16 天の階(あまのきざはし)
冊子は続く。
二年生の、卯月の初日だった。
昨晩の春嵐で、ものの見事に桜が散った。
正門から昇降口の間に植えられたソメイヨシノの下が、薄紅の絨毯になっている。散った桜の上を歩いて朝練に向かう。
昨晩から気掛かりがあって、自然と早足になる。
枝や幹が太いソメイヨシノとは違い、まだ若い寒緋桜は強風に耐えられたのだろうか。
校舎とテニスコートに挟まれた小道を抜け、〈紫苑の森〉の領域に入る。生徒に開かれた入り口、整備された小さな庭園といえども森の一端には変わりない。東屋よりも奥まった場所に、ひっそりと寒緋桜が佇んでいた。
気づいたのか、寒緋桜が頭を下げる。
伏し目のまま、ゆっくりとその場で回って見せた。紅色ではなく、若葉色になった振り袖の袂が揺れる。無事な様子に、ほっと胸を撫で下ろす。
瞬きをすると、寒緋桜はいつもの姿に戻った。
風雨に洗われた清々しい大気に枝を伸ばし、葉を青々と茂らせている。雲間から差し込む陽光は静かに降り注いでいる。踵を返して、庭園を出た。
打ち水をしたような石階段を下りて、弓道場に顔を出す。道場の縁に、弓道着姿の榊先輩が立っていた。
「おはようございます」
声を掛けると、榊先輩が振り返った。ひとつに束ねた髪が尾のように揺れる。
「おはよう、鳴海。寒緋桜に怪我はなかったか?」
「無事でした」
それはなにより、と榊先輩が頷いた。どうして寒緋桜の様子を見に行ったことを知っているんですか、などとは問わない。いつもの勘か、もしくは俺がわかり易過ぎるかだ。
「そりゃ、わかるさ」
「……だからといって、読まないでください」
けらけらと笑う彼女の向こう、垜には的が三つ掛かっていた。
「そのうち北原が来る。午後は五、六人になるかな」
「それは勘ですか? 事前リサーチですか?」
「さぁねぇ」
勘だろうが何だろうが、榊先輩が来ると言ったら来る。昼を食べたら的を出したほうが良さそうだ。
道場に上がり、神棚へ頭を下げる。
壁に掛った名札を返して、朱文字の在部にする。弓置きから自分の弓袋を探し、弓を出す。弦を張る。ビィン、ビィン、ビィン、と三回弦を弾く。弓の機嫌は良い。
「射込まないんですか?」
射位ではなく、道場の縁に立つ榊先輩へ声を掛ける。うん、と視線は空へ向けたまま榊先輩が頷く。
「もう少し」
何を見ているのだろうか。
広がる空に、雲が多い。山のように連なった灰色が、ところどころ薄くなっている。僅かな雲の切れ間から、蒼い空が覗く。
「もう少し」
何を待っているのだろうか。
「先に着替えて来い」
先輩の言うことは絶対。ましてや、師匠である当代書記係の言うことだ。従うのが道理。
入口の鍵掛けから男子部室の鍵を取る。ちりん、と付けられた鈴が涼やかに鳴った。
弓道着に着替えて道場へ戻ったが、榊先輩は相変わらず空を見上げていた。
「昨日の嵐は何だったんですか」
前置きもなく訊ねてみた。
「『春は獅子のようにやって来て、子羊のように去っていく』」
前置きもなく答えてくれた。聞いたことのある気がするが、何か違うような気もする。
「それ」
「どれですか」
獅子か、子羊か。
「違う違う。違和感のほう。私も引っ掛かるんだけど、それが何だかわからない」
「……だからといって、読まないでください」
勝手に思考を読まれることには慣れたが、それでも気持ちが良いものではない。元来の鋭い勘と、諸々の碌でもない術の併せ技。
榊先輩が俺を見て、にやにやと笑う。
「素直で真面目で大変よろしい」
「とても読み易いってことですか」
「そう」
「褒めているんですか? 貶しているんですか?」
「さぁねぇ」
両方か。ため息が出る。
榊先輩と同じように、道場の縁に立ってみた。
矢道には、冬を越した雑草たちが葉を広げていた。地面にへばりつくようにして、タンポポが生えている。短い茎に多くの葉が密集し、そこに昨晩の雨が溜まっている。しっとりとした青草と土の匂い。空に雲が多いせいで暖かくはないが、それでも凍える寒さは遠退いた。飛ばされて来た桜の花弁が、あちらこちらで薄紅の吹き溜りを作っている。
さっぱりとした大気に、気持ちが良い。
「獅子吼は春の禊。清められた」
榊先輩が腕を組んだ。仕上がりを確認するかのように、周囲を見渡す。偉そうだ。
「獅子って、あの獅子ですか」
鬣が立派なライオン――ではなく、いや、元はそうなのだが――黄色い角無しの、神社にいて狛犬と対になっているもの。口が開いている方。神獣だか、幻獣だか、神使だか。
「その獅子だよ」
昨晩の風の音。豪、と哮吼が耳に甦る。
「獅子が禊をするんですか」
「暦とは別の、区切りがあるからな」
年度、と榊先輩が呟く。
「便宜上に設けられた期間だが、それでも人にとっては大きな節目だ。……そういえば、無事に進級おめでとう」
言祝ぎに余計な冠がついていたが、ここは素直に頭を下げる。
「ありがとうございます。何事もなく二年生になりました。榊先輩も、本当に、ご無事に、進級おめでとうございます」
「……悪意がある気がする」
榊先輩が顔をしかめた。先に仕掛けたのはそっちだろう。
「理系でも、英語は切り離せませんから」
追討ちを掛けると、ぷいっと榊先輩はそっぽを向いた。
理系クラスに在籍するくせに、現代文、古典、日本史がトップクラス。理系科目では生物が得意。数学は平均。代わりに、英語のリーディング、ライティング、どれを取っても壊滅的。英語だけ補習の常連だと、北原先輩からこっそり聞いた。
「かわいくないな」
「男にかわいらしさを求められても。困ります」
「そういうところが、かわいくない。そんなんじゃ、人間の彼女も出来ないぞ」
「余計なお世話です」
寒緋桜の件を蒸し返さないでほしい。迂闊だったのは認めるが。
「鳴海も二年から理系クラスなんだろ? 笑えるほど女子が少ないぞ。覚悟しておけよ」
「何の覚悟ですか。意味がわかりません」
「あぁ何だ。新入生、年下狙いか」
「違います」
へぇー、と榊先輩は勝手に納得している。榊先輩こそどうなんですか理系クラスで男子に囲まれて、などとは言い返さない。それはやめておけ、と勘が告げている。自ら藪に手を突っ込む趣味はない。
ため息をついて空を見上げる。丁度、雲が切れて光が差し込み始めた。
矢道に白い光が降る。雲間から地上へ、一筋の光の直線が現れる。白い光は段々と質量を増し、線が帯のように広がった。白く輝く光の筋。
「来た」
「何がですか」
「ヤコブの梯子」
天へと伸びる白き光。
榊先輩が待っていたのは、これだったのか。
「ヤコブって、聖書ですか?」
「旧約聖書の創世記、二十八章十二節。ヤコブは夢の中で、天使たちが光の梯子を使って上り下りしている光景を視たそうだ。だから、天使の梯子とも呼ばれる」
聖書の記述まで精通しているのに、どうして英語が不得手なのか。どちらも外国のものだろう。
「本当は薄明光線と言う。太陽光が大気中のエアロゾルにミー散乱して、経路が見えるようになった自然現象」
いきなり専門用語が出てきた。こういうところが理系だ。
白い光の帯は、今や触れられそうなほど明確な輪郭を有していた。
「梯子というより、階段みたいです。天へ続く階段」
「天の階か。その名も良いな」
白い光の筋へ榊先輩が手招きする。矢道の真ん中辺りで揺れていた光の筋が、するする近づいてきた。ぴたりと榊先輩の目の前で止まる。
何の憂慮もなく、榊先輩が白い光に左足を乗せた。白い足袋が光の階を踏む。
榊先輩は古礼に則り、同じ段に右足を乗せた。また先に左足を次の段に乗せ、右足を揃える。そうして一段一段、昇っていく。
「榊先輩……」
道場の縁から離れ、光の階を上へ上へと昇っていく。白い階段を昇っていく。
「榊先輩?」
白い階段。光の階。天使の梯子、ヤコブの梯子。
どうして、昇れる。
足を動かして段を踏む。その自然な動作に心臓が飛び跳ねる。
条件が重なって、光の経路が見えるようになっただけだ。本当に光が物体に成ったわけではない。
どうして、昇れる。
有るか無しかの笑みを浮かべて、榊先輩は階を進む。
――このまま、戻って来ないかもしれない。
恐ろしい予感に腹の底が冷たくなった。
「榊先輩っ!」
がらっと、弓道場の引戸が開いた。入口を振り返る。
北原先輩だった。
「何だ、鳴海? 怖い顔して」
眼鏡の奥で、濃茶の目が不思議そうに瞬いている。
「榊先輩が!」
「榊がどうした」
三和土を踏み、北原先輩が身を乗り出す。
「……おい。矢道で、何やっているんだ」
北原先輩の問いただす声が重い。
矢道の地面の上に榊先輩が立っていた。気まずそうに右手で耳の裏を掻いている。
「ちょっとね」
光の階は消えていた。
「馬鹿か。雪駄も履かないで外に出る奴があるか」
北原先輩が二足の雪駄を突き出した。榊先輩のと、俺のものだ。視線だけの命令を汲み取る。
「予備の足袋はあるんだろうな」
湿った地面に立てば、当然のことながら足袋は汚れる。北原先輩へ、榊先輩が大きく頷いて見せた。
「なら、いい」
いいのか。それでいいのか。
「勿論、足袋を履き換えて戻ってきたら、説教だ」
「えぇー」
不服そうに榊先輩が声を漏らした。北原先輩は聞こえないふりをして、道場に上がる。神棚に一礼して、名札をひっくり返す。
本当はいけないことだが、北原先輩――部長命令は絶対だ。道場の縁から雪駄を履き、距離を短縮して榊先輩を迎えに行く。
「ちゃんと戻って来たのに」
「俺の心臓をいじめるのはやめてください」
「鍛えられて良いだろ?」
「やめてください」
屈んで、榊先輩の前に雪駄を置く。
榊先輩は片足立ちになり、足袋を脱いでから雪駄を履いた。ぷらぷらと足袋を手で持ったまま、天を仰ぐ。
高く遠い空の上で、白い光の筋が揺れていた。
『天の階』




