15 にじ(下)
ーーにじ(中)から続き
気がつけば、垜小屋が見える場所に立っていた。
周囲を見渡して、矢道でないことを確認する。うっかり射殺されたら笑えない。
振り返ると、二股に分かれた榊の大木があった。
「よう。おかえり」
凛とした声が降る。
見上げれば、地面から二メートルほど。緩く曲がった幹の上に榊先輩がいた。幹に背をあずけて、俺を見下ろしている。
「……そんなところで、何やってんですか」
袴に雪駄で登ったのか。登ったんだな。
「鳴海こそ。そんなところで、何をやっている」
すべてを見透かした上で、それでも問うてくる。
「二字を書くものは見つかったのか」
「……いいえ」
お前なぁ、と榊先輩に呆れられた。
「無自覚もそこまでくると天然記念物だぞ。その手に持っているものは何さ」
言われて初めて気がついた。右手に常緑の葉がある小枝を持っていた。
榊だ。
――あの子も自分に書いたよ。
先輩の言葉が脳裏に甦る。
「榊先輩は、これに二字を書いたんですね」
冴えた漆黒の眼差しが、静かに見下ろしている。沈黙は肯定。
「決めました。俺も――」
ざっ、と榊の大木の葉が揺れた。葉擦れの音が、さやさやと鳴る。風が天へと渡る。風の行く先を見届けて、榊先輩が呟く。
「――聞き届けた」
目を細めた、淡い微笑み。きゅっと心臓が締め付けられる。
「よっと」
何を思ったのか、榊先輩が幹から飛び降りた。
「ちょっ、えっ、はぁあっ?」
結った黒髪が尾のように靡く。ばさり、と袴の裾が鳴る。榊先輩は膝を曲げて、危なげなく地面に着地した。嘘だろ。
「どんな身体能力してんですか……」
ふふん、と何故か勝ち誇ったかのように、榊先輩が鼻で笑う。
「こんなもん、コツだコツ。着地の衝撃さえ逃がすことができれば、二階からだって平気だぞ」
「やめてください。絶対にやらないでください」
ばくばくと心臓が驚き狂っている。えー、と榊先輩は不服そうだ。
「本当、マジ、何なんですか……」
意味がわからない。言うこと、やること、自由奔放すぎる。
「何って、先輩。当代書記係。お前のお師匠様だぞ」
思わず天を仰いだ。
「あー……そうですね。そうなりますね」
「そうだろう」
にやっと榊先輩が笑った。腕を組んで偉そうだ。偉いのか。――ああ、天高くに真っ直ぐな虹が出ている、と頭の片隅で呟いてみる。現実逃避。
「あ、本当だ」
太陽を避けるように手を翳して、榊先輩が空を見上げた。
風が蒼穹に描いたのか、横に長く真っ直ぐ伸びる虹。
上から赤、橙、黄、緑、青、藍、紫にちゃんと分かれている。
「環水平アークだな」
「何ですか、それ」
「水平虹とも呼ぶ。ほら、太陽と同じ方向に出ているだろ。光学現象だから、乱暴に言うと虹と同じ」
「どうしてそんなこと、知ってるんですか」
「知っていた方が面白いだろう」
まぁ、確かに。そう言えば、榊先輩は理系クラスだ。
「知ってたか? 虹は七色じゃないんだぞ」
「七色じゃない?」
榊先輩が頷く。
「古くは五色、南の方だと二色だったりする。外国だと、八色なんて国もあるな」
「そうなんですか?」
てっきり七色と、決まっているものだと思っていた。
「そもそも、個人によって見える色に幅が在るし、男女で色彩を見分ける感覚が違う。男性より女性の方が、色を多く見分けることができるという研究結果もある」
こうやって同じ虹を見上げていても、俺と榊先輩とでは見ている色が違うのか。
同じものでも、違く見える。
それは、何となく、悲しいような気がする。
「別に、どう見えようとも関係ない。在るものが、在るように在ればいい」
唐突に背中を片手で強く叩かれた。不意打ちでよろめく。
「何だ、胴造りがなってないなぁ」
けらけらと榊先輩が笑う。
「うるさいです」
軽やかな風が頬を撫でる。
そのまま雨戸が開け放たれた弓道場内に吹き込み、神棚の紙垂を揺らした。
俺を置いて、さっさと弓道場へ行ってしまう榊先輩の背中を追う。玄関で追いつき、一緒に道場へ上がる。
「これ、どうしたらいいですか?」
手にした榊の小枝を示すと、榊先輩が手招きした。畳の上に文机が出ていた。その上には硯と筆が置かれている。
「あ、名札も持ってこい」
言われた通りに、壁に掛った自分の名札を取る。文机に置き、板張りの床に正座する。文机を挟んで榊先輩と向かい合った。
「俺の名札って、榊先輩が書いたんですよね。書記係だから」
「うん? ああ、そう」
畳の上に正座し、硯で墨を磨りながら榊先輩が頷いた。ふわり、と落ち着く墨の匂いが漂う。
「ん? 何で知ってる」
「先輩に聞きました。三年生の」
〈紫苑の森〉で会った彼女のことを話す。柔和な声の、凪いだような穏やかなひと。
「――あのひとに会ったのか」
ひどく驚いたように、榊先輩が目を瞬かせた。
「よく鬼に喰い殺されなかったな」
「えっ」
体が凍りつく。頭が言葉の処理を放棄する。
「……何て、言いました?」
「よく鬼に喰い殺されなかったな」
墨を磨る手を止めず、真っ直ぐに俺を見て、榊先輩は繰り返した。
「鬼って、鬼ですか?」
角や牙が生えた異形のもの。金棒を持って、虎の皮を身に着けたもの?
「鬼は鬼でも、鳴海がいま想像しているものより、全然、まったく、かなり格が違う。神様って呼ばれるほう。あとで辞書引いとけ」
「……はい」
〈紫苑の森〉には鬼神までいるのか。最早、何でも在りだ。
「よし、いいだろう」
硯の海に、闇色の黒が生まれた。榊先輩が筆――使い込まれた古い小筆――の先を磨った墨に浸す。じわり、と穂先が黒く染まる。
「ほら」
小筆を手渡された。
「どの葉でもいいから、名を記せ」
榊先輩に言われ、小枝の一番大きくて書きやすそうな葉に名を書いた。漢字二文字が、黒々てらりと光る。
「これ、どうするんですか?」
「まぁ見てろ」
榊先輩が受け取った小筆を硯に置く。
文机にある俺の朱文字の名札を、指でとんとんっと軽く叩く。ひっくり返して、また裏の朱文字側も同じように指で叩く。
「ん?」
違和感を覚えた。
どうして、両面とも朱文字なのか。
榊先輩と目が合う。にやりと彼女は嗤った。
「〈こっち〉にも〈向こう〉にも、在るように成ったんだ」
「はぁっ?」
意味がわからない。
榊先輩は、榊の小枝を手に持つと、そのまま葉の先から名札に入れた。名札は閊えることなく、するすると榊の小枝を呑み込んでいく。
「うん。完了」
ほい、と榊先輩が机上の名札を投げてよこした。慌てて受け取る。ひっくり返すも、いつもの名札と変わりなかった。片方が朱文字、片方が墨の黒。
「榊の小枝はどこにいったんですか」
「どこでもない狭間へ。繋ぎ止める〈結び〉に成った」
わかるような、わからないような。
「どういうことですか」
「そういうことだよ」
「意味がわかりませんよ」
そうして、ふと疑問に思う。
「名札の両面が朱文字――在るになるなら、両面が不在にもなるんですか?」
「ほう……」
面白がるように、榊先輩が目を眇めた。
冴えた漆黒の眼差し。
宿る鋭利な光が、何故か冷たい。真っ直ぐに見つめられ、心臓が飛び跳ねる。ぶるり、と体が震える。背筋が凍る。
「普通の部員はならない。そうなるのは、書記係のみ」
――この先は、聞かない方が良い。
頭の中で警鐘が鳴る。
「そうですか……」
でも、気になることがある。
それを知りたい。
やめておけ、と身の内で何かが囁いた。常識というヤツかもしれない。人の領域から外れるからやめておけ、と忠告してくれる。
でも、知りたい。
頭の中の警鐘は鳴っている。
やめておけ。
でも、知りたい。
やめておけ。
でも、知りたい。
漆黒の冴えた眼差しは、ただ静かだ。拒んでも、迎え入れてもいない。
知らなくても、障りないことなのだろう。
知っていても、障りないことなのだろう。
虹の色の数のように。
――けれども、知りたい。
冴えた眼差しを見返す。
「どんな時になるんですか」
ふっと、榊先輩が唇の端を歪めた。
「鬼籍に入った時」
『にじ』




