14 にじ(中)
ーーにじ(上)から続き。
当て所なく〈紫苑の森〉を歩く。
道なき道、草叢へ足を向ける。
ざわざわっと草叢が横に避け、通してくれるお蔭で、道がなくとも歩きやすい。地を這う木の根も、うごうご動いて場所を空けてくれる。ちょっと申し訳ない。今日は呼ばれてもいないのに。
そう言うと、俺の後ろを歩く野襤褸菊が首を横に振った。
「お気になさらず。藤の翁様が話を通して下さりました。存分に、行きたいところへお行きください」
ふんわりと軟風が吹いた。
木々の葉が細かく震える。足元の蓬が控えめに香りを立たせる。
足を止めると、はらはらと、頭上から薄紫の花弁が降ってきた。何の花かは知らない。地に降り着くと、花弁は跡形もなく消えた。
榊先輩もよく来るのか、と訊ねる前に、野襤褸菊が先んじる。
「此所では、御名を口にしないほうが賢明かと」
「どうしてだ?」
「名には力が在ります。何が聞いているか、わかりません」
何がとは何だろう。野襤褸菊の細い目が、じっと俺を見つめている。
一つ咳払いをして、言い直す。
「あの人もよく来るのか」
「はい」
「その時も、野襤褸菊が案内するのか?」
「いいえ。呼ばれれば参りますが、弓のお方は自由に行かれます。あの方の歩みを阻むものはございません」
勝手知ったる余所の領域、ということか。
「よく行く場所は?」
「様々でございます」
「うーん」
困ってしまった。藤の翁は、探す場所は俺自身がもう知っている、と言っていたが、皆目見当がつかない。
「――お困りですか?」
柔和な声が聞こえた。
樹皮が斑になった大木の陰から、ひょっこり女子生徒――制服の学年章を見るに三年生――が現れた。そよそよと渡る和風に、肩ぐらいの髪が揺れている。
「にじを書くもの、見つかりました?」
そう言われて、どきりとする。初対面なのに、こちらの事情を知っている。
「まだ、です」
「あらあら、まあまあ」
ふふふふ、と彼女が目を細めて微笑んだ。不思議なひとだ。〈紫苑の森〉にひとりでいる。ふと、野襤褸菊の姿が消えていることに気がついた。
「遠慮しなくてもいいのにね?」
彼女が足元を見る。黄色い花を咲かせた野襤褸菊が、深々とお辞儀した。
「矢の君って、きみだよね?」
そう言えば、今更ながらに、そう言われていた気がする。
「ええっと。弓道部一年の、鳴――」
「ストップ。ここでの名乗りは、気をつけて」
手で制された。俺が声を飲み込むと、ふふふふ、と彼女は笑い、立てた人差し指を自分の唇に当てた。内緒の仕草。
「ええと、あなたは?」
「ただの通りすがりです」
いやいやいや、〈紫苑の森〉を通りすがる女子生徒がいるものか。
「先輩って呼んでね」
「はぁ」
同じ高校の三年生なら、先輩でも間違ってはいない。
「先輩は、何しているんですか」
「後輩君が困っていそうだったから、来ちゃった」
有り難い。本当に有り難い。これぞ天の助け。
「あんまり迷うと、還れなくなっちゃうからね」
「ありがとうございますっ」
最敬礼をする。天女か女神か。
ふふふふ、と先輩が笑う。
「あの子に、何て言われて来たの?」
あの榊先輩をあの子呼ばわり。とても新鮮だ。
「えっと、にじを描くものを探して来い……と」
「それだけ?」
「ええ。紙じゃ駄目なのか聞いたら、面白くないという理由で却下されました」
「あらあら、まあまあ」
あの子らしい、と先輩は肩をすくめた。
「紙でも何の問題はないけれど……」
「そうなんですかっ」
面白くない、という本当に個人的な意見で却下したのか。
「でも、〈紫苑の森〉のものの方が、確かに縁は結びやすくなるの。そういう理由もあるよ」
だったら、先にそう教えてほしかった。
「悪気はないと思う。ちゃんと後輩君のことを考えているから、許してあげて」
お願い、と先輩に両手を合わせて上目遣いされると、頷くしかない。
「いいですよ。言葉を省くと言うか、過程をすっ飛ばすのは知っていますから」
「ふふふ。ありがと」
よく笑うひとだ。その笑顔を見ているうちに、こちらの心もふんわりと穏やかに凪いでいく。このひとの前で怒るとか無理かもしれない。
「先輩も、にじを?」
そう訊ねると、彼女は頷いた。
「うん。わたしも書いた。ちなみにね、あの子の代の名札を書いたのは、わたしなの」
神棚の壁に掛る部員の名札。木の札に達筆な筆跡。墨の黒が表なら不在、朱が表なら在部という約束事がある。
「名札は代々、書記係が書く決まり」
「ええー……、そうなんですか」
書記係になると、名札を書かなければならないのか。マジか。
「俺、字は上手くないです……」
「平気、平気。上手とか下手とかじゃないよ。心を込めて書くことが大事なの。きみならきっとできる」
「そうでしょうか」
「うん。だって、わたしたちの後輩だから」
はっきりと先輩が断言した。
「そういうものですか?」
「そういうものですよ?」
確信を持った疑問形は、ずるい。
そういうものだと納得してしまう。ふふふふ、と嬉しそうな笑顔付き。これには負ける。
「……鋭意努力します」
「よろしい」
偉ぶって腰に手を当てるも、先輩がやると可愛らしい。
「さて、後輩君のにじですが。確かめたいことがあります」
「何でしょうか」
先輩が指を二本立てて、俺へと突き出した。
「後輩君の名は、漢字で二文字だよね?」
「ええ。まぁ、はい。……んっ?」
自分の思い違いに、初めて気づく。
「ちょっと待ってください。にじって、二字ですか!」
きょとん、と先輩が目を丸くした。
「うん。そうだよ」
かっと頬に血が上るのがわかった。
「もしかして、虹だと思ってた? 光の、色の?」
「……思ってました」
恥ずかしい。穴が在れば入りたい。
「掘ろうか?」
「いやっ言葉の綾ですスミマセン」
慌てて首を振る。不可思議な〈紫苑の森〉だ。何が起こるかわからないので遠慮する。
にじ、虹、二字。
同音異義だ。
にやにやと笑う榊先輩の顔が思う浮かぶ。
絶対、わざとだ。確信犯だ。
「二字を書くって、実名を奉ること。ここの弓道部だと書記係になるってこと。知ってた?」
「……知りませんでした」
勘違いを正すことを含んでの、見習い試験か。
「それで、後輩君はどうする。何に名を書く?」
「うーん。先輩は何に書いたんですか」
さっと先輩が大木の陰に隠れた。顔だけ覗かせる。
「内緒」
何故だろう、この敗北感は。
ふふん、と榊先輩に鼻で笑われた時と似ている。一生懸っても敵わない。
「なら、榊先輩は何に書いたんですか?」
「あの子も自分に書いたよ」
思考が停止する。
意味がわからない。
否。
何となく、わかるような気がする。
本当はわかったような気がする。でも、わかりたくない気がする。理解してしまうと、何かの一線を越えてしまう不安。予感。
「そうすると、自分が〈結び〉になっちゃうよって言ったけど、それでもいいって」
ぞわっと総毛立った。背筋が凍る。
――誓約。
脳裏にその言葉が閃いた。二字よりも重いもの、いにしえのもの。
「……俺には、そこまでの、覚悟はありません……」
声はか細く消えていく。うん、と先輩が頷いた。大木の陰から出てくる。
「大丈夫。気負わなくても、成るように成るだけだから」
先輩が目の前に立つ。真っ直ぐな目で俺を見上げる。
「在るように在る、ではないんですか」
「それはそれ。これはこれ。理はひとつじゃない。だから、面白いの」
ふふふふ、と笑う先輩につられ、じんわりと腹の底が温かくなる。ほろほろと、体の強張りが解けていく。
「書記係のひとは、何でもかんでも面白がりますね」
「後輩君もそのうち、そうなるよ」
そうだろうか。
そうだろうとも、と先輩が鷹揚に頷いた。
ざあっと、風が立つ。
先輩が風に靡く髪を手で押さえる。木々の葉が舞い乱れる。野草が転びそうになり踏み止まる。
「――風の帰し方を行けば、探しものは見つかる」
遠く、遥かなるところを見つめて、先輩が言った。
「また、おいで」
柔和な声と、凪いだような穏やかな微笑みに背を押される。
先輩に頭を下げ、風の還る方向へ足を向けた。
ーーにじ(下)へ続く。




