。
突如として、笛の音が鳴り響いた。
神楽笛のような高く気高く澄んだ音が、大気を切り裂く。
音は羽根に絡みつき、そっちじゃない、と叱っている。地に目を遣ると、森に囲まれた古びた建物から音はする。振り切ろうにも、振り切れない。
高度を下げて屋根の上を旋回する。再び、笛の音。呼ばれている。
誰に。
わからない。
ただ、ひどく懐かしい。
応えて鳴く。誰かが呼んでいる。
笛の音が響く。
鳴き声と、澄んだ笛の音が重なった途端、強く引き寄せられた。
「よう」
弓道着姿の榊先輩が、俺の顔を覗き込んでいた。
「おはよう」
「……おはよう、ございます」
彼女が頷いてから身を引く。弓道場の高い天井と、古びた庇と、半分の青い空が見えた。
「鳴海が居眠りか。珍しいな」
榊先輩は手に小さな銀の笛を持っている。
「すみません……」
頭がぼうっとしているが、いつまでも寝転がってはいられない。手をついて体を起こす。
ぎょっとなった。
板張りの床の上に羽根が散らばっていた。十本は優に超える、たくさんの数。
その内ひとつを榊先輩が拾う。指で羽柄を摘まみ、くるくると回す。
「鷹とは、なかなかセンスあるな」
羽根は濃い茶色の縞模様をしていた。羽軸に対して非対称に羽弁が生えている。全長は手の平より大きい。
風切羽根だ。
散らばっている羽根すべてがそうだった。
「どういうことですか」
「そういうことかな」
「意味がわかりません」
「華胥の国へ飛んだんだろ」
「何処ですか」
「夢のことだ」
夢。
それにしては、やけにリアルだった。
自分が夢で鷹に成ったのか、鷹が夢で自分に成ったのか。
「……榊先輩が、呼んでくれたんですか」
「まぁな」
榊先輩が手の中にある小さな銀の笛を弄ぶ。
「ほっといたら、二度と起きなかったから」
さあっと全身の血の気が引く。
「冗談ですよね」
「さぁねぇ」
はぐらかされると、笑えない。
「全部、夢なんですよね」
床についた手を見、足袋を履いた足を確認する。足の爪先を動かす。指の感覚。夢の中では鋭い爪があったのに。
不意に鶯を仕留めた感覚が蘇り、手の甲で口元を拭う。
血は付いていない。
「鳴海の魂代が鷹ということは事実」
「は?」
聞き慣れない単語に体が強張る。
「たましろ?」
「そう。字面はこう書く」
榊先輩が的中の記録黒板の前へ移動し、白のチョークで漢字を書いた。
「魂の代わり。場所によって呼び方が異なるが、要は魂魄の形のことだ」
榊先輩が手に付いたチョークの粉を払う。
「しかし、名にし負う見事な羽根だな。一本貰ってもいい?」
俺が頷くと、榊先輩は満面の笑みを浮かべた。よくわからないが、嬉しそうだ。いそいそと棚の下から黄色い缶を取り出し、羽根と笛を仕舞う。
「あの、名にし負うって。俺の名前に鷹の字は入っていませんよ」
「それでも同音だからな。貴矢」
榊先輩に名を呼ばれ、ぞくっと背筋が凍った。何だろうか、この感覚は。いつまでも慣れない。
「貴矢、たかや、鷹矢。同じ音に同じ御魂は宿る。だから、北原と似ているんだ」
彼女の飛躍する脈絡に、頭がついていけない。
「俺と……北原先輩が似ているって、どういうことですか?」
畏れ多くも、弓道部の頂点に座する部長であり、生徒会長でもある北原先輩との共通点が思い付かない。
思わず神棚の壁に掛る名札を見てしまう。
北原先輩の名は、貴史だ。
「確かに、貴の字が同じですけど……」
「矢は音読みで『シ』。同音だよ」
息を吸い損ねた喉がひゅっと鳴る。空気の冷たさに刺激され、咳き込む。
大丈夫か、と尋ねる榊先輩に涙目のまま頷いて見せた。
「あいつの魂代は隼だけどな。高みを好むのは、あいつらしい」
たかし。は、高し。
「――隼は、天に上り飛び翔り」
榊先輩が何かの一節を諳んじた。
「ちょ、ちょっと待ってください。北原先輩の魂代を見たことがあるんですかっ」
呆れたように、榊先輩が目を眇めた。
「何を今更。夢を結んだことがあるだろうに」
言われて思い出す。そうだった。三人で同じ夢を見たことがあった。
「今度、見せてもらえ。ついでに飛ばし方も教えてもらえ」
「飛ばし方、ですか」
「そう」
「……魂代になった時の飛び方、じゃないんですね」
にやにやと笑みを浮かべる榊先輩に、何となく察した。今回は無意識に魂代を飛ばしてしまったから、ちゃんとした方法を習えということか。
「榊先輩は、教えてはくれないんですね」
「あぁ、うん。最初っからできたから、やり方が言葉で説明できない」
「マジですか」
「マジマジ」
弓道でも優れた才を有するが、摩訶不思議な怪異の道でも別格か。
そうして、ふと疑問に思う。
「榊先輩の魂代は何ですか。やっぱり鳥ですか?」
ぱちくりと、彼女の漆黒の目が瞬いた。次の瞬間には面白がる光が閃く。
「さぁねぇ。見事言い当てたら、ご褒美に焼き鳥でも奢ってやろうか?」
反射的にごくりと喉が鳴る。唾を飲み込む、その無意識な反応に我に返った。
引き摺られている。
榊先輩がにやりと唇の端を吊り上げたので、思わず睨む。
「悪趣味です」
「知ってる。冗談だよ」
「笑えません」
そういえば、鶯が鳴かない。
『華胥』




